「兵助、耳、悪くなるぞ」

大きなビーズクッションをわざわざそこまで引っ張ってきたのだろう。スウェット一枚という寒そうな格好の兵助は、ふかふかとしたクッションに体を丸めてすっぽりと収め、寝転がるようにしてカセットデッキに耳を押し当てて音楽を聴いていた。

「だって、この時間に音楽流すと迷惑だろ」

真夜中とまではいかねぇが、確かに、大音量で音楽を流すのは憚られる時間帯ではあった。ただでさえ壁が薄い安アパートだ。結構、音は響く。そこを気遣ってのことなんだろうが明らかに健康には悪そうだった。

「まぁなー。それ、明日じゃだめなのか?」
「あと一曲でダビング終わるから」

一応聞いてみたが、予想通りの答えだった。それなら曲をテープに移したのを明日の昼中に聞けばいいのに、と思いつつ、唇を綻ばせて倖せそうに耳をカセットデッキに傾けている兵助を見ていると言うことができねぇでいて。結局、俺は幽かに聞こえていたメロディに近づいた。囁きのそれが呟きくらいの大きさに代わり、どうやら、それが洋楽だということに気づいた。じっと耳をそばだてて、どうやら英語の歌のようだ、ということくれぇは分かったが、何を謳いあげているのかはさっぱりだ。

「なぁ、兵助ってさ、この歌詞とかの意味って分かるのか?」
「まぁ、だいたいは」
「すげぇよな。俺なんて、英語、さっぱりだし。兵助に薦められなかったら、洋楽とか、今でも聞かなかっただろうな」

そうなのか、と暗がりの中でも彼の目が驚きに閃き、そう問うているのが分かって。俺は「あぁ。高校の時とか流行の曲しか知らなかったし。カラオケで歌う曲ばっかり聞いてたな」と記憶に懐かしさを馳せながら答えた。それから「洋楽をちゃんと聴くようになったのは兵助と出会ってからだな」と付け足す。へぇ、と呟く兵助に、ふ、と逆に兵助が洋楽に関心を持った理由を知りたくなった。どうして、その疑問を持ったときは相手に聞く、という刷り込みを自然と俺は発揮していた。

「それじゃさ、何で兵助は洋楽聴くようになったんだ?」
「あー、中学の時さ、英語の授業で洋楽を聴いたのがきっかけだな。何かリスニングの力を付けるには洋楽を聴くのがいい、って考えの先生で」
「へぇ」

楽しそうな授業だな、と四面四角の学校英語しか習ってこなかった俺はちょっと羨ましくなった。それと同時に、自分が知らなかった兵助に出会っているような感じがして、嬉しくなる。

「あの当時の単語力じゃ、何言ってるのかさっぱりだったけど、言葉じゃなくても通じるものを感じたんだよな」
「何聞いたんだ?」
「確か、一番初めは『Imagine』だったな……」

兵助は耳に寄せていたカセットデッキを床の上に置き、思いを馳せるように遠くを見遣った。そんな彼の横で、俺はそのタイトルを心の中で呟いた。『Imagine』。曲名は聞いたことがある。だが、どんなメロディだったかと問われると、ぱっとは思い出せねぇ。男が歌ってるのか女が歌っているのか、それすら、出てこねぇ。

「誰の歌だっけ、それ」
「ジョン・レノン」

あぁ、と俺は相槌を打った。ジョン・レノンくれぇは、いくら音楽に疎い俺でも知っている。「布団の中で『ラブアンドピース』を訴えた人だっけ」と朧な記憶を披露すれば、兵助がため息を漏らしたものだから「あれ、違ったっけ?」と俺は焦った。

「や、合ってるけどさ。まさか、そこから来ると思わなかった」
「は? どういうことだ?」
「ジョン・レノンって聞いて、まず最初に思い浮かぶことって『ラブアンドピース』以外にもあるだろって話」

若干、呆れ気味の兵助に俺は噛みついた。

「えー、そうか? たとえば?」
「たとえば、ビートルズのメンバーだとか、ファンの凶弾に倒れたとか」
「あー、まぁ、それもあるけどさ。でも、有名じゃん。ベッドの中から『ラブアンドピース』を訴えたって」

彼の名前を聞いて俺の中でぱっと浮かんだのは、ベッドの中でオノ・ヨーコと仲睦まじくしているジョンの姿だった。たった一枚。その新聞広告だけで世界中に強烈な印象を植え付けたのだ。世界を変えたのだ。リアルタイムで見てない俺でさえ、その姿が鮮明に灼きついているのだから、当時の人たちにはもっと色々なことを二人の姿に思ったことだろう。

「ベッドの上から愛だの平和だのを祈って訴えるって、どんな気持ちなんだろうな」

特に色の意を含めたわけじゃなかった。ただ、何となく気になったのだ。世界を変えた二人が見た世界は、あそこから見えた世界はどんなのだったのだろうか、と。それでそんなことを口にしたんだけど、ふ、とこっちを見遣った兵助の目が熱情に濡れていた。

「やってみる? ジョン・レノンとオノ・ヨーコごっこ」

そう笑う兵助の唇を俺はそっと塞いだ。深い深い黒の向こうで白が瞬いていた。雪は止みそうにねぇ。かしゃん。録音が終わったのだろう。デッキの蓋が開いていた。その中で巻き取りを終えたテープが静かに眠っている。細々と響いていた歌声はもうなかった。代わりに甘く嗄れた兵助の声が闇を揺らしだした。----------優しく寒い寒い冬の、温かな夜の始まりだった。

***

結局、俺たちはジョン・レノンとオノ・ヨーコにはなれなかった。世界平和とか人類愛といった盛大なものどころか、掌に収まる分だけの平和も愛も築くことができなかったのだから。


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