※久々知が男娼。ゆえに、気持ちR-15以上で。


灰色のコンクリの箱、アパートの一室は雨音の檻に閉ざされていた。全てのカーテンを閉ざして創り出した瞑海のように昏い闇の中で唯一の光源であるそれは、シンプルな青を灯していた。やや長く点滅を繰り返していた。マナーモードにしてあるためか、音は鳴らなかったけれど、点灯する間隔で分かる。メールではなく着信なのだ、と。

(誰だろう?)

店を辞めるときに返した仕事用に使っていた携帯にはどこの誰とも分からぬ輩の番号が登録されていたけれど、私用のこれには両手で数えるほどしか登録されていない。そして、そこからの電話となると、大抵は重要性のある電話の可能性が高かった。前の俺の生活からすればまだ宵の口だけれども、電話を掛けるにはあまりに遅い時間で。

(こんな時間に……)

この時間帯に電話をしてくるということは、余程の急ぎの用なのだろう、と光の元に手を伸ばす。指先に震えが伝染った。せっかちに通話を求めるそれをちらりと見遣れば、ディスプレイに『三郎』の文字。店関係の繋がりなんてもう必要ないのだから、さっさと削除してしまってもよかったのに、そのままにしていたのは、恩を感じているからだ。

(色々と助けられたからな……)

仕事を減らすことに関しては何も言わなかった店長も辞めるとなると、契約だの何だのと、ごねだして。それでも俺の意志が固いと知るや否や、黒い影をちらつかせてきた。そんな店長と俺との間を取り持ってくれたのが、三郎だった。「落ち着いたら何か奢れよ」なんて曰う三郎に、最初は借りを作るものな、と思ったが、やつの協力を借りなければ、足抜けすることができないだろう、と俺は三郎を頼ったのだ。上手く立ち回ってくれただけでなく、辞めた後の仕事もどこからともなく探してきてくれたのだ。

(その三郎、から?)

そう、三郎には感謝の念を持っているが、ただ、全く持って、今、彼から電話が掛かってくる理由が分からなかった。事務所の奥まった所にあったロッカールームに何か忘れものでもあっただろうか、と、少ない可能性を頭に浮かべる。けれど、日付を跨ぐ深夜は、客とのトラブルの処理をこなしたり急な予約に対応したりと、三郎にとっては一番忙しい時間帯のはずで、そんな理由で電話を掛けてくるとは考えにくかった。何だろう、と思いながら、急くように震え続けている携帯の通話ボタンを押す。

「……もしもし?」
「あぁ、兵助」

俺の問いかけに被せるようにして切羽詰まった声が響いて。咄嗟に、「何か、あった?」と聞いていた。間髪入れずに「頼みがあるんだけど」と切迫した返事が戻ってきた。あの仕事をしている時に、こんな風に焦っている三郎を見たことがなかった。いつも飄々としていて、どんなトラブルであっても颯爽と解決しているイメージがあるだけに、相当にマズイ状況に追いやられているのだろう。

「頼み?」
「あぁ。兵助の力を貸して欲しい」
「……俺にできることだったら」

そうして三郎が口にしたことは、なんとなく想像が付いたことだった。それでも、断らなかったのは受話器からひしひしと伝わってくる緊迫した空気と、足を洗うことに関して、色々と三郎には助けられた、という思いがあるからだ。告げられたホテルの場所と部屋番号をメモしたものを復唱すれば、三郎が「助かった」と安堵の息を落とした。

「今回だけ、だぞ。もう次はない」
「あぁ、分かってる」

断言した三郎と俺とを繋ぐラインが、ふ、と途絶えた。---------これで最後なのだ、と頭の中に棲む誰かが告げた。これで、最後、だと。それは三郎も感じ取っていたのだろう。途絶えた空隙をたぐり寄せるようにして、彼は僕の名前を囁いた。

「兵助……」
「何?」
「お前は倖せになれよ」

どうしたんだ急に、って笑い飛ばそうとしたけれど、俺の喉は乾ききっていて、息ですら漏れなかった。塞ぎ込んだ沈黙をどう三郎が受け取ったのかは分からない。けれど、やつはもう一度繰り返した。「倖せになれよ」と。それから、小さく、本当に小さく笑った。気がした。

「逃げ出さなければ、絶対に倖せになるから」

どういう意味だ、と問い質す前に電話は切れて。-----その言葉だけが心の内にひっそりと落ち着いた。



***

(あれ、ここ……)

三郎に指定された場所は当然のことながらホテルだった。あまり聞いたことのない名だったが、どうにか見つけ、入り口の自動ドアをくぐれば見覚えのある造りのロビーやフロントがあった。眠たそうな面持ちのホテルマンがちらりと俺の方に視線を投げたが、俺はそれを流してエレベーターホールに向かった。咎められることがないのは、ここがそういった使われ方をよくしている証拠だろう。ヴン、と電源が入って動き出した音。メタリックが貼られているのか自分が映るエレベーターは、やはり見たことがあった。

(このホテル、いつ来ただろうな?)

