(あー疲れた)

さすがに授業が始まれば追ってこれないだろう、という読みは当たって、チャイムと同時にざわめきが消えた廊下は俺一人だけだった。バレンタイン、なんて面倒な行事を誰が考えたんだか、と、止まないチョコレート攻勢にどっと疲れた体を引きずる。

(昼休みまで休ませてもらおう)

ノートは後で勘ちゃんに頼むとして、大きなクリーム色したドアの取っ手に手を掛けようとしたら、ちょうど出かけの保健医と出くわした。ちらり、と俺の顔を見ただけで「あら、久々知くん。珍しいわね」とピンクベージュの唇が窄んだ。本当は単に教室にいたくなくて休みたかっただけなのだが、確実に休める方法を、と思い「ちょっと頭が痛くて」と適当に理由をでっち上げると「今、ちょうど席を外すところなんだけど」と綺麗に整えられた眉を顰めながらも、さっと俺の額に手を伸ばしてきた。

「熱は今のところなさそうね」

ほんのりとした温もりが俺に移る頃、保健医はそう判断した。それでも、俺を一瞥すると「職員室に行ってすぐ戻ってくるから、ベッドで寝てていいわよ」と中に目線を送った。他に寝ている人がいるから静かにね、と告げる先生と入れ替わりで保健室に入った。うっすらと消毒薬の匂い。背後で静かに閉じられたドアを背に、重たい頭を抱えて奥にあるベッドに近づく。と、クリーム色のカーテンが引かれているのに気づいた。

(そういや、寝てる人がいるって言ってたっけ)

きゅ、と鳴ったリノリウムに、今更、足音を殺しながら、もう少しだけ窓辺に近づいた。

(外は寒そうだな)

木の葉一つ残されていない木立が切り抜く空は氷みたいに透いていて冷たい色合いをしていた。聞こえてきたのは、準備体操の号令。ちょうど授業の始まりで、少し離れたところにある朝礼台の付近でだらだらと体操しているのが見えた。仕方ないだろう。こんな寒い日に外で体育、しかもマラソンなんて、という思いがやる気のない声から伝わってくる。

(って、あぁ、ハチのクラスか)

ひょこ、っと見えた背中は、よく知ったやつのだった。そういえば、朝、一緒に登校していたときにそんなこと愚痴っていたような気がする。今日は体育がなくてよかった、と思う反面、数時間後、もっと気温が下がった中を歩いて帰らなければならないのかと思うとちょっと辟易して、俺は溜息を吐いた。同じ動きを何度か繰り返す体操は、ますます眠気を誘う。あふ、と欠伸を噛み殺し、一時間でもいいから寝させてもらおう、とベッドへと体を向けた。と、しゃ、っとベッドとベッドを仕切っていたカーテンが開いた。

「珍しいな、兵助がこんなとこくるなんて」
「三郎」

背後のベッドに座っていたのは、今、外にいるはずの友人だった。体育でこんな場所にいるはずがないという思いに加え、身じろぐ気配すらなかったために、突然の登場に驚いていると、三郎は「珍しいな、兵助がこんなところに来るなんて」と立ち上がった。ぎぃ、と鈍いスプリングが静けさに響く。いつの間にか準備体操は終わったらしく、朝礼の前に集合した頭が並んでいた。

「……頭が痛くて」

別にこいつに嘘をつく必要はなかったんだろうが、何となくさっきの保健医に使った言い訳をそのまま口にしていた。へぇ、と唇を歪めた三郎に見透かされている気もしたが、それ以上やつは何も突っ込んでこなかった。ただ、いつまでもその表情を向けてくるものだからやりかえす。

「三郎は? ってサボりだろうな」

聞いてみてすぐに自己解決したのは、外で準備体操をしていた中にハチがいたからだ。ハチが体育ということは、三郎も体育のはずだ。こいつがしおらしげにマラソンなんて走るとは、とうてい思えない。一瞬、俺と同じ理由かとも思ったが、こいつの場合、上手に受け答えするだろうから、別に逃げる必要もないはずだ。そんな推測から俺が「どうせ、マラソンに出たくないだけなんだろ」と断言すると、ひどぉーい、なんて女子でも上げないような黄色い声を上げて見せた。

「で、本当のところは?」
「持病の貧血だよ」
「いつから持病保ちになったんだ?」

飄々としたまま「前からさ」と三郎は嘯いた。俺が「来週には直るんだろ」とからかうと、意味が分からないのかそれまで上がっていた唇が途端に噤まれた。目だけでどういうことだ、と問われて「来週はサッカーだろ」と答えれば「まぁ、そうだな」と軽く笑った。視線を向ければ、ちょうどマラソンが始まるのだろう。ぞろぞろとスタートラインに向かう連中らの足取りは重たい。

「お、雷蔵。相変わらず、いいケツしてんな」

さらりとセクハラめいたことを口にした三郎の頭を雷蔵の代わりに殴っておく。出会ってすぐ、それこそ開口一番に雷蔵に「三郎が変なことしたり言っていたら殴っていいよ」って言われた。その時は、ほわりとした笑顔で結構過激なことを口にするよな、って思ったけれど、すぐにそれを実行する日が来てしまって以来、こいつをど突かない日はない気がする。

