「兵助、8番のオーダー取ってきて」
「はい」

伝票を手に、一番奥にしつらえられた8番テーブルに近づくと、そこには見知った顔があった。がっしりとした体躯、無造作に跳ねた短髪、小麦色の肌、溌剌とした瞳。強く光るような、そんな人。

(------------たけ、や)


驚きと恥ずかしさと、それから眩しさが絡み合い、一瞬、足がすくんだ。それでも、彼が俺のことを知っているはずがない、そう思いテーブルに近づく。悪いことをしているわけじゃないのにパトカーを見るとドキリ、とするような、妙に謙った気持ちで。

「ご注文は、お決まりでしょうか」

大丈夫、彼は俺のこと、知らない。呪文みたいに心の中で繰り返すけど、喉が乾いてカサカサする。貼りついた唇から出たのは、いつもより2オクターブくらい上なんじゃないかって声。こんなので緊張してしまっている自分が、情けなくなる。

「あれ、久々知じゃん」
「え」

メニュー表から顔を上げた彼は、びっくりした表情で言った。てっきり注文が返ってくると思っていた俺も、彼の言葉にびっくりした。ぽかん、と二人して見合っているうちに、俺の中にあった緊張はどこかへ行ってしまった。

「あれ、違った?」

夏の太陽のような、強い光が宿っている彼の瞳が翳ったような気がして、慌てて首を振る。


「や、あってるんだけど…名前」
「え?」
「名前、知ってると思わなかったから」

彼が光の住人だとすれば、俺は日陰の端っこで息を潜めている人だ。クラスのどこにでもいるような、いてもいなくても一緒のような存在だと思う。卑屈、と言われるかもしれないけど、彼のように人を惹きつけてやまないような存在でないことは事実なのだから。

…だから、少し、苦手だったのだ。彼のことが。

「えー、何で、クラスメートじゃん」

竹谷は当たり前と胸を張って言い、それから、俺を見て、ぱちくりと、瞬いた。たぶん、俺が「びっくり」という表情をしていたからだと思う。少し考え込んで、それから、注文を告げた。

「あ、えーと俺、コーラね」

ガラスから差し込む夏の光は、竹谷の周りで、金色のベールのように優しく輝いていた。



***

「いらっしゃいませ」
「兵助。俺、コーラね」

少しずつ、少しずつ、「竹谷八左ヱ門」という人を知っていく。コーラが好きなこととか、けど、体に悪いからって周りから止められていることとか。本当はストローは使うのは好きじゃないのだとか、けど、ストローの袋で芋虫を作るのが好きだとか。

「へぇ、ここ、兵助の伯母さんの店なんだ」

氷のへこみにストローを差し込み息を吹き入れて遊んでいた竹谷は、顔を上げると店内を見回した。カフェというにはおこがましい、なんて言ったら伯母さんには怒られるけど、喫茶店という言葉がここには似合うと思う。ぎゅっと煮詰まった飴色のテーブル、少し陽にやけた生成り色のカーテン、葡萄色の革の表紙のメニュー表、一つの曇りもないコーヒーカップ。

古い映画に出てくるようなそんな黄昏に調和が取れた店内で、それでも竹谷がいびつな存在にならないのは、彼がすごく気遣いのできる人だからだと思う。

もちろん、明るくて、よく喋るのは学校と変わらないんだけれど、けれど、竹谷はそれだけじゃなかった。竹谷は俺の話に「そうなんだ」「へぇ」と、俺の目を見て相槌を打ってくれる。近所に生まれた子猫の話だとか、そんな些細なことでも。

そういうところが、すごく話しやすくて、もっと早くから話せばよかった、と思うと同時に、なんとなく「騒がしい人」というイメージだけを持っていた自分の色眼鏡が恥ずかしくなった。

「あぁ。夏休みの間だけ、お手伝いしてる」
「すごいな」
「すごいのは、竹谷だよ」
「や、俺だったら、きっとグラスを5つぐらい割っちゃうし」

そうやって見せる彼の笑顔は明るく澄んでいて、くっきりとした夏空のようだった。



***

俺のことも、少しずつだけど、ハチに話すようになっていた。別に自分のことを話さなくてもよかったのかもしれないけれど、けれど、ハチに知ってもらうのは悪い気がしなかった。もう何十年も前から親友だったような、それでいて、何かを発見したときのような新鮮な気持ちもあって、ハチとの会話が心地よかった。