そんなことを考えている内に、控えめな金属音がホールに響いた。中に入り込めば、己の重みで僅かに箱が軋んだ。さっさと終わらせてしまおう、と、持参したメモを見、エレベーターのボタンを押す。相手がいる部屋は5階にあった。

(まぁ、いつ、って言っても、仕事で来たのだろうけど)

男同士ということがあるとラブホテルでは断られることもあって、色々と面倒だから、たいていは店からそれなりに近い界隈にあるビジネスホテルで体を重ねることが多かった。こういうホテルはだいたい似たり寄ったりな造りをしていて、何回も仕事をしていくうちにあまり、どれも一緒くたになってしまう。余程の特徴がなければ、俺の中では誰かとセックスする場所として全部同じ認識だった。だから、こうやって覚えている、というのは珍しいことで。

(いつ来たんだっただろう?)

どうして覚えているのか、その理由を探っている内に、軽やかな音が到着を告げた。ぎゅ、っと一度、下に沈み込んだ箱の扉が開き、埃っぽい乾いた匂いと入れ違いに外に出る。同じドアがずらっと続く廊下に足を踏み出して----------気が付いた。

(あぁ、そうか。ここ……)

ハチと一番最初に出会ったホテルだった。まだ、あの夜は寒い時期でコートを着ていた。どうにか仕事にも慣れたはずなのに、新規の客の時は馬鹿みたいに緊張してしまっていた。誰か知り合いにあったらどうしようか、と、誰もいない廊下ですらビクビクしてコートの襟に顔を隠すようにして歩いた。互いに仮名を使っているのだ。ドアが開く瞬間まで、相手が知り合いの可能性は0じゃなくて。チャイムを押す指が震えていたのを、今でも覚えている。

(……あの日、ハチと出会ったんだ)

ハチと出会って、俺の世界は変わった。ハチとの逢瀬を重ねれば重ねるほど--------愛されたいと願いが高まった。それが夢幻と分かっていても、希わずにはいられなかった。そうして、毎日のように入れていた夜の仕事を減らして、代わりに昼間に別の仕事を始めた。心の中の自分が、僅かに残っていた良心が、体を売ることを咎めた。ちょっとでもハチに相応しい人間になりたい、と。

(ハチに嫌われたくない、と)

二重生活は体力的にも精神的にもかなりきついもので辛かったが、それでも辞める気にはなれなかった。ハチには言わなかったけれど、そのうちに、夜の仕事は土曜日だけに切り替えていた。唯一の繋がりが、土曜日の午後8時の約束だったから。

(でも、どっちにしろ、ハチには愛されなかったわけだ……)

ハチに少しでも相応しい人物になりたくて、ハチと逢う土曜日以外の日は体を売ることを辞めていたのだ。もうハチの傍にはいられないのだから、またこの仕事に戻ってもよかったはずだった。前のように毎日、この仕事を続けたって、ハチに嫌われることはないのだ。けど、

(この仕事を続ける理由はない)

ハチに愛されることはない、もう逢えない。そう分かった瞬間、俺はこの仕事を辞めよう、と決断した。土曜日に逢うことができなくなった今、もはや、この仕事を続ける理由はひとつもなかったから。その思いを伝え、俺は仕事を辞めたのだ。-----------辞めてしまって、俺とハチとの繋がりは何もなくなってしまった。だから、もう、ハチと逢うことはないだろうけど。けれど、いつか、どこかでまたハチに会うことができたならば、その時に、胸を張って伝えることができたらいい。

(ありがとう、って)



***

「515、515……ここか」

寒くないのに冷えた指先は、あの夜のように震えていた。チャイムをぐっと押し込めば、部屋の奥で篭もった音が響いた。返事はなかったものの、人が身じろぐ気配がする。やがて近づいてくる足音。金属が擦れているのはチェーンを外しているのだろうか。ドアが開いたらすぐさま挨拶ができるよう、いつものように用意して待つ。がちゃ、っと重たい扉が開き、

「こんばん……っ」

途中で、その言葉ごと、力づくで引き寄せられた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。確かめる間もなく、ぐ、っと抱きしめられる。勢いで押し当ててしまった体が触れているのは温もりで。誰かの胸に俺は収まっていた。意味が分からず、混乱してしまい、「ちょ、」とそこから逃れようとする。閉じこめられては敵わない、と閉まってくる扉を背中で何とか押し返して、目の前の人物を避けようとする。だが、その腕は放してくれなくて。手足をばたつかせた俺の耳を食む熱に、ようやく、その正体を知った。

「兵助」

夢かと、思った。倖せな夢を見ているんじゃないか、って。顔を上げた先、そこにいたのは---------

「ハチ……な、んで?」

もう逢えない、そう思っていたハチがそこにいた。ぎゅ、っと胸が苦しくなる。

「なぁ、兵助。一晩だけ、俺にくれねぇか」
「……俺、もう店、辞めたんだけど」
「知ってる。だから、客としてじゃなくて。……俺は、兵助が、好きだ」

ハチのくしゃりと歪んだ目差しは、今にも泣きそうだった。それはハチだけじゃなくて、俺も、きっとそうで。喉がひりひりと痛んで、瞼の奥がぎゅっと熱に滲みた。じんじんと広がるそれは、やがて視界を溶かしていく。ぎゅぅ、っとハチを抱きしめ、それから答える。

「……俺も」

泣きそうな顔で、ハチは笑った。背後で扉が閉まる。それは、優しい夜が始まる合図だった。





なんだかそれは、幸せの形をしたものに見えた。

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