俺はずっと思っていた。彼が最初で最後の恋人になるだろうと。俺は、彼の最初で最後の恋人になるだろうと。こんなにも誰かを好きになることはないだろう、そう感じていたから。------------------けれど、俺は、俺だけが、彼の最初で最期の恋人になってしまった。
***
(あぁ、夢か……)
びく、と痙攣した体が、目覚めを運んできた。跳ね除けたケットが、床に落ちた。カーテン越しに光が差し込む。いつもと変わらない、朝。指先が掴んでいるものはいつもと変わらない、ひとりであるという孤独。加速していく寒さはベットからでたからだけじゃない。ハチが黄泉がえってくるだなんて、あまりに倖せな夢だった。
「馬鹿だな」
やけにリアルに残っているハチの温もり。それが剥がれていくのが怖くて、ぎゅ、っと体を抱く。それでも、簡単に思い出せなくなることを俺はよく知っていた。なぜなら、ハチを死によって失ったときに一度経験しているから。どれだけ、忘れないように思っても思っても----------------俺はその温もりを思い出せなくなっていった。
(それが、温もりだけじゃなくて、声とか面立ちとか仕草とか、そういったのも、少しずつ)
ハチがいなくなって、最初は毎日のように思い返していた。ご飯を食べたって、お風呂に入ったって、誰かと会っても、どこかに行っても、何をしても、その情景にハチが浮かぶのだ。まるで最初から決められたフレームみたいに、そこにハチとの思い出が映り込むのを止める術はなかったのだ。泣いて泣いて泣いて。目が溶けてしまうんじゃないか、ってくらい泣いて、それでも世界は何一つ変わらないことに、俺はまた泣いた。
(それが、いつだっただろう……)
ちょっとした隙間に現実が入り込むように変わっていったのは。そして、それはやがて、現実の方が大きくなり、ハチとの思い出は、ふ、と浮かび上がるまでになっていってしまった。怖かった。忘れていってしまう自分が。彼の温もりが思い出せなくなり、どんな風な声だったか、どんな風に笑っていたのか、曖昧になっていくことが。こうだった、と心を強く持っても、すぐに「本当にそうだった?」と問うもう一人の自分がいる。俺が創り出した幻の彼なんじゃいか、って。
(とうとう、こうやって夢まで創り出してしまったらしい)
あまりに温かい夢だった。ハチが俺に逢いに来てくれるだなんて---------------もう、ハチのことを覚えていることができなかった俺に、もう一度、逢いたいと思ってくれているだなんて。どれだけ倖せで温かな夢だったのだろうか。だからこそ、ひそ、と濡れるものの冷たさが凍みる。ハハハ、と乾いた笑いが力なく零れ落ち「勘ちゃんがあんなこと言うから」なんて、人のせいにしようとする。何て愚かなことか。幸福な夢は瓦解し、取り残されたのは空虚な冷たさ。行き場のない想いが胸からあふれ出て、ただ、涙となる。
「は……ちぃ」
喉が熱を帯びて気持ち悪い。泣く資格なんてないはずなのに、涙袋がひっくり返されたみたいに泣けてくる。溢れかえるそれを止めようとすればするほど、ますます熱が瞼裏に集まって気持ち悪い。逢いたい。逢いたい。逢いたい。壊れたレコードみたいに、その感情しか出てこない。逢いたい。逢いたい。ハチに、逢いたい。
「兵助?」
ふ、と柔らかい声が俺の呪文のような思考を解き放った。
(俺は夢の続きを見ているのだろうか? 逢いたくて仕方なかったから、ハチの夢を)
そこにいるのは、ハチだった。夢で見た彼と同じ、今の俺よりも幼い----------逝ってしまったときと同じ、彼。
「ハチ……」
もう一度、名前を呼ぶ。そうすれば、目の前にいるハチは困惑したように「どうしたんだ?」と眉を潜めた。夢じゃないのだろうか。俺が創り出した幻じゃないのだろうか。もう一度、呼ぶ。「ハチ」と。ますます困ったように眉を下げたハチの名前を、俺は、もう一回だけ確かめるように呼んだ。
「ハチ」
「兵助?」
覗き込むようにして近づいてきたハチを、俺はぎゅうと抱きしめた。温かい。夢じゃない。確かに俺の腕の中にはハチがいる。もう、放さない。放したくない。覚えていたい。その奇跡を確かめるように、その温もりを己に刻み込むように、俺は繋がったその温もりをぎゅう強く抱きしめた。---------------------もう二度と、忘れないように。
***
「兵助、朝ご飯、食べる?」