--------------------------世界の色が、違って見えた。

都会で季節を一番に知るのはファッションだなんて言葉があるけれど、秋風が吹き抜けるより先にその変化は確かに訪れる。カウンターでコーヒーを飲んでいる綺麗なお姉さんの足元は、おろしたて黒のエナメルが、ピカピカ輝いていた。夏も終わりか、と思いながら見た窓の外は、ぼんやりとした竜胆色の空を這うような低さの雲が群れていた。

「いらっしゃいませ」
「俺、コーラね」

毎日、というわけではないけれど、それに近い頻度で彼はこの店に顔を出すようになった。いつも店のカウンターキッチンからは見えない一番奥の席に座って、いつも同じものを頼む。それを知ってか知らずか、彼が姿を見せると、俺の伯母さんは透明のグラスに氷を入れ出す。俺はというと、「いつものね」とコーラを彼にいつか出せるといいなぁ、とぼんやり、温かな想像をしながら彼を迎えていた。

「ハチって、本当に、コーラが好きなんだな」
「なんか、この爽快感がクセなんだよなぁー」

喉仏を鳴らしながら、竹谷は本当に気持ちよさそうにコーラを飲んだ。とん、と音をたててグラスをテーブルに置くと、ぷくり、とグラスの底で泡が膨らんだ。いくつもいくつも終わりがないように生まれ続け、ゆらゆらと立ち上り、行く場所を失って静かに弾けた。

「兵助は、嫌い?」
「え、あーっと、実は、コーラを飲んだことがないんだよな」
「へ? そうなの?」
「うち、そういうの厳しくて。…本当は、飲んでみたかったんだけど」
「そうなんだ」
「なんか、一度ダメって思うと、なかなかできないんだよな」

そう言うと、竹谷は「飲んでみなよー」と、びっしりと水滴が付いたコップを差し出した。その手は、太陽の下で活動していることの証拠とでもいうように、小麦というよりもコーラに似た色合いをしていた。受け取ると水滴が集まり指を伝っていくのを感じながら「竹谷は、俺と同じコップに口付けても、なんとも思わないんだ」と思い、グラスを呷った。

「大丈夫?」

急に炭酸を飲み込んだせいだろう、喉の奥で引っかかったかと思うと、ぐっと胸の辺りに落ち込んで苦しい。げほげほと、咳きこむ俺の背中を、ゆるゆるとさする手があった。ハチ、だった。それは、突然だった。

(…あぁ、俺、竹谷を好きなんだ)

胸の中で小さな痛みが弾けて、それから、妙にすっきりして、納得してしまったのだ。その感情は、まるで以前からあったかのように、自然と俺の中に馴染んでいった。たぶん、ずっと前から、あったんだ。この気持ちは。コーラの泡のように、小さくて、けれど確かな気持ちが、パチリと俺の中で弾けた。

「…あぁ、もう大丈夫だから。ありがとう」

ゆっくり、背中から外されたハチの手は、金色に柔らかく優しく光って見えた。



***

「あ。そうだ、兵助、数学の課題って夏休み明けだっけ?」
「えーっと、たしか登校日に提出じゃなかった」
「げ、明後日まで? ってか、2学期でいいじゃんね」
「そっか、明後日、登校日だっけ」

もともと夏休みで薄れかかっていた日付の感覚は、とっくに麻痺していた。毎日のように喫茶店にコーラを飲みに来てくれていてていたから。ハチは学校のクラスメートなんだ、ということが、なんだかすごく遠いことのようだった。だから、学校の中での「ハチ」がどんな風だったのか、すっかり朧げな記憶になってしまっていた。



***

「兵助、おはよー」

学校は、様変わりをしていた。夏休み期間中、掃除をしてなかったせいだろうか、なんだか埃っぽい。日に焼けてぐっと背が男の子たちや、女の子たちの耳に見えるピアスの穴や慌てて黒染めした斑な髪。とりたてどこが、というわけではないけれど、浮き立つような空気とよそよそしさを孕んだ空気が滞っていた。

