携帯のアラーム機能で指定した時刻よりもずっと早くに目が覚めてしまった。それでも物の隈が闇から再び分離を始めていて、部屋は白っぽい明るさに包まれている。もう少しすれば枕元の携帯が激しく振動し、起床を促してくれるだろう。携帯の隣に転がっている水風船に手を伸ばす。夢じゃないのだ、と。指先が触れただけで、たぷん、と音が立った。水が触れているために少し色濃くなった影がしばらく揺れ続け、やがて収まる。

(夢じゃない)

昨晩の祭りの熱気とはまた違う熱さがまだ手首に宿っていて、それが現実の証拠な気がした。



***

ゆっくりと闇に絡め取られていく中で、神社へと続く道の路肩だけは煌々と明るかった。祭りの楽しみの一つである出店が夜を賑わせていた。客引きのためだろう、やたらと威勢のいい声が飛び交っている。神社に向かう人、戻ってくる人と多少は流れがあるもの、屋台を移り渡るために縦横無尽に歩き回っている人もいて、なかなか前に進むことができない。

(約束の時間にギリギリだな)

分かりやすいように鞄の手前のポケットに入れた携帯を取り出す。暗闇であれば活躍するバックライトも今日ばかりは屋台が軒先から照らす灯りの方が明るい。反射してちょっとみにくいくらいだ。そこに刻まれている時間は待ち合わせの時間に迫っていた。遅々として進まない行列に、ひょい、と背伸びをしてみたもの、あるのは人の頭ばかりで。

(連絡、入れた方がいいか?)

真っ先に頭を過った人物を振り払って、携帯をいじくって着信履歴から勘ちゃんの名前を探しだす。躊躇うことなく発信ボタンを押せるのは、きっと幼馴染だからだ。さっき思い浮かべた人に電話するとなったなら、雷蔵じゃないけれど一晩だって悩んでしまうに違いない。

「中々、繋がらないな」

いつまでも続く発信音は切り替わることがない。周りの騒々しさで相手の声が聞こえないかもしれないから、と携帯を押さえつけている耳が痛くなってきた。この田舎町ではこれだけ人数が膨れ上がることなんて年に数回で、一瞬、回線が混雑をしているのだろうか、とも思ったが、コール音は聞こえてくることを考えればその線はないだろう。留守録になる気配もなく俺は終了ボタンを押した。

(雷蔵は俺より遅く上がるから遅刻するかもって言ってたし、となると三郎かハチだけど)

また着信履歴の画面を呼び出し、ボタンを長押しして今度は少しスクロールする。三日前の日付の横に『鉢屋三郎』の名前が映し出されている。不携帯というか気まぐれな奴が電話に出るかどうか怪しいところだったが、このままの歩みじゃ絶対に遅刻してしまう。勘ちゃんに電話を掛ける前と同じ露天の軒先にいるために店の口上を覚えてしまいそうだ。ほとんど動いていない列に、三郎が俺は発信ボタンを押した。だが、

『お掛けになった電話は現在電源が切られて……』

機械を通した冷たい声が押し当てているところから響いてきて、俺は頭を抱えたい気持ちでいっぱいだった。ボタンを押して通話を終了させつつ、あっさりと切れてしまった頼みの綱にどうしようかと思案する。どれだけスクロールさせてページをめくっても、着信履歴にもその名前がないことは分かり切っていた。

(連絡先を交換してから、一度だって電話が掛ってきたことがないんだよな)

着信履歴に「竹谷八左ヱ門」の文字が並んだことがないことを改めて突きつけられて、ぎゅ、と胸が痛んだ。話を聞いていると三郎や雷蔵とは、バイト後にちょくちょく遊んでいるみたいだった。もちろん、今、彼が泊っている宿からの近さも関係はあるのだろう。

(けど、この前は勘ちゃんから音楽をプレイヤーに落としてもらう、みたいな話をしてたし)

そう考えると、バイト以外の場所でハチといることが一番少ないのは自分だった。バイトの行き帰りはシフトが重なれば一緒するけど途中の分かれ道で「じゃぁな」ってハチはあっさり背中を向けてしまう。朝夕自分は勝手に彼と親しくなった、と感じていたけれど、もしかしたら思い込みなのかもしれない、そう思ったらアドレス帳から彼の名前を探すのも躊躇ってしまう。それどころか、今すぐにでも引き返したい気持ちでいっぱいだった。

(……今日も、俺が一緒にいてもいいのかな? ハチは楽しいんだろうか?)

