※久々知が男娼。ゆえに、気持ちR-15以上で。



兵助が消えた。

『あー、あいつならやめたよ、店』

やたらと物腰の低い柔らかそうな声が、俺の問いに数秒の沈黙の後、面倒そうなものへと変わった。だるそうに語尾を伸ばした音が言葉になるのに、数秒を要した。やめた-----辞めた。耳から繋がる頭の裏側がザワザワとするのは混線によるノイズのせいか、それとも、こっちの頭が混乱しているせいか。言葉の意味を表面の意識層では理解できたが、内容が伴わず、思わず「え」と尋ね返していた。電話の主は迷惑そうに、けれど、もう一度同じことを繰り返す。

『兵助なら、店、辞めたけど』

音が言葉となり、言葉が意味となった瞬間、体の力が抜け、握っていた携帯が握力を失った指先からするりと滑り落ちそうになる。辛うじて角を掴み、再び耳に受話口を押し当てる。砂嵐のような雑音の振幅が脳裏で増していく。いつしか水分が引いていった咽喉から振り絞り、乾いた唇でなんとか言葉を紡ぐ。

「……いつ?」
『さぁ? 俺は先週の日曜に店長から聞いただけだから。まぁ、いずれ辞めるとは思ってたけどな。最近、土曜しか仕事を入れてなかったし』

初耳だった。初めて出会ったときにほぼ毎日入っているような言いぶりだった。詳しいことは聞いたことがないけれど事情があってこの仕事をしているようだったから、今も変わらずにそうなのだろう、と思い込んでいた。会う時は、目の下に深い隈を作っていることもしばしばあったし。

(---------それに、あの赤黒い痕)

掻き消そうとしても鮮明に思い出せる、誰かの所有の印。



***

追いついたと思ったら倒れこんできた兵助をなんとか受け止めたものの、腕に落ちたその軽さに、俺は衝撃を受けた。確かに兵助は俺よりも多少線が細いイメージがあったが、今、この掌が抱き止めた彼はとても脆く、力を込めればそのまま、砕けてしまいそうだった。それくらい、危ういようなもののように思えた。

「兵助っ!?」

崩れ落ちた兵助の体を支えながら彼の反応を確かめるために軽く頬を叩く。けれど返事が返ってくることはなく、ただただ、苦しそうに呻く眉に彼の生を確認するだけだ。咄嗟に耳を彼の口元に近づけ、手首を取って自分の指を押し付ける。呼吸も脈も、どちらも弱々しくはあったが感じられた。

「兵助、兵助、」

連呼する俺の声がビル群に反響し、すぐさま雑踏に吸い込まれていく。人々は好奇な眼差しをここぞとばかりに、俺たちに突き立てていた。あからさまなものも、隠されたものも。面白がる衆人にこのまま兵助を曝しておきたくなくて。どこか休ませる場所はないか、とぐるり、と見渡せば奇てらった鮮やかさのネオンが縁取る看板が目に付いた。ここなら、と俺は兵助を歪に飾られたホテルへと運ぶことにした。

***

(そういえば兵助の寝顔って初めて見た気がする)

正確に言えば寝ているわけじゃないが、ベッドに彼を横たえ、その瞼が伏せられた彼を見ていると、既知感を覚えた。なんだろう、と記憶のページを繰ってみて、あぁ、と実感する。過去の彼女にしても今まで何回か利用したことのある風俗嬢にしても体を重ねた後は疲労にうたた寝をすることが多くて。その時もこうやって寝顔を見降ろした。

(前より痩せた?)

睫毛が落とす影が抉る眼窩の窪みの深さ。元々色白だとは思っていたが、今の彼は強迫的なまでに白い顔をしている。そのせいか目の下で滲む青黒さがやけにはっきりとした弧を描いていた。ぐ、っと歪んだ眉と眉の間の断絶は緩むことがない。血の気を失い紫に退色した唇が僅かに開いた。けれど、そこから漏れ出るのは呻き声ばかりだった。何かから逃れようと、もがく手足。少しでも楽にしてやりたいと、「兵助、ごめん」と謝りながら、丁寧にも上まで閉められたシャツのボタンを開ける。

「っ」

二つ目のボタンがホールから外れて彼の素肌が見えた瞬間、息が詰まった。赤黒く咲いた華があちらこちらに散在していた。鬱血のそれが何なのか、すぐさま悟った。恐らくは、俺と会う前に誰かと体を重ねたのだろう。そう気付くと彼の境遇の劣悪さを改めて痛感する。実際に男と寝たことがないから分からないが、見聞きした話によれば、相当の体力を使うし時には痛みもあるらしい。肉体的も精神的にも、かなりきつい思いをしているんじゃないだろうか。膚を抉るような色は彼の苦痛の証にも見えた。

(なぁ、兵助……俺に何かできることはないのか?)

そんな状態でいつも俺と会ってくれていたのだという申し訳なさと彼の体調の心配が募る。こんな倒れるくらい体調が悪くても仕事をこなさなければいけない、なんて。このままじゃ、ボロボロになってしまうんじゃないか、って。自分が兵助にとって単なる客の一人だというのは嫌というほど分かっていた。けれど、どうにかしてやりたい、という気持ちが溢れる。-------そして、それとは別に、目の前が血潮で赤く濁っているのにも気づいていた。体中をぐるり、と渦巻く感情のあらぶりが体から噴き出そうだった。どこの誰とも分からない男に、俺は嫉妬していた。

(そいつは、兵助と寝ている)

このまま、その痕に己の唇を落として塗り替えてしまおうか、と考えてしまう。手を押さえつけて支えるようにしてマットレスに身を乗り出せば、俺の重みにベッドが悲鳴を上げた。ただでさえよくない顔色の兵助に俺の影が薄暗く落ちる。ゆっくりと口を胸肌の際まで近づけ、あと一歩で触れようとした瞬間--------俺は、弾けるように俺は離れた。

「ん」

目の前にいる兵助が、小さく身じろいだから。慌てて兵助の元から距離を起き、備え付けの一人掛けソファに身を沈めた。昂ぶる熱が収まるように、と念じに念じれば、やがて冷めていく。同時に平静さが戻ってきた心が、己を嘲る。

(兵助にとって、俺は単なる客の一人でしかねぇのに……勝手に嫉妬とか、マジ、カッコ悪ぃ)

そこまでして、ようやく気がついた。------兵助が好きなのだ、と。

***

ようやく目覚めた彼の視線が肌蹴たシャツに向けられた時、さっきの行動を---キスマークを付けようとしていたことを---見透かされたような気がして、ひどく狼狽してしまった。しどろもどろになりつつ、「悪ぃ。なんか、うなされていたし、苦しそうだったからさ」と説明したものの、黙り込んだ兵助に心臓が痛くなる。咄嗟に「あ、喉渇いたんじゃないか? 何か飲み物、飲むか?」なんて話題を変えて、逃げるようにしてホテル備え付けの冷蔵庫に向かった。

(いつものように、いつものように)

最近見たDVDの話だとか聞いた音楽の話だとか、あと兵助と出会った後に飼うようになった猫の話題とか、とにかく何でもよかった。気まずさを押しやって、いつもみたいに笑い合いたい。兵助への気持ちを自覚したところで、俺と兵助との間柄が変わるわけじゃない。だから、平常心を装いながら「何、飲む? アルコールじゃない方がいいよな」と尋ねる。

(そりゃ、本当は恋人同士とかになれたらいいんだろうけど……どう兵助に伝えればいいか分からないしな)

客の男に急に告白されても戸惑うだけだろう。一応男娼はしているけれど、あくまでもそれは生きていくための手段であって、本当は男が嫌いなのかもしれないし。俺との時間だって金を得るためなのかもしれないし。ぐるぐると不安要素が過る一方で、いつかそのうち関係が変わるかもしれない、そんな淡い期待も胸に抱く。

(まぁ、そんなに焦ることもないか)

来週もまた会えるのだし今日の所はまた楽しく話せればいっか、と思考を切り替え「何か飲みたいものあるか?」とベッドを下りてきて近づいてきた兵助に話しかける。そのために、と目が合った。

「俺を、抱いてくれないか?」

止まった。時が、空気が、息が、心臓が。

「な、」
「俺を抱いてほしい」

一瞬、夢を見ているのかと思った。兵助が好きで好きでたまらなくて、勝手に妄想してしまったのかと。けど、再び、まっすぐ言葉が向けられ、体が熱に打たれた。思わず彼の方に指が伸びる。触れたい。抱きしめたい。口付けたい。愛しさが熱情に駆られる。そのまま彼の頬を包み込もうとして、はた、と気付いた。さっきの、赤みを帯びた痕に。兵助が無理をしている証に。

「……そんな体、抱けるわけねぇだろ」

青白い肌。痩せこけた頬。眼窩の窪み。滲む隈。苦しそうに呻く声。逃げるようにもがく手足。兵助の苦痛に満ちた面持ちがフラッシュバックする。ただでさえ、ボロボロの体にこれ以上、負担を掛けたくなかった。できるなら、兵助を抱きたい。けど、己の欲だけで、これ以上、兵助に無理をさせたくなかった。

「……そっか」

ぽつん、と呟いた彼の睫毛が震えていたように見えた。



***

あの後、何を話したのか全く覚えていない。しばらくして「もう大丈夫だから」と兵助に押し切られる形でホテルを出た。気がつけば日付は越えていて、いつもの契約の時間を過ぎていた。家に帰るという兵助に「送ろうか」と声を掛けたけれど、あっさり「いいよ」と断られた。一言「じゃぁ、さよなら」と闇に呑みこまれていく背中に、もう二度と会えないんじゃねぇか、っていう不安をどうしようもなく覚えて。次の日を迎えても、その次の日を迎えても掻き消えることのない焦燥感に、俺は兵助の属する店に予約確認の電話を入れたのだ。

--------俺の、懸念は的中した。

『……もしもし? もう、切ってもいいっすか? 電話が塞がってると困るんで』

辟易した口調が耳に届いて、まだ、自分が電話の最中だったことを思い出した。

「何で辞めたとか、理由とか言ってなかったか?」
『さぁ? 店長もかなり苛立った感じで俺に言ってきたんで。あ、これは俺の予想なんすけど、まぁ入る日減らしてたから前々から辞める感じはあったけど予約は先まで入ってたし、ぶっちしたんじゃないっすか?』

ケタケタと下卑た笑い声を我慢しながら辛抱強く男が持論を展開し終わるのを待ち、「電話とか住所とか、連絡先とか教えてほしいんだけど」と僅かな繋がりに縋りつく。けれど、『あー、すみません。辞めた人でも、そういうの、教えちゃいけない決まりなんで』とあっさりそれは切り落とされた。

(どうして、俺は『また会える』なんて思ってたんだろう)

毎週土曜、夜8時。その時間になればいつでも会える。それが当たり前だと思っていた。たくさん話して親しくなった、と思っていた。けれど、違う。兵助がどこに住んでいて、普段はどんなことをしているのか、俺は何も知らない。店を介さずに兵助と会う術を知らない。今さらながら、痛感する。-------俺と兵助は、客と男娼という関係でしかなかったのだ、と。





なんだかそれは、幸せの形をしたものに見えた。

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