いつもと変わりない、朝だった。十年近く使い続けている目覚まし時計を一回で叩き割るようにして止める。まだ真夜中なんじゃねぇか、と思わせるには十分なほど辺りは暗い。また眠りに就こうとする軟弱な体を叱咤し、無理矢理に布団から出てしまえば、落ちかけていた瞼も寒さで見開いた。凍てついた朝、だ。軋むような冷たさに、暖房を付けようか迷い、だが、どうせ部屋が暖まる頃には出勤してしまう、と、その場で足向きを変える。いつもと変わりない朝だった。1年間365日とまではいかないものの、350日くれぇはこうやって起きるような朝だったのだ。

(さっさと、出よう)

人混みのせいか暖房のせいか分からねぇが、サウナみたいに暑い電車にどうせ乗るんだ。ここで、うだうだと寒さに震えているより、さっさと駅に向かった方が得策だ。そう考え、身支度のために洗面台に向かう。壁にある電気のスイッチを入れる。が、点かない。

「げ、ここも電球切れかよ」

部屋の蛍光灯が機能しなくなって、もう三日。明日買いに行こう、明日買いに行こう、と思いつつ、暇がなくて先延ばしにしていた。コンビニにでも寄れば電球の一つや二つ買うくれぇ簡単なことなんだが、何かつい、忘れてしまっていて、代わりに洗面所の電気を付けっぱなしにして、ドアを開けていて光源を確保していたのだが、その手も使えなくなった。

(まぁ、もうすぐ夜明けだしな)

少しずつ闇に埋もれていた物の輪郭がはっきりとしてきた。別に電気をつけなくても顔を洗って、着替えるくらいできるだろう。髭は会社の洗面所で剃るか、なんてことを考え、洗面台に向かう。北向きにあるせいか、部屋よりも更に気温が低い。クソ寒かったが、俺はいつものように水道の蛇口をそのままひねり、水でざばざばと顔を洗うことにした。

(冷てぇな、さすがに)

ぎゅ、っと顔面が引き締まる感覚に滴る水が気持ち悪い。水を止めるよりも先に顔を拭きたくて。目を瞑ったまま、片手でタオルを探す。すぐに指先に触れたそれを引っ張り取って、俺は顔を力一杯拭った。ぱ、っと顔を上げれば、飛沫を受けた鏡の中で、芒洋とした闇の中で、冴えない自分が映っている。目の下の隈が消えることは、ねぇんだろう。

『まるで、おっさんだな』

垂れ流しの水音に混じって、ふ、と、甦る声。-------------仙蔵。あの頃、この隈についてあいつによくからかわれた。生徒会が主体となって動く行事の前やテスト期間中、徹夜に近いことが多かったがために、しょっちゅう隈を作って登校すれば、その度に仙蔵に言われたものだった。おっさん、と。

(まぁ、今はもう十分なおっさんだけどな)

めでたいと感じることがなくなった誕生日。自分が何歳かだんなんて、二十歳を過ぎればどうでもよくなる。世間的には、まだ三十路じゃねぇんだから、おっさんの部類には入らねぇだろう。だが、もう体力的に徹夜を三日も四日もするのは、働き出した当初と比べて結構きつい。最近、ちょっと腹が出てきた気もする。

(体力作りと体型維持のためには、走るのが一番だろうけどよ)

今はゆるめのスウェットで隠れているが、最近、腹回りが気になるのも事実だった。学生時代は早朝のランニングが習慣となっていたが、今はそんな時間も暇も体力もねぇ。日付が変わる少し前に仕事先から電車で帰ってきて、シャワーを浴びて、発泡酒を2,3缶開けて、そのまま寝る。そんな乾いた生活だ。もし仙蔵にでも知られたら「つまらない毎日だな」と鼻で笑われそうだ。

(そんな、もし、なんてねぇけどな)

想像したって意味がねぇ。-------------------------仙蔵は、死んだのだから。

「っ……アホか、俺は」

過去に囚われている自分に気づき、鏡の中で、ぐしゃ、っと顔を歪めている俺自身を罵る。けど、崩れた顔が戻ることはなくて。そんな自分を見たくなかった俺は、出しっぱなしだった水を椀のようにした両の手で汲み、鏡に向かって投げつけた。びしゃ、っと、それは鏡面にぶつかって広がった。そして、重力のままに垂れ落ちていく。それは、まるで泣いているようだった。



***

運動不足解消にせめてもの、という気持ちで駅へと続く大通りを歩く。まだ漆黒に支配された辺りは眠りの最中にいるようだった。西の空はずいぶんと賑やかで、小学生だか中学生だか、それくれぇに習ったいくつかの明るい星以外にも、思ったより小さな星がたくさん見えた。空気が凍てついているせいもあるだろうが、何より時間が時間だけに人工の灯りがねぇ、ってのもあるだろう。

(何時に消灯されてるんだろな)

この時期になると大通りにある並木にはイルミネーションを施され、暮れた後の世界を鮮やかに照らし出していた。途中にある広場めいた所には、大きなクリスマスツリーはこのあたりでは有数のデートスポットになるくらいに、イルミネーションがすごいのだという。だが、今は深い夜の眠りだけが通りにあった。高校の時は、それこそ夜中、点灯してるんだと思っていたが、どうやらそうじゃねぇらしい。節電のためなのか何なのか、いっさい、光は灯っていなかった。ただ、大きな木の影だけが化け物のようにそびえていた。