毎年4人で行っていた祭りに行く面子にハチが入っていることを知って喜んでいたけど、もしかしたらハチにとっては俺が行くことで気を削がしてしまったのかもしれない、と、どんどんと気持ちが下へ下へと転がっていく。息が苦しいのは、人ごみのせいだけじゃなかった。さっきまで遅々として進まない流れに気を揉んでいたけれど、今は、このままここで留まってしまえばいいとさえ思う。

(戻るわけにもいかないしな)

鈍い足並みながらもどんどんと神社の方に追いやられていく流れに逆らう気力はなかった。もし家に帰るとしても、どちらにしろ連絡は入れなければならない。理由を問われた時に、上手く誤魔化すことができる自信がなかった。---------結局、俺はハチに電話できなかった。



***

約束の場所であった鳥居の外れにいたのは彼だけだった。足元を照らし出すために付けられたオレンジ色の電球の下にいるせいか、こっちからは一発で彼の姿を見つけることができた。心臓がぎゅうと絞られる。辺りを見ても、三郎や勘ちゃんらしき人物を見ることはできない。まさかハチ一人だけだとは思わず、つい、歩みを止めそうになる。だが、ゆっくりだとはいえ留まることのない流れにそのまま背後からハチの前へと押し出され、隠れる間もなく見つかる。

「兵助」
「ハチ。……1人?」
「おぅ。さっきまで三郎がいたんだがな。『ちょっと野暮用』って飛んでった」
「野暮用?」
「あぁ。詳しく聞く前に、この人ごみに呑まれちまって」

感心するように眼差しを群衆に向けながらハチは「勘右衛門と雷蔵は?」と尋ねてきた。勘ちゃんから連絡が来たらすぐに出ることができるように、とポケットにねじ込んだ携帯を取り出す。着信を合図するランプは点灯しておらず黙したままのそれを念のため開けたものの、何ら変哲のない待受画面が現れるのみだった。

「雷蔵はバイト上がりが遅いから遅れるかも、って昨日、言ってた気がする。勘ちゃんは何でか連絡が取れないんだよね」
「まじか……とりあえず、どうする? ここ邪魔じゃね?」

近くの石段には幾組かのカップルが見せつけるように座っていて通行の邪魔をしていた。点在する彼らを避けるようにして他の人たちが神社へと向かったり、屋台の並ぶ通りに戻ったりしていて混雑を引き起こしているのだろう。そのカップル達までは行かないにしても、この大渋滞の中でぼさっと突っ立っているのは迷惑きわまりない。

「確かに。……先に2人で神社にお参りに行く?」

ぱ、っと提案して、は、っと気づいた。意図せずに口を突いてしまった『2人』という言葉がハチに嫌な思いをさせてしまったのかもしれない、と慌てて「あ、けど、そのうち3人とも来るだろうし、もう少し離れた所で待っていた方がいいかも」と付け足す。だが、ハチは挙動不審になる俺に構うことなく、笑みを浮かべた。

「や、2人で先に行ってようぜ」

彼の口から飛び出した『2人』に心臓がもんどり打った。ハチがそう言ってくれるなんて夢にも思っていなかった俺は言葉を失ってしまって、その場に立ち尽くしてしまっていた。先を歩き出したハチの背中が他の人々に隠されてもなお、動けずにいて。数m先で、俺がついてこないことに気付いたのだろう、立ち止ったハチが振り返った。

「兵助? どうした?」

俺の元に戻ってきたハチに、意を決して尋ねる。

「嫌じゃないのか?」
「何が?」
「俺と2人って」

(うわー俺、何、聞いてるんだ?)