大きく変わってしまったわけではないのに、何かが決定的に変わってしまったのだろう。

一瞬そんな雰囲気に気後れしながらも、声を掛けてきた友達と教室に向かう。「夏休み、どうだった?」「んー普通だよ」と、他愛のない会話さえ、お互いに探りを入れているような感じで。その変ってしまった何かを掴もうとするような、変な緊張感が張りつめた中で、言葉を交わし合う。それでも、階段を2つ上がって教室の前にくる頃には、そんな感覚も払拭されて自然と友達の話に耳を傾けることができていた。

(あ、竹谷)

教室に入ったとたん、光が飛び込んできた。周りの人の肩が揺れて、竹谷が何か面白いことを言ったのだと、分かる。そこはガラスに隔たれたみたいに見えてるのにすごく遠くて、俺は近づくことすらできなかった。

(知らないほうが、よかったな……)

そんな感情が胸の中に浮かび上がって、少し、驚いた。

『喫茶店での竹谷じゃないみたい』
『何でこんなことを考えてるんだろう』
『やっぱり、俺と彼とは違うんだ』
『バカみたいだなぁ。なに、期待してたんだろ』
『喫茶店で会わなきゃよかった。そしたら、こんな気持ちにならずにすんだのに』

目まぐるしく動き回る気持ちは、けれども、どれもが根っこで一つの感情に繋がっていて。嵐の前の鈍色の雲のような、どっしりと居座っていて、揺るがすことのできない暗みを俺に見せつけた。屈託なく笑う竹谷を、俺は、ただただ、眺めていると、

「兵助、おはよう」

まるでモーゼの十戒のワンシーンのようだ、と人ごとのように思えたのは、あまりに遠い世界だったから。柔らかで、それでいてまっすぐな眼差しが、いつもと変わらない眼が、俺を見ていた。竹谷のとは対照的な、いくつもの、好奇に満ちた視線が俺と彼とに交互して行き来して注がれているのが分かる。

「た、竹谷……おはよう」

それだけ言うと、逃げ出すように俺は自分の席へと向かった。鞄を置いて、座って、また立って、鞄の中を探って、座って、また立って。同じ動作を何度も繰り返しながら、なんとか教卓の前に課題を出そうと立ち上がると、

「兵助、どうかした?」
「た、たけや」

できるだけ竹谷と視線が合わないようにしてたのに、気がつけば、目の前にいた。初めて喫茶店で言葉を交わした時みたいに、いや、それ以上に口が渇いているのが分かる。ぼんやりと白っぽい雲にぎゅっと押し込められたような光が、ぱぁっと晴れ渡って、彼を包み込んだ。

「俺、何かした?」
「いや。…ごめん、これ以上、話しかけないでくれ」

その光が眩しくて、俺は彼から目を逸らしてしまった。



***

あの後、竹谷は、一回も話しかけてこなかった。

「兵助、これ3番ね」

学校帰りに喫茶店に寄ると、そこはいつもの通り、ゆるやかな時間が流れていた。水とおしぼりを置いて、注文を聞いて、伯母さんに注文を伝える。飲み物だったら準備して、再びお客さんの前に持っていく。会計のためにレジを打って、テーブルに残されたものを片付ける。体に染みついたものは、たぶん、目をつぶってでもやれるのだろう。

それでも、頭の中は、心の中は、目を開いても閉じても全てがそこに行き着いてしまう。

「兵助?」
「…なんでもない。これ、どこのテーブル?」
「3番だけど…どうかした?」
「な、なんでもない…よ」

怪訝そうな視線を避けるようにように、お盆に2種類のケーキとカフェオレを並べる。ちょうど入店を知らせるベルが伯母の気がそちらに向いたのを見て、俺は3番テーブルに向った。カウンターキッチンに戻ると伯母さんが、氷の詰め込まれたグラスにコーラを注いでいるところだった。

「これは?」
「これは8番ね」
「え?」
「コーラの彼が、来てるわよ」

今までの俺に、「さよなら」を言ってもいいだろうか?
今までの関係から、「さよなら」を?
今までの俺に、弱い自分に、「さよなら」を言うために。

しゅわしゅわ、と泡が弾けた。俺はお盆にコーラを載せると、一歩、踏み出した。


-------------------------「いつものね」と、ハチに差し出すために。


しゅわしゅわ、ぱちり


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