ようやく涙が止まって落ち着いた俺にハチはそんなことを提案してきた。そうやって聞かれると、ほっこりとした素朴な甘い匂いが、部屋に漂っているのが分かる。温かなそれは俺の食欲を刺激して、きゅぅ、と勝手に腹の方が返事をしてしまっていた。ばっちり聞かれたのだろう、ハチは「ちょっと冷めたから、温め直せる物は直してくるから、兵助は顔を洗ってきたら」と小さく笑いを零した。
(まるで、結婚したみたいだ)
あの頃、ちょっとだけ夢を見ていたことだ。もちろん同性同士の結婚はできないのは知っていたけれど、ぼんやりと思っていた。いつか共に暮らすことができたらいい、と。朝、ベッドでハチの温もりを感じながら起きて、交代で朝食を作って、一緒に食べて。「いってきます」と「いってらっしゃい」って二人で言い合って。離れている間も、帰ってからのことを考えて過ごして。夜になったら「ただいま」と「おかえり」って温かな言葉で出迎えたりして。それからまた一緒に夕ご飯を食べて、テレビを見たりゲームをしたりして。お風呂は別々かもしれないけれど、時々、髪や背中を洗いっこして。--------------そうして、また、ハチの温もりを抱きしめて眠る。そんな日々。
(……そんな日、来ることなんてない、そう分かっていたのに、な)
きん、と針に突き刺されたような冷たさのある水で顔を洗ってもなお、冷めることのない夢は夢ではなく現実だ、と鏡に映る自分が告げていた。そう倖せなはずだ。どれだけ望んでも手に入れることのできなかった未来が、今、この手にあるのだから。もうどれだけ願っても来ることのない未来が、ハチがいるという倖せがすぐ傍らにあるというのに-----------------------俺は不安で不安でたまらなかった。
(……何で?)
倖せなはずだ。もう逢えない、そう思っていたハチともう一度逢うことができたのだから。それなのに、翳がひそりひそりと俺の心を浸食していくのが分かった。それはまるで冷たさで壊死していくように、ゆっくりと機能を停止していく。鏡に映っている自分は、昨日と何も変わっていないというのに、全てが変わってしまったように思えるのはどうしてなんだろうか。
「兵助―」
ぼんやりと鏡を眺めていると、不意にそう呼ばれた。ずっと、水を流しながら考えていたらしい。ざぁざぁ、という水音が、突然に耳に届きだした。俺は「今、行くー」と声を上げ、もう一度だけ手を洗うと蛇口のコックを捻った。ぱ、っと手を払えば、水滴が鏡に飛んだ。そのせいで泣いているように見える自分を叱咤する。
(何、考えてるんだろう-------------ハチが逢いにきてくれただけで、十分だってのに)
***
「ずいぶん、遅かったな」
「悪い。何か、まだ目が冴えなくて。って、これ、作ってくれたのか?」
「おぉ。冷蔵庫の中身は怖くて使えねぇから、たいしたものじゃねぇけど」
そうは言うものの、食卓に並んでいるのは、まるでホテルに止まったときに出てくる朝ご飯のようだった。忙しさにかまけて(というか、余計な暇を作りたくなくて忙しくしている部分もあるのだろうけど)ご飯なんて適当に取るのが当たり前になっていたから、こんな風に、できたての温かい匂いに触れることが久しぶりなような気がした。
「飲み物、コーヒーでいい?」
「あぁ」
「コーヒー、飲めるんだな」
ふ、とハチのトーンが冬の影のような暗い冷たさを帯びたような気がした。当たり前のことを質問されて、不思議に思いつつ「あぁ」と答える。俺を見遣るハチの笑顔が、どこか淋しげに感じて「どうしたんだ?」と聞こうと思ったけれど、先に「あ、今更だけど、マグカップ借りている」と別の話に変えられてしまって、それ以上言えなかった。
「いいよ。何でも使ってくれて」
マグカップは、俺と勘ちゃんと雷蔵でおそろいで買った物だった。たまたま旅先で見つけた陶磁器のコーヒーカップが気に入って、三人で購入したのだ。ペアカップってのはよく見かけるけれど、三つセットで、というのは珍しかったからだ。それぞれの家で使ってもよかったのだけれど、そのデザインが三つ揃えて並んでいた方が可愛い、って話になって、とりあえず俺の部屋に置かれていたのだけど、一ヶ月くらい前、雷蔵のは割れてしまって、今は2客しかなかった。
(そっか、今は、ペアカップなんだな)
ハチとペアカップ。あの頃、思い描いた倖せな夢----------------倖せすぎて、また、胸が灼けるように痛んだ。
2010.12.25 a.m.9:13
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