「旅行に行かないか? 二人で」

俺の中に、直接その声が響いた。ノイズが完全に消し去られていて、歪み一つない声。あまりにはっきりとしたそれに、一瞬、隣に三郎がいて耳元で話されたのかと思うくらいだった。それまで聞き取るのもやっとだったのに、その言葉はラインを飛び越えて俺の元に一気にやってきた。嵐が唐突に止んだみたいだった。----------------内容は、俺の中に嵐を生んだけども。

「旅行?」

 声が微妙に上ずってしまい、不審に思われないかと心配したが、三郎は特に疑問を持つこともなかったのだろう、声音に変化はなかった。

「そう、旅行」
「いつ?」
「夏」
「夏ってもう夏だろ」

むしろ夏の終わりだ、と突っ込みたくなったが「本当はもっと早くに誘おうと思っていたんだがな……兵助、忙しいかと思って」と様子を伺うような三郎に別の言葉を返す。

「夏休みが一番暇なの知ってるだろ?」

しがいない高校の国語教師。部活動の顧問もしているが、文芸部だなんて黴の生えそうな活動しかしてないもので。夏休み中も特に集まる予定は聞いてなかった。他の時期は休むことが不可能だが、唯一、まとまった休みが取れるのは生徒の夏休み期間であることを、長年のつき合いである三郎は知っているはずだった。だから、そう尋ねたのだが、

「そっちの仕事はな。……そうじゃなくて、」

空隙と濁された言葉尻。言いにくさを唇で噛みちぎったような、中途半端に作られた沈黙の理由を、俺はすぐに悟ることができた。----------毎年、夏休みを利用して、俺は小説を投稿するために書いていた。そのことを案に懸念しているのだろう。
高校くらいから、一応、小説家志望だった俺は生活の為に教職に就き、けれども、その夢を諦めることもできず、そのまま、ずるずると今日まで来てしまっていた。

「あー、いいよ、別に」
「何で?」
「……今は書いてないから」

へぇ、と風を掠めたような相づちが耳に届いた。ひどく他人事の響きをしいた。薄皮一つ繋がることのない冷たい冷たい淋しさは、雨に打たれて重たくなった服を着ているようだった。
どうして、という言葉は続かなかった。そのことに安堵すべきなのか、それとも残念がるべきなのか、今の俺には見当がつかなかった。ただ、虚を埋めるために、もう一本、煙草に手を伸ばす。紙巻を柔く噛み、耳と肩に携帯を預けて吸おうとして、

「まぁ、とにかく、飛行機のチケットは送ったから」
「は?」

銜えた煙草を取り落としそうになった。

「もう届いている頃だと思う」

すでに決定事項だったんじゃないか、と用意周到なことに半ば呆れながら、ライターで火をつける。じりじりと口腔を痺れさせた煙を胸に送り込みながら、三郎らしいとも思った。

「まぁ、どうしても無理にとは言わないが」

そうやって最終的な逃げ道を用意してくれているところも。

「いや、いけると思うけど……いつ?」
「出発は八月二十五日」
「ずいぶんギリギリだな」

すると「二泊三日だ。十分だ間に合うだろ」と、新学期が始まってしまう、というこちらの心を見透かしたような言い様を三郎はしてきた。電話から伝わってくる空気が、ひそ、とした笑いを含んでいる気がして、俺は銜えていた煙草を外し、一つ咳払いをすると、話題を強引に振り切る。

「で、場所は? どこ行くんだ?」
「モロッコ」

どう考えたって二泊三日でいけるような場所じゃないと頭では分かっていたが、そのまま受け入れるのを拒絶した唇が自然と「はぁ?」と跳ね上がる。

「冗談だ……さっきまで、『カサブランカ』を見てたからな」
「ハンフリー・ボガートの?」
「イングリッド・バーグマンの、な」

彼によってわざわざ訂正された女優の、きっぱりとした光と影に彩られた美しい面もちが脳裏に座を占めた。それまで、俺の頭の中に居座っていたトレンチコートの襟を立てて紙巻き煙草の彼はあっさりと追い立てられる。
ここで挙げた名の違いに、ひそ、と煙草を含んだ口の先で嗤ってしまった。昔から俺と三郎は似ている、とよく周囲から言われたが、決定的に違う。--------------三郎は女が好きで、俺は男が好き。
ただ、それだけのことなのだが、それが全てだった。それがこのやり取りに表れているような気がした。前々から分かっていたことなのに、今更、どうしようもない昏い昏い淋しさを痛感し、嗤ってしまう。

「何、笑ってるんだ?」
「いや、別に。……で、どこに行くんだ?」

彼が告げた場所の名前は、ずいぶんと懐かしいものだった。俺と三郎が出会った大学街。卒業以来、一度たりとも行ったことのないそこ。----------------思い出、と呼べるまでに年月が経っていたことに少しだけ驚き、それから「いいな」と答えた。
受話口の向こうで三郎が微笑み、それから深く息を吸い込んだような気がした。「あ、そうだ」と告げる三郎は、まるで天気の話をしているみたいに簡単に口にした。

「あ、そうだ。これ、バチュラパーティーだからな」

どういうことだ、と俺が問い返すよりも先に「じゃぁ、空港で」と、ただそれだけを告げて、掛かってきたときよりも唐突に電話は切れた。
バチュラパーティー。独身最後の旅行。結婚に縛られる前の、最後の自由な時間を満喫するために仲間内で旅行に行って、それで結婚するやつを祝福する、ってやつだ。まぁ、要は、ひたすらに煙草と酒を呑み、その辺の女を引っかけてセックスを楽しむという、まぁ馬鹿騒ぎをするだけの旅行。それをする、と三郎が言ってきたのだ。
もちろん、俺が結婚する訳じゃない-----------となると、結婚するのは三郎しか残っていなかった。

(結婚、か……)

唇で刻んでみたけれど、あまり実感はなかった。けれど、それを声に出すことはできなかった。言葉を音にしてしまえば、その現実味が急に押し寄せてくるような気がして。中途半端に食まれた空気の先に闇を灼いていた、うすらとした赤を灰皿に押しつける。煙草のざらりとした乾いた痛みが残された。

----------------俺は、ずっと三郎のことが好きだった。
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