(そういや、今日、クリスマスイブか)

どうも実感が沸かねぇのは、自分とは関係がないからだろう。どうせ、今夜も遅くまで仕事だ。惚れただの腫れただの、さっぱり興味が持てねぇ。街中にクリスマスソングが溢れ、赤や緑や白や金銀といった色で辺りが包み込まれても、俺の生活が何か変わるわけじゃねぇ。たとえ、もし、クリスマスツリーにイルミネーションが点灯しなかったとしても、俺にはどうでもいいことだった。

(神様の誕生日だなんて、どうでもいい。だいたい、神様なんているわけねぇだろ……)

無神論者と問われたら、首を縦に振ってもいいものか迷う。だが、神様は信じてなかった。神様なんているわけねぇ、そう心から思っていた。信じることができるのは、目に見える存在だけだ。ほかに、信じるものなどない。

(だいたい、もし神様がいるっていうなら、あのときに……って、何、考えてるんだろうな)

あほか、と、己をののしって、俺は輝きが失われたクリスマスツリーの隣を抜け、ひたすらに駅を目指した。



***

(これなら、時間に間に合うだろう)

ようやく駅が見えてきた。まだ薄暗いからだろう構内は煌々と輝いている。それまで、ずっと暗い場所を歩いてきたせいか、人工的な光にちょっと目が痛い。ちょっと顔を伏せがちになりながら、ポケットから電子定期券を取り出し、スムーズに通り抜けれるよう改札に備える。だが、

「何だ……?」

いつもであれば駅の構内は眠気だけが漂っているというのに、今日に限って妙にざわついているのが遠目にも分かった。まだ、6時前だ。さほど人が多いわけじゃねぇが、それでも、その僅かばかりの人が集まり固まっている様子は、いつもとはまったく違う。

(まさか遅延じゃねぇだろうな)

考えうる可能性としてはそれしか思いつかなかったが、そうじゃねぇことを願いつつ、群衆に近づく。電車の発着ホームや時刻を知らせる電光掲示板の下部にはなにやら文字が流れているのが分かったが、目を細めても遠すぎて詳細までは読み取ることができねぇ。仕方なく、足を速めて、駅員らしき制服を取り囲んでいる人だかりに近づく。

「だったら、何でこの駅は電気が点いてるんだよ。おかしいじゃねぇか」
「そうは言われましても……ええっと、ですから、これは各駅に自家発電の装置が設置されていて、その予備電源を使って作動させてるんで、」
「だったら、それで電車を動かせばいいじゃねぇか」
「え、それは」

しどろもどろの駅員に対して遠くから「何でもいいから、さっさと電車を動かしてくれ」とか「どうなってるんだ、復旧情報が入らないとか。こっちは始発から待ってるんだぞ」と怒号が飛ぶ。困惑したような面持ちの駅員の額には冬だというのに汗が珠のように浮かんでいた。ただならぬ雰囲気に単なる事故遅延とかじゃなさそうだ、と思ってると、

「申し訳ありません、現在、JR、私鉄ともども運転を見合わせております」
やや野太い声が、人だかりを割り込んだ。ぱ、っと振り向けば、奥の駅員の詰所から別の制服姿の男が出てきた。さっきまで取り囲まれていた駅員とは違い、恰幅あるその姿に落ち着いて見えたけれども、その表情には焦りが浮かんでいた。どこからか「じゃぁ、いつ再開されるんだよ」と苛立ちがひっくり返った声が上がる。

「当面、運転再開の見通しは立っておりません。電車に供給する電気がストップされている状態でして。いつ頃再開されるのかも、まったく分かりません。申し訳ありません」

切羽詰った言い様に、しん、とその場が静まり返った。それから、引き潮のような人々の細々としたざわめきが辺りに浸透する。ある者は電光掲示板の運転見合わせの文字を眺めてため息をこぼし、ある者は連絡を取ろうと考えたのか携帯を触りだし、またある者はどうするか周りをきょろきょろとしていた。誰かが舌打ちをし、「仕方ねぇ。タクシーか」とぼそりとつぶやく。

(俺も、とりあえずそうするしかねぇよな)

こうなったら一刻も早くタクシー乗り場に行って並ばねば、と踵を返した俺たちを黙り込んで萎縮していた若い駅員が引き止めた。

「そ、それが、道路も大渋滞が各地で引き起こっているそうで」
「どういうことだ?」
「電力が止まってるのは、電車だけじゃないみたいです……この辺り一帯が大規模な停電状態になってるみたいで」

ぱ、っと振りかえれば、確かに、何一つとして光はなかった。この駅の構内を除いては。ただらと続く道は闇に呑まれている。違和感。そうだ。いつも、あの信号はこの時間帯、黄色点滅している。6時になったら普通の信号に切り替わるのだが、通勤の時間は、ぱかぱかと光を散らしている。なのに、今は何の色も付いていない。

(……いってぇ、何が起こってるんだ?)



2010.12.24 a.m.5:20



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