車をひた走らせたけれど、何とか社の戻ることができたのは、もうずいぶんと暗くなってしまったからだった。頭を下げ、頼み込み、なんとか大川のじいさんからもらえた休憩は2時間だけだった。文句を言っている暇もない、と、とりあえずのデータを部署の方に放り込み、また車を飛ばし雷蔵のもとへと急いだ。

(大丈夫だろうか)

昨日の夜といい、さっきといい、明らかに雷蔵の様子がおかしかったことが心配で。暗がりで足下が定かでないアパートの階段を駆け昇り、記憶を便りに部屋を探す。当然、廊下にも灯りなんてものはなく、人の話し声も聞こえないせいか、まるで廃墟に迷い込んでしまったかのような感じを覚える。

(えーっと、確かこの辺りだったはず)

携帯のバックライトを使って表札の付近を照らし出し、ようやく目的の部屋を見つけた。チャイムを押して、それから、これも電気がなくて使えなかったのだ、と思い出し、ノックにかえる。一回、二回。バックライトで辺りを照らし出したまま、雷蔵に聞こえるように、やや強めに叩けば、すぐに奥の方から身じろぐ気配が伝わってきた。ぱたぱた、と走ってくる足音に続いて、すぐに扉が開けられる。息を僅かに乱した雷蔵が靴下のまま飛び出してきた。

「勘右衛門」
「ごめん、遅くなって」
「ううん。こっちこそ、ごめんね急に呼び出したりして」

幽かに笑った雷蔵の目は暗がりの中でも赤く充血していて、それで分かった。彼が俺をここに呼んだ理由が。



***

「じゃぁ、その場所にご主人は黄泉がえってきたと?」
「えぇ。そこが私と主人の思い出の場所なんです」
「思い出? どのような」
「……それは私と主人との秘密にしておきましょうか」

ふふ、と零したささやかな笑いを最後に老婦人は口を閉ざした。たぶん、これ以外に俺たちに話してくれることはないのだろう、と俺はテープレコーダーのスイッチを切ろうかと迷いつつ「ありがとうございました」と頭を下げる。俺の隣でずっと話を聞いていた庄左ヱ門も「ありがとうございました」と続いた。いえ、と頭を被りふる老婦人に俺はその問を口にした。

「黄泉がえってきて、よかったと思いますか?」

老婦人は、は、っと息を呑み、俺を見た。誰も何も言わなかった。その張り詰めた沈黙が空隙の重たさに耐えきれなくて瓦解しそうになった瞬間、機械音が静寂を打ち破った。電話だ。テープレコーダーを左手に映し、もう片方の手でポケットに入れてあった携帯をそっと取る。視線だけをそちらに向ければ、そこには雷蔵の名前があった。普段であれば、後でかけ直しただろう。けれど、どうしてだか、そのコールは切羽詰まっているような感じがして、俺は話を聞いていた老婦人に「すみません」と断りを入れ、背を向けた。

「もしもし、勘右衛門? 今、大丈夫?」
「あ、っと……」
「気にしないで。何でもない」

中途半端に濁してしまったのが、かえってと知るところとなったのだろう、雷蔵はすぐに遠慮に引き下がって、「ほんと、たいしたことじゃないから」とそのまま切ろうとした。けれど、その声がどこか泣いているような気がして。俺は「すぐ、そっちに行くから待っていて」と電話を切った。そのままテープレコーダーの電源も落し、怪訝そうにこっちを見遣っている庄左ヱ門に「悪いけど、連れて行って欲しいところがあるんだ」と頼んだ。

「え、でも、取材は?」

いつもなら、絶対にしないだろう。どんなときであっても、仕事を優先してきた。途中で取材を投げ出すだなんて、したことはなかった。けれど、どうしても雷蔵の声が耳から離れなくて、俺は、驚いている後輩を背に、目の前にいる老婦人に「申し訳ないのですが、どうしても大事な用ができてしまって」と頭を下げた。

「恋人か誰かに会いにでも?」

さっきの俺の言葉を聞いていたのだろう、それまでじっと黙っていた老婦人にそう尋ねられた。俺は首を横に大きく「いえ」と振り、それから「でも大切な友人です」とはっきりと付け足した。彼女はうっすらとその目差しを緩め「そうですか」と頷いた。そうして、さっき俺が口にしたまま宙ぶらりんになっていた問の答えを、彼女は口にした。

「私は主人が還ってきて、もう一度逢えてよかったと思います」



***

上がって、と勧められるままに俺は三和土へと進んだ。中ももちろん暗く、闇に塗りつぶされてしまっている。いい加減、目はこの明度に慣れてしまったけれど、それでも見づらいことには変わりない。家主である雷蔵はともかく、どこに何が置いてあるのか分からない俺は、大切な物をけっ飛ばしてしまったら大変だ、と携帯のサイドキーをいじると、俺はもう一度バックライトで足下を照らし出した。

「あ、ありがとう。僕もそうしたいんだけど、携帯の充電、危うくて」

勘右衛門がすぐに電話に出てくれて助かったよ、と雷蔵は安堵したように言った。それから「勘右衛門は充電大丈夫なの?」と聞いてきた。俺が「あー、本社は自家発電で電気が来てるから」と答えると、雷蔵の「あ、そっか。いいなぁ」という羨ましそうな声が響いた。とはいっても、アパートだ。すぐに部屋に辿り着いてしまった。俺が「あんまり意味がなかったかも」と呟けば、「そんなことないよ。灯りが一つあるだけでも、全然、安心するし」と笑った雷蔵が扉を開ければ、仄かな温かさが部屋を照らしていた。見慣れたローテーブルにキャンドルが置かれている。俺たちはその周りに腰を下ろした。

「何か台風とかで停電したときみたいだよね。って、そんなに経験がないのだけれど」

俺たちが少し動くだけで風が伝わるのか、焔が創り出していた光が揺れた。深く揺らめいた焔が雷蔵にくっきりと影を刻む。笑い飛ばすような口調は、どこか無理をしているのがはっきりと伝わってきた。均衡を無理矢理に保とうとすればするほど、一度失ったバランスを取り戻すのは難しい。綱渡りをしているには時間がないことを俺はよく知っていた。

「ねぇ、雷蔵。聞きたいことがあって、電話をしてきたんだよね」

問いかけるというよりも、確かめるようにして僕は言った。それまで、ふわふわと笑っていた雷蔵の口元が、ぎゅ、っと引き攣る。目差しが思案に彷徨っているのが見て取れたけれど、俺からは何も言わなかった。言うのは簡単だった。けど、言ってはいけないような気がした。誰かに決めてもらうのではなく、自分でその道を選ばなければ、きっと一生後悔を抱えて生きて行かなくてはならない。そして、もしそうなったとき、俺ではその重みを共有してやれない。逃げだ、と分かっていたけれど、どうしても俺の口から先に言うことはできなかった。

「黄泉がえりのこと、なんだけどさ」

どれくらい時間が経ったのだろう、じり、とキャンドルの火が芯を抉った。ようやく雷蔵が呟いた。

「『逢いたい』って、その死んだ人と生き残っている人が願えば、黄泉がえることはできるんだよね?」
「あぁ……雷蔵、誰か『逢いたい』って思う人がいるのか?」

俺がそう問いかけると、少しだけ視線を下に落としながらも雷蔵は「うん」と迷わず頷いた。すきま風のせいなのか俺たちの身じろぎのせいなのかは分からないが、ひどく不安定に揺れる焔。閉ざされた睫によって新たに眼窩に落ちる淋しげな影は、震えていた。けれど、それは焔のせいだけじゃないだろう。雷蔵の心が共鳴しているようだった。

「勘右衛門から最初に話を聞いたとき、まず最初にその人が思い浮かんだ」

夜中、逢いに来てくれない、と言っていた人のことだろうか、と思いながら「うん」と相槌だけを返す。

「多分、その人も『逢いたい』って思ってくれたんだろうね。……黄泉がえってきたんだ」

よかったね、と言うのは正しくないのかもしれない。けれど、夜中に電話してきた時の「それでも逢いたいよ」と声が俺の中で打ち寄せてきた。今にも泣き出しそうになりながらその言葉を漏らした雷蔵の心中を思うと、そう声を掛けるべきなのだろう。そう思って口を開こうとして、ふ、と気が付いた。

(その黄泉がえってきた人は、今、どうしてるんだ?)