「ってぇ」

振り下ろした拳をどければ、避けきれなかった三郎はちょっと涙目になっていた。

「おま、病人に何するんだよ」
「病人はそんなこと言わないだろ」
「本当に今日は熱もあって体調が悪いんだよ。お前と違って」

信憑性がなくぎゃぁぎゃぁ騒ぐ三郎を無視して、俺は窓の方に視線を戻した。長い笛の音。スタートだ。一斉に塊が動き出す。大きな集団がぐん、とこちらに近づいてきた。一つ、風が大きく吹きさらして、みんなが巻き上げた砂塵が広がる。トラックを三周、それから外へと走っていくのだが、一周目くらいはまだ帯のように人が連なっている。砂埃で白っぽい世界を引っ張るのは、ハチだった。

「ハチ、トップなんだな」
「おー。たいてい、上位争いしてるな。ったく、寒いのによくやるよ。こんなアホらしいこと、くそ真面目にやるあいつが信じれねぇっての」
「やっぱり、さぼりじゃねぇか」

俺がそう突っ込むと、む、っと眉を潜めた三郎は「気分悪い、寝る」とすねてしまった。それが面白くて、こっそり笑っていると、ますますむくれた三郎はどすんどすんと足音を立ててベッドに戻っていってしまった。布団に潜り込んで「くそ、私は病人なんだぞ」と子どもみたいに毒づいている三郎を不思議に思って俺は訊ねた。

「何で熱あるなら学校来るんだよ。いつもなら絶対休むくせに」

ちょっとした微熱だ何だ、と理由を付けては学校に来ようとしない三郎が雷蔵に引きずられているのを何度見たことか。布団の中から「別に、お前に関係ねぇだろ」とくぐもった声が届く。それに重なって、僅かに地響きが聞こえてきて、俺はまた窓の方に意識を向けた。二周目ともなれば、かなり列が長く伸びているのが横目にも分かる。コーナーを曲がっていく先頭には、やっぱりハチがいた。きゃぁきゃぁと歓声が聞こえる。ちょうどソフトボールをしてるらしい女子からだろう。

(この分だと、ハチもたくさん貰うかもなぁ)

毎年チョコをいくつもらうか、なんてくだらない賭けをしてるものだから、ついそんなことを考えていると、ふ、と盛り上がっている白い布団にが目に入った。

「もしかして、チョコもらいに来たのか?…ってんなわけないか」

三郎の性格上ありえない、と一人で突っ込みを入れたものの、三郎からの返事はなくて、まさか、と思いつつ「本当に?」と尋ねる。モコモコした白がごそごそと動き「んなわけあるかよ」と不機嫌な声が戻ってきたが、動いた拍子にシーツがめくれ、やつが少しだけ見えた。つい「三郎、耳が赤い」と指摘してしまったが、ごせごそと動いて返事はなかった。ちょっといじめすぎたかな、と俺も窓から離れ「悪かった」と一応、侘びを入れ、三郎のベッドに近づく。

「ごめん、からかいすぎた」
「カーテン」

黙りの三郎にもう一度謝ると、ぼそり、とそんな言葉が返ってきた。俺は「何、閉めるの?」と聞きながら、振り返ってクリーム色のカーテンに手を伸ばす。窓の向こう、また迫ってくる集団は確実に人数が減っていた。けど先頭は変わらずハチだ。

「すげぇな、ハチ」

ざっ、とカーテンを引けば、その姿が隠れた。振り返りざまに報告しようとして、

「閉めたぞ、っ、」

言葉は熱に呑み込まれた。---------三郎にキスされてた。

「っ、」

思わず三郎を突き返してしまっていた。手の甲を押し当てた唇が熱い。入り込んだ酸素も、馬鹿みたいに早鐘を打つ心臓に追い付かない。意味が分からない。こいつは男で、俺も男で、いつも一緒に馬鹿する友人で、なのに三郎はキスをしてきて。

「なっ、ど、」

何で、どうして。ぐちゃぐちゃの頭からやっと出てきた言葉もそこから続かない。それでも、俺が言いたいこてが伝わったのか三郎がゆっくり口を開いた。

「チョコの代わり。お前、用意してないだろ」

してないけども。だいたい俺は男だし。勘ちゃんみたいに友チョコとか作るタイプでもないし。そんなの作ってきてないし。用意もしてないし。ってか、大体バレンタインなんて、好きなやつにチョコをあげる日だし。何で三郎にあげなきゃいけないんだ。いや、作ってないし用意もしてないからいいんだけど。あぁ、もう、そうじゃなくて。それがいったい、今のとどう関係があるんだ。そう叫びたいのに、口はぱくぱくと空気を取り入れるばかりで。

「熱出ても学校来たのは、もしかしたら、お前からチョコもらえるかも、とか思ったからだ」

分かれ馬鹿、と目を逸らしながら罵る三郎の顔は真っ赤で、そんな風に言われなくても分かってしまって。「んなの分かるか馬鹿」と言い返す俺も、体調なんか悪くないはずなのに、急に熱が出てしまったかのごとく熱くなってしまった。


君にはとある疑惑がかかってます

(これってもしかして)

title by カカリア

0214 top
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -