優しい風が草原を慈しむように撫で続ける。
海とは違う引くことのない緑の波が、碧い匂いと共に押し寄せて。
体に充ちていく長閑さに、そのまま、時間を忘れてしまいそうになって、息を一つ吸い込んだ。
また草の匂いが肺腑を包み込んできて、その瑞々しさに何故だか苦しくなって、私はさっさとそれを吐き捨てた。

「前に、ここに来たことがあったっけ?」

さわさわと、草がじゃれあうような音に混じって、静かな声が耳に届いた。
私に訊ねる訳でもなく己に問う訳でもなく、組頭は純に疑問を呈しているようで。
だから返答するかしまいか迷いながら声の主を見遣ると、組頭の目は常磐色の光に呑みこまれていた。

「何、言ってるんですか。一昨年の秋に火を放ったのはあなたでしょうが」
「あぁ、そうだった」

感慨の微塵もない返答に、記憶の片隅にあるのかどうかすら怪しい、と「本当に覚えてるんですか?」と聞き返す。
私の声音に含まれた呆れを嗅ぎ取ったのか、組頭は少しムッとしたように「覚えてるよ」と語気を強めると、それからまた遠くを眺めた。
また組頭の身胸から心が彷徨いだすのを感じて、現に取り残された私は、仕方なく辺りを見回す。

朽ち果てた賎家に残された蛇が這ったかのような模様の煤痕がある。
梁だったのだろうか、地面を抉るように突き立った太い丸太は暗澹とした色をしていた。
地面からまばらに突き立つ枝木の残骸は、おそらく集落を守るために逆茂木だったのだろう。
それでも、生を謳歌する草木が勢いよくはびこって、今はもう焼き討ちに遭ったことの面影すら探すことの方が難しい。

(いつしか、それらも、緩慢とした速度で、けれども、確実に碧に呑み込まれていくのだろう)

感傷にも似た物悲しさに覆われているのに気づいて、ふつふつと可笑しさが腹の底から膨れ上がる。



組頭を尊敬するように、とこの名をもらって幾つ歳を重ねたんだろう。
忍び組の駒として、敵と称されるものを謀り、弄び、時には魂を手折り、全てを隠すように火を放つ。
正式に忍び組に属し、組頭の下に配されたときは、しきりと“死ぬ覚悟”なんてなものを模索していたけど、それも、とうの昔に飽きた。

流れゆく歳月の中にあるのは、過去でも未来でもなく、今でしかないのだ。

------------------ 今日一日を組頭の下で生きる、だだ、それだけなのだから。

(過去に浸るなんて弱さはいらない)



「こうやって萌黄に覆われてると、野焼きの後を思い出すなぁ」

近いような繋がってないような言葉に、意図がつかめず、あやふやな視線を組頭に向ける。
と、それに気づいたのか、組頭が面白そうに唇をゆがめながら尋ねてきた。

「君は何のために野焼きをするか知ってるかい?」
「何のためって、土を肥やすためじゃないんですか?」

聞きかじりの知識を口にすると、組頭は少しだけ目を伏せて、ぽつりと「よみがえりのためだよ」と呟いた。
海千山千の人物からそんな感傷的な言葉が出ると思わず、つい「よみがえり?」と聞き返していた。
非難にも似た私の言葉を懐柔するように、組頭が私の頭をポンと軽く叩く。

「死に瀕した草葉を焼いて灰にして新たな命の糧とする、蘇生の儀式だそうだよ」
「蘇生させるために、あなたは村を焼いたとでも?」

私の言葉に、組頭は心底可笑しそうに、喉の奥をくつくつと鳴らした。
天を一瞬だけ仰ぎ見て、それから私の方へと、ゆっくりと眼差しを向けた。
傀儡のように表情のない顔から漏れ出る笑い声は、泣いているような気がした。

「まさか。私はそんなに優しい人間じゃないよ」

君が一番よく知ってるだろう、と告げる組頭の双眸は埋もれて行く過去を惜しむ碧に占拠されていた。



ところで、と、悠然と景色に投げかけていたはずの組頭の視線が、唐突に私の目を迅く過った。

「君こそ、ちゃんと覚えてるのかい?」

えぇ、と相槌を打とうと思ったけど、“ちゃんと”という言葉が引っかかって、頷けない。

空を焦がしそうになったほど高く焔が舐め上げたのはこの村のことであったか、
鼻がもげるほどの鉄錆の匂いを嗅いだのはこの村のことであったか、
懇願する叫びを貫いたのはこの村のことであったか、

(…もしかしたら、別の村かもしれない。同じようなことをした)

あの日のことを脳裏に思い浮かべても、その光景は私によって形造られたものになってしまうほど、遠くなってしまった。

「っ…」

出かかった言葉は、中途半端に唇から抜けた空気となり、酷く間抜けな音を立てる。
組頭はそんな私に、ほら同じじゃないか、と言わんばかりに薄汚れた包帯の下に隠れた眼尻を緩ませた。

「記憶なんて、しょせん、そんなもんだよ」

草が擦れ合う優しい音の合間を縫って届く組頭の声が、深く、私の中に響き落ちた。
還っていく碧が、私の目には痛いほど鮮やかだった。
いつか、今日のことも過去になるのだろう。

(浚っても浚っても掌をこぼれ落ちていき僅かな断片しか残らないような、そんな過去に)


title by 酸性キャンディー


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