恥ずかしさのあまり火が顔から吹きそうだった。ぐわ、っと顔を昇る熱は頭まで回って、そのまま上せそうだ。だが、口から出した言葉を引っ込めるわけにはいかない。何でもない、って言えば「何でもないって、気になるだろ」とか何とか言われ、ますますハチに追及されるのは目に見えていた。ただ、ハチの答えを聞くのが怖くて、ぎゅ、っと目を瞑る。

「嫌なわけないだろ! すげぇ楽しみだし!」

は、っと顔を上げれば、ハチは優しい笑みを俺に向けていた。オレンジ色の灯りに照らし出され柔らかい光に包まれているハチに、心臓がどうしようもなく震えた。溢れだしそうになる「好きだ」という感情を別の言葉に置き換え、俺はそっと微笑んだ。

「ありがとうな」

たとえ「好きだ」という言葉をハチに言えなかったとしても、そうやってハチに思ってもらえるだけで、そうやって「楽しみだ」って言ってもらえるだけで、十分だった。ハチと2人だけの時間を過ごすことができるだけで倖せで。それ以上のことを望むだなんて、罰あたりな気がした。

(今夜の思い出があれば、もう、何も要らない)



***

あの後、とりあえず3人に『先に神社でお参りしてるから、連絡をしてくれ』といった旨のメールを送って。それから神社を参って、当初待ち合わせの場所だった鳥居の近くに戻ったけれど、三人の姿を見つけることはできなかった。携帯電話の方にも連絡はない。もう一度、それぞれに電話をしたが、やっぱり繋がらなかった。どうするか、しばらく顔を見合わせていたけれど、ハチの「せっかくだから、屋台でも見ていこうぜ」という言葉に俺は頷いていた。

「兵助、何したい?」
「何って……」

突然、話を振られてどぎまぎしてしまい、考えがまとまらない。ヒントを得ようと辺りを見回したけれど、逆にそれが間違いだった。色鮮やかな輝きに包まれている屋台の前には笑顔の人々がたくさんいて、どれも魅力的で雷蔵じゃないけれど、かえって迷いのドツボに入り込んでしまった。

(ハチと一緒だったら、どこでも楽しいだろうな)

そんなこと口に出せるはずもなく「ハチは?」と尋ねる。すると彼は「えっと、まずはたこ焼きとお好み焼きだろ。んで、かき氷。あとラムネ。それから射的して、輪投げするだろ。金魚すくいとかスーパーボール掬いも俺、結構得意なんだよな」と指折り挙げていく。その勢いについ零れそうになる笑いを押さえてると「あ、けど、まずは、これだな」と目の前にある屋台を指差した。「ヨーヨー釣り」という文字が躍っている。

「行こうぜ、兵助」

ハチの掌が俺の手首を包み込んでいて、気がついた時にはハチに引っ張られていた。



***

急に掴まれて伝わってきたハチの熱のせいで、緊張してしまい、自分の手のはずなのに、自分の手じゃないみたいだった。それは彼が店先で俺のを放した後も続いていて。動きがぎこちなくなってしまい、それが、ますます緊張に拍車をかけてしまって。あたふたしてしまって、結局、俺はすぐに紙縒りを水に濡らしてしまった。当然、釣りあげかけた水風船は、子ども用のプールに落下した。一つも取れずに溜息を漏らしていた俺に「兵助にやるよ」ってくれたのが、今、枕元で転がっている水風船だった。

「好きだ」

誰もいない部屋でぽそりと呟いて、水風船を突っついて、ころりと転がす。ゆらゆらと揺れる感情。想っているだけで十分だった。相手に伝えなくても、思い出があれば、それでよかった。だって、ハチはいずれこの町から出ていてしまうから。だから、想いを伝えないと決めたのに。それ以上のことを望まない、って決めたのに、


0808 (どうして、それ以上のことを望んでしまうのだろう……もっとハチと一緒にいたいだなんて)

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