雷蔵も知っているはずだ。タイムリミットが三日間しかないことを。だとしたら、俺と会って話している場合ではない。もう残されている時間は、二人で一緒にいることのできる時間はあと僅かなのだから。それなのに、その黄泉がえりの人が雷蔵の傍にいるような気配が全くないことが気になって、

「その人は?」

俺は聞いて----------------しまった、と心底、後悔した。

「逢いに来てくれないんだ……黄泉がえっているのに、ね」

痛みを痛い、と口にしない雷蔵の、無理に笑おうとする姿が、俺の胸を締め付けた。

「……ごめん」
「何で勘右衛門が謝るの?」
「『黄泉がえり』のこと、雷蔵に伝えて」

喉からはへしゃげた声しか出なかった。どういうこと、と、それまで俯いていた雷蔵が目差しを上げ、彼の目がそう問うて来た。雷蔵の顔を俺は真っ直ぐ見つめた。俺は責められることをした。俺の言葉によって、傷つかなくてもよかった人が、傷ついてしまったのだ。ならば、その責めを一心に受けること、それが、今の俺にできるせめてもののことのように思えたから。

「もし俺が言わなかったら、雷蔵がこんなに苦しむことなかったのに」
「勘右衛門……」
「もし、雷蔵に俺が言わなければ、そうしたら雷蔵は『逢いたい』と願うことがなかっただろ。そしたら、雷蔵の想い人が黄泉がえってくることもなかった。きっと、こんなにも辛い思いをしなくてもすんだ。なのに……ごめん。雷蔵」

ちゃんと雷蔵を見て言わなければと最初は目を見ていたけれど、だんだんと顔向けができなくなってきて、ついには俺はテーブルのキャンドルしか見れなくなってしまった。焔から感じる僅かな暖かみが、目を乾かしていっているはずなのに、その一方で瞼裏は熱に潤んできていて。泣きたいのは雷蔵のはずなのに、どうしてだか涙が出てきそうになる。ぐ、っとそれを堪えていると、優しい声が俺の胸に響いた。

「勘右衛門のせいじゃないよ」
「雷蔵……」
「勘右衛門が言わなくても、きっとどこかでこのニュースを知って、きっと僕は望んでいたよ。『三郎に逢いたい』って。ううん。このことを、『逢いたい』と願えば黄泉がえらせることができる、って知らなくても、きっと三郎は黄泉がえってきたと思う」

どういうことなんだろう、と俺は顔を上げた。雷蔵は涙を浮かべながら、笑っていた。

「だって、いつも、願っているもの。『三郎に逢いたい』って」

***

「ごめん、何か雷蔵の話を聞きに来たはずなのに、俺の話を聞いてもらって」
「ううん。……僕も話ができて、ちょっと楽になったから」

もう大丈夫、と笑う雷蔵はちっとも大丈夫そうに見えなかった。本当なら、雷蔵の傍にいてあげたいところだけれど、俺の携帯には会社から溢れかえるほどの着信履歴が残されていた。庄左ヱ門からはもちろん、大川のじぃさんからもメッセージが残っていて、留守録はパンク寸前だった。聞いてもどうせ同じだ、と、とりあえず消しておく。俺の手元を眺めていた雷蔵がぽつりと「いい加減、僕も、消さないとな」と呟いていた。すっきりした携帯の画面で足下を照らし、靴を履くと振り向く。

「雷蔵、本当にありがとう」
「ううん。こちらこそ、ありがとう」
「その三郎、だっけ。逢えると、いいね」
「うん。……どこにいるか分かれば、逢いに行くんだけどね」
「あ、」

雷蔵の言葉に、ふ、と老婦人の言葉が、ぴかりと脳裏で光った。慌てて、雷蔵の肩を掴んだ。

「何か思い出の場所ってない?」
「思い出の場所?」
「そう。そこに黄泉がえってきた、って人もいたから」

祈った。---------------もし、この奇跡を起こしたのが神様みたいな存在がいるのだというのなら、どうか、雷蔵がこれ以上哀しい想いをさせないでください、と。



2010.12.25 p.m.6:13



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