蔓延した白が、揺らいだ。

「けほっ」

咳に本から顔を上げれば、たまたま男が視界に入った。普通なら、それで終わりだ。だが、それで終わらなかったのは、彼が纏っていた空気が異質だったからかもしれない。
煙草喫みってのは、吸える場所であれば、すぐに吸わないにしろとりあえず座ったら煙草を出して置いておくというイメージが俺の中にある。イメージというか祖父や父がそうだったという経験測に基づく勝手な偏見だが、案外、当たっているんじゃないだろうか。
規制が厳しくなって街のどこかで簡単に吸うことのできなくなった今、貴重なチャンスを潰す馬鹿はそうそういないだろう。だが、男はこのチェーン店のロゴが入ったマグカップをテーブルに降ろすという一連の動作の合間に煙草を取り出すというひと手間は見られない。ジーンズにねじ込んであるわけでもなさそうだった。

(ということは、こいつは吸わないんだろうな)

何となくその後も目で追っていたが、相変わらず煙草を取り出す様子は見られなかった。男は作業にはあまり向いていない小さなテーブルに何やら紙を散らした。続いて飴が煮詰まったような長細い円柱が転がる。ペン消すだろうか。けれど、思考するのに必要不可欠な(と俺は少なくとも思っている)煙草の箱がそこに加えられることはなく、ただ、咳だけが仕切られた空間に響く。

(やっぱり吸わない。……もうそんな時間か?)

吸わないやつ(しかも連れがいない)がわざわざ喫煙席の方まで回ってくる理由は一つしかないだろう。禁煙席がいっぱいなのだ。つまり、それだけ店が込み合ってきているという証拠だろう。できるだけ長居ができるように食事時は外しているのだが、思ったよりも時間が経ってしまっていたらしい、と少しだけ背筋を伸ばし、視界を広げる。

(ん?)

下半分が木の壁、上半分がガラスで隔てた向こうにある禁煙席は、確かにこっちと比べて込み合っている。視線の高さには木の壁があって見づらいが、それでも首をぐいと押し上げれば、遠くまで目に入る。空席もいくつかあるのが分かった。彼が咳を我慢してまでこっちに来る理由が分からなかった。うるさいのが嫌なのだろうか、と様子を伺うが、タクトみたいに走るペン先が答えてくれることはなかった。

(まぁ、単に今は吸わないだけかもしれないな)

喫煙席にひとりいながら煙草を吸わない男、というのが妙に俺の中で残った。

***

このチェーン店のバイトに顔を覚えられ何も言わなくても「ソイラテですね」と尋ねられるようになった頃、俺は彼と何となく話すようになった。といっても、たいした内容じゃない。
クリーム上に固まった表面に天井の淡い光が丸く落ちていた。それでも、その水面下では動きがあるのだろう。時々、楕円に伸びたり縮んだり紐状のものに形を変えたり。空調のせいなのかわずかな間も静謐さを保てないソイラテはすでに冷めかけていた。辺りの風景を柔らかく緩ませていた湯気もなくなり、はっきりとした輪郭が佇んでいる。

(まぁ、これくらいがちょうどいいけどな)

カップに押し当てた唇は冷たさも暖かさも感じない。己と陶器の間に熱移動がなくなるまでは飲めないという猫舌の俺にとっては、温すぎるぐらいでいいのだ。最後の一滴を喉に流し込む頃には時間が経ちすぎて酸いた残滓が口に残ってしまうのだが。

(けど、それでも、火傷するよりはましだしな)

すでに、どこかどろりとした光沢を帯びだしたソイラテを口にする。豆乳以外何一つ余計なものを入れていないそれは、口蓋の壁にまどろっこさを貼り付かせて通り過ぎていく。じわじわと鼻先に抜けていくそれは無性の渇きを呼び覚ました。水分が欲しい、という単純なものじゃない。もっと、本能的な渇きだ。己の中にひそと潜んでいる昏さの中に蠢く、何かが欲しい、という渇望。

(何なんだろうな、これ……)

ふ、とした瞬間に呼び醒まされるその正体を俺はつかめずにいた。口にくわえただけでうっすらとした香りが舌を痺れさせる。指でライターを弾けば、散り火花の後に焔が滴型を作り上げた。紙巻の先っぽを近づければ、勢いよく赤が襲いかかり、細い細い一筋の白が俺の視界を煙らした。思い切り吸い込めば、匂いに胸内が爛れる。

(ふー)

声にならないため息は、代わりに煙となって立ち昇った。形というものに囚われないないそれは唇を詰りながら出ていく。呼吸をする度に点滅する橙は、歩き続けた旅人がようやく見つけた家の灯りのような優しい色をしていた。

「お、兵助」

ソファー生地の背もたれに体を寄っかからせ、昇っていってやがて色を失っていく煙を、ぼけ、っと眺めていると、ゆるやかな静寂を打ち破られた。谷間の時間帯なのだろうか、俺以外に誰もいない。だから、聞こえなかったふりをすることが難しい。おまけに、名指しで呼ばれているのだ、無視するわけにもいかないだろう。俺は指に掛けていた煙草の背を軽く指ではたき、灰を落としながら声がした方に視線を向ける。

「三郎」

淹れたてなのだろう、彼が胸元で掲げているマグカップからは白が生まれ続けている。そのカップの前だけはしっとりと湿っていて、どこか籠もったような色合いをしているような気がした。その中身が何か、俺は知っている。おそらく、ブラックだ。彼について知り得る、数少ない情報。そこに『おそらく』が付くのが俺と彼との関係をよく示していた。

「そこいいか?」

唯一手にしていたカップを持ったまま、彼は俺の隣、斜め前の席に座った。俺以外に誰もいなくて、席は空いているにも関わらず。あぁ、と頷けば、いつもと変わらず流れるような動作で彼は座った。

「偶然だな」

そうだな、と、さらり流しそうになったけれど、ふ、と何かが引っかかって、何だろうと思い直す。偶然。そうこうやって三郎と会うことは偶然なのだが、

「そうか? 最近、よく会う気がする」

ふ、と思いついた感想を零す。彼は何も答えずにカップを引き寄せて。俺はその答えが返ってこないことを知る。事実、ホットに口を付けた三郎は、片手に携えていた本を開いた。煙に巻かれた、というよりも、いつもそんな感じ。二言、三言だけ交わした後に、どちらともなくカップに唇を置けば、それが会話の終わりの合図だった。

***

肘掛けの所にあった灰皿に無意識のうちに押しつけた指先が次を求める。だが、なかなか目当てのものに行き当たらない。いつもであれば、すぐに取り出すことができるはずなのに、摘もうとした指に触れるのは空虚ばかりで。

(ん?)

いつまで経っても届かないそれに違和を覚え、俺はようやく本から目を上げ、気がついた。何も触れないわけだ。箱の中は空っぽなのだから。すっかりと吸い尽くされ、取り出すための間口の形がへしゃげている煙草のパッケージがそこにあった。

(あ、切れたのか)

箱を握れば、わずかに残された空洞が、べしゃ、っと哀れな最期を遂げる。おそらく紙巻から葉殻が零れ落ちたんだろう、新しい匂いが指先に絡み昇り立った。新しいのが入ってたはずだ、と横に立てかけてあった鞄を漁りかけて、ふ、と気づいた。

(そういえば、朝、予備を入れてたやつ、昼間に吸っちまったっけ)

最近、やたらと消費するペースが速くなっているという自覚はあったが、まさか日に2箱もなくなるなんて思ってもなかった。しかも、まだ、体が求めている。じんわりと壊死していく感覚を。己の中に巡っている何かが真綿に絞められるように、ゆるやかに息を止めていく感覚。じわじわとしたその経過が俺は好きだった。

「どうしたんだ?」

バイオリンの華やかな音色を揺るがしたのは、三郎だった。いくら話すようになったとはいえ、素性もほとんど知らない彼に聞くのは気が引けて。だから、「いや、何でもない」という意を込めて首を振りながらも、けれど、渇望に痺れる舌は正直な言葉を吐いていた。

「煙草、持ってる?」

ちら、と視線を俺のテーブルに投げた三郎は、かつて煙草の箱だった紙屑を見て俺の言いたいことを理解したのだろう「あー」と声を漏らした。ただし、その響きはどちらかといえば否定的な含みのあるもので。それは、彼の眉や唇の端が落ちたことからも分かった。

「悪ぃ、吸わないから持ってない」

何度もこのコーヒーチェーンで見かけたことがあるのに、一度も吸っている姿を見たことがなくて。何でなんだろうな、とずっと不思議に思っていただけに、彼の言葉はすんなりと俺の中に入ってきた。だが、代わりに新たな疑問がむくりともたげる。

「……吸わないのなら、なんでこっちに座るんだ?」

禁煙席が込んでいて回ってきた、というのなら分かる。だが、こうやって彼と顔を合わせる時は、たいてい店が暇なときのはずだ。俺が長居するために人があまり来ない時間帯を選んで来ているのだから。現に、今だって、ガラスの向こうは数組の客がいるだけで、他は向こうの壁の模様まで見通せるくらいに空いている。

(わざわざ、こっちの部屋に来るメリットなんてあるか?)

そういえば、前に煙草の煙で咳こんでいたことがあった、と思い出してますます訳が分からなくなった。三郎は一瞬、唇を噛みしめるように押し黙って、それから、ゆっくりと緩めた。

「何でだと思う?」

そう切り返されるとは思ってもおらず、今度は俺が口を噤む番だった。どうして、と問われても理由が分からないから聞いているというのに。だが、すぐに彼が答えを教えてくれるような様子はなく、どちらかといえば、こちらの反応を楽しんでいるようだった。答える義理も何もないのだけれど、どうしてだか、会話を途切らせる気にはなれなかった。

「……こっちの方が静かだから、とか?」

唯一、考えられる理由としたらそれくらいだろうか。時間にもよるのだろうが喫煙ルームの方がグループ連れの率が低い。実際、今は、俺と彼と二人だけだ。他に一緒になると言えば、営業周りで足を休めるために入ってるんだうといったスーツ姿のサラリーマンに資格試験の勉強か何かだろうか、テキストとルーズリーフを広げている女性。飲食禁止という図書館から息抜きに降りてきたで来た大学生や悠々とした時間を過ごす老人なんかで。身じろぎであったり紙をめくる音であったりがして完全な無音ではないものの、個々で完結しているせいか耳に障るということはない。

「残念、はずれ」

歌うような明るさでそう言ってきた三郎は、俺が次の答えを口にするのを待ち望んでいるようだったが、あいにく、さっきのが俺の中で最も自信があったものだ。というか、他に思いつかない。俺は肩を軽く竦めて「それくらいしか思いつかなかった」と正直なところを告げた。目で、早く教えろよ、と訴えると、それまでの面白がっているような表情が、急に、ぐっと引き締まった。迷いの最中にいるのか、結ばれた唇が開きかけては、噛みしめ閉ざされる。さっきまで、さんざん俺のことをからかってきたのだ、ちょっとくらい、仕返ししてもいいんじゃないか、って気になって。

「言うことないなら、俺、もう行くけど。煙草も切れたし」

そうからかうと、さっきまで曖昧な動きを繰り返していた彼の唇がぴたりと止まった。それから、三呼吸分、スイングするBGMだけが店内に落ちる。ぐ、っと彼の喉仏が落ち込んだような感じがした。

「兵助と話してみたいから、って理由だったら?」

四方を壁やガラスに囲まれた誰もいない喫煙ルームに逃げ場はなくて。唯一、外に出ていくことができるのは空調だろうか。まだ費えていなかった僅かな煙が頭上のフィルターに吸い込まれていく。うすらとした白は頼りないが、消えていく。けれど、その言葉は失われることなく、やけに大きく響いて、残った。-----------聞こえないふりをするには、大きすぎた。

「……どういうことだ?」

彼の言いたいことを分かりきっていて、そうして、その言葉を期待する自分もどこかいた。もしかしたら、って。だから、あえて聞き返す。だが、先に口にしたはずの彼の方が妙に照れてしまって、「や、まぁ、どういうことって、そういうことだ」と急にしどろもどろになってしまった。照れているのか、三郎の頬には朱が灯っているのが分かって。期待と希望が確信に変わる。と同時に、三郎の熱が急に欲しくなって。

「こういうこと?」

俺はそのまま、三郎に顔を寄せた。驚いている三郎が閉じた瞼の中で揺らいだ。

「っ」

唇を合わした瞬間、じわっ、と燻っていた欲に火が灯った。取り込まれた酸素がそれを加速させる。もっと、と熱を奪おうと追い求めれば、逆に顎を捕まれた。彼の舌に己のそれを捕縛される。コーヒーの酸いた苦みがどろりとした残滓が押し込められると同時に、じん、と甘い痺れが体躯の髄を疾走った。

「……っ」

零れた艶めいた吐息が自分のものなのか、それとも三郎のものなのか。もしくは、互いのが混じり合ったものなのかもしれない。酸素を失いきった頭では、それすら分からなかった。まだ咥内に三郎がいるような気がして、舌を転がせば、残っていたのはざらりとしたコーヒーの残滓だった。

「……苦。それってやっぱり、ブラック?」

口を開いて言葉にしてみれば、外の空気が入り込んできて、ようやく三郎で満たされた胸に煙草の残り香が入り込んできた。混じり合うそれに、指先まで甘い痺れが。

「あぁ。……って、な、」

一度頷きかけた三郎は、まるで壊れた機械みたいに、「な、な、な」とその言葉だけを繰り返していた。おそらく「何でキスしたんだ」と言いたいのだろうと察して。

「したかったから、じゃ駄目なのか?」

そう見上げれば、ふ、と俺の唇はやつのそれにねじ伏せられた。奪われそうになる酸素を取り返そうと必死にもがく舌はあっさりと三郎に屈服させられる。コーヒーに塞がれた唇をずらしてどうにか空気を求めれば、逆にそれが引き金になったように焦がれた唇に執拗に追われる。

「っ」

ようやく放された熱に「……やっぱり、苦い。よく飲めるな、あんな苦いの」と文句を上げれば、三郎は小さく笑った。それから「お前の方がよっぽど苦いのを喫んでいるだろうが」と視線を灰皿に向ける。

「ソイラテで帳消しになるだろ」
「まさか……煙草は苦すぎて消えねぇし」
「ブラックの方が絶対、苦い」
「じゃぁ、試してみるか?」

訳の分からない言葉を寄越した三郎が、また近づく。今度は、空気に触れるだけのキス。三度目のフレイバーは、どちらのものとは分からなかった。煙草とコーヒーとソイラテ。苦いような、甘いような、やっぱり苦いような。そんな味だった。



盲目の魚は酸素を求めて


title by カカリア

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