生き急ぐ蝉たちは、闇の重なりが完全に物陰を溶かすようになってからも叩きつけるように鳴き続けている。夜明け前になれば届く潮騒も打ち消され、まだ籠もる熱だけが部屋中を支配していた。どれだけ扇風機を回したところで、元々のうだるような空気が移動するだけなような気がする。それでも、俺は僅かな涼しさを求め、俺は左右に回転する扇風機のスイッチを押す。

(この扇風機があるからまだ生きてられるけど、これもめちゃくちゃ古いしなぁ)

今時、見かけることのないスイッチボタン式のそれは、四つのボタンの内、ずっと『強』の部分がへこんでいた。銀色の盤面には錆びたような赤茶が点々と染みを作っている。代々使い込まれているせいか、手垢でできたくすみはさっきの『強』と『消』のボタンに集中していた。絶命しそうな悲鳴を上げ続けて首を振り続けている扇風機に、ずぃ、と顔を近づけてる。となれば、叫びたくなるのが人間の性だろう。

「あ”〜」

風に震えていつもと違う自分の声が跳ね返ってきた。そのごわごわと揺れるのが面白くて、当たる風の気持ちよさについつい調子に乗って、扇風機が俺の正面に戻ってくる度に声を上げ続ける。今なら、何でも言えるような気がして。---------頭の中で兵助の面影を浮かべながら、叫んだ。

「うぉぉぉーすきだー」
「何がすきって? というか、何やってるんだ?」

ノックの前触れもなく、呆れた声音が背後で響いた。耳が蝉と扇風機の軋みで馬鹿になっていたらしく、奴が部屋に近づいてきたのに、全然、気づかなかった。その言葉の持ち主の名を「勘右衛門っ!」と呼んだがちょうど扇風機が首を回し始めたところに声が触れてしまい、実際は「くわぁんえもん」とますます時代がかった名前になってしまった。

(……うわっ、聞かれたよな……これ以上追求されなければいいんだけど)

「何って、涼んでた」

はぐらかそうと後半だけ答えると、勘右衛門は「鉢屋の言ってたこと、本当だったんだな」と感心するように呟いた。前半の部分に触れることはない様子に、奴にばれなかった、という安堵が胸を包み俺は、ほぉ、と肩を下ろす。それからわざとらしく、俺は勘右衛門を軽く斜を構えるようにして応じた。

「何、お前、信じてなかったのかよ」
「信じてなかったというか、半信半疑だな」

まさか客にまで本当に強要しているとは思ってなかった、と笑いながらずけずけと当たり前のように入ってくる勘右衛門だが、一応、ここは奴の家でも俺の家でもない。ざっくりとした造りの畳部屋はそれこそ田舎のじいちゃんちを思い起こさせるが、ここは民宿だ。当然、違いもある。

「勘右衛門、扉閉めろよ」
「えー、閉めきったら暑いって。どうせ誰も見ないよ」

その一つが、今、彼がノックもなしに入ってきた扉だった。普通の家なら襖で間仕切られる所だが、あくまでも民宿の造りをしているために、扉があり小さいなりにも三和土に似た上がり口が作られている。館内用の緑色のスリッパがそこに行儀良く並んでいた。

(こういう所、よく分からないよなぁ)

揃えられて脱がれているスリッパからも分かるように三郎や雷蔵よりも兵助に似た生真面目さがある一方で、腹に一物ありそうな性格をしている、というのが俺の勘右衛門に対する印象だった。それでも、付き合ってる分には楽しいし、妙に趣味が合ったりもするところがあって。

「これ、入れてきたよ」
「まじで!! ありがとな」

昼間、ひょんなことを自分がずっと探していたアーティストのアルバムを勘右衛門が持ってる、と知って。休憩時間を潰すために持ってきていた携帯音楽機器に入れてもらうように頼んだのだ。まさか、願い出たその日の内に入れてくれるなんて思ってもおらず、一気に、テンションが上がる。

「悪ぃな、わざわざ持ってきてもらって」

掌に収まるほどの小さな機械がやたらと輝いて見えるのは気のせいじゃねぇだろう。この町、唯一の娯楽である観光客が押し寄せる海はバイト先で、オフの時に遊びに行ったら最後、結局手伝う羽目になって、恐ろしくて行くことができねぇ。かといって、灼熱地獄な部屋で一日過ごすなんて気が狂いそうで、雷蔵の家族が営んでいる本屋とか、適当にあっちこっちの店を冷やかしてはみるものの、先立つものがなく、そろそろ店主らに顔を覚えられそうな気配だった。

(けどまぁ、まだ昼は時間をそうやって潰すことができるだけマシか)

一軒だけあるコンビニは歩いて行くには億劫な距離にあり、体が空く夜にすることと言えば、三郎が回してくれる週刊ものの漫画を読み耽ることくらいしかねぇ。三郎が俺の部屋を覗き込んで「あらかた読んだから」と、ぽいと投げ入れてくれるのは、発売曜日より二日か三日くらい後だったが、退屈さをやり過ごすのには有り難かった。ただ、それなりの厚さであっても数時間も持たない。結局、暇を慰めるのは、極力減らした荷物の中で最後まで持ってくるかどうか迷った音楽機器だった。

(まぁ、一番楽しいのは、こいつらと一緒に遊ぶことなんだろうけど)

同じバイトに入ってるのだ、なかなか昼間はオフが重ならないし、くたくたになって帰ってくるためか夜に会うことはない。同じ屋根の下にいる三郎とすぐ隣に住んでいる雷蔵はともかく、勘右衛門とこの時間帯に会うのは初めてかもしれない。

(……兵助とも会いてぇな)

ふ、とその端正な横顔が脳裏を過ぎる。朝夕のバイトの行き来以外に顔をなかなか合わすことがなくて。何か口実を探そうと思えば思うほど、がんじがらめになって、結局、連絡を取ることができなくて。

(何でもいいんだろうけど……それこそ、花火しないか、とかさ)

だが、現実は虚しく、今日の今日とて自分は独りだった。

「あー、まぁ、いいよ用事もあったし」
「用事? 俺に?」

扇風機前を挟むようにして、そこから巻き起こされる風がよく通るところを占拠して座っているせいか勘右衛門の声が割れてぼわりと拡散した。電灯の笠を通った柔らかな橙色が手元を照らし出す。俺に「そう」と言ったっきり口を閉ざした彼との間に、妙な沈黙が落ちた。彼の様子は言い渋るというよりも、その沈黙を味わうような、そんな感じで。ただ、彼にそうされる理由が分からず、俺もどうすればいいのか分からなかった。扇風機が掻きむしる生暖かい空気が肌をなじった。

「お祭り、行かないか?」

ゆっくりと息をはくようにして出された言葉は想像にないもので、反応にワンテンポ遅れる。

「ま、祭り?」
「そう。今度の土曜なんだけどさ」

行くだろ、と問うというよりも確認の意味合いが強い言い方だったが、行かないという選択肢が思いつかなかった俺は「おぅ、もちろん」と膝を叩いた。この辺りの祭りというのがどういうのか分からないけれど『祭り』と聞いただけで心が浮き立つ。

「どこであるんだ?」
「あー、少し坂を上がってった所の神社。また当日さ、三郎とかに連れて行ってもらえばいいよ」

勘右衛門の口から他のメンツの名が上がり、じりじり、と緊張に心臓が焦げる。

(兵助はどうするんだろうな? 来るんだろうか?)

一番、気になるのはその点だった。もちろん、勘右衛門や三郎と一緒に祭りに行くだけで十分に楽しめるような気がしたが、けれど、その図を頭に浮かべたとき、やはり兵助がいるといないとでは、鮮やかさが違った。だが、まさか勘右衛門に「兵助も行くのか」と問うわけにもいかず、けれど気になって「みんな行くのか?」と誤魔化す。勘右衛門は「うん」と頷いた。それから、ちらりと視線を俺の方に向ける。

「兵助も、来るよ」

戻ってきた風がぼわりとその声を濁らした。けれど、芯の通った言葉が真っ直ぐに届けられる。心臓が跳ねた。勘右衛門は、ただただ、まっすぐと俺を見ていた。目が逸らしたいのに、逸らすことができない。ひゅ、っと喉が絞られたように息苦しい。

「な、」
「ハチって兵助のこと、好きだよね」

さっきと同じ口調だった。抑え気味の口調は、質問ではなく確かめるためのものだった。俺たちの間の空気をひたすらぶった切り続けている扇風機に外の夜風が流れ込んだ。羽根が回る速さが変わって金属が軋みを上げた。

「あぁ」

認めれば、すぅ、と胸に空気が通り抜けた。勘右衛門はからかうこともなく、引くこともなく「そっか」と呟いた。それっきり、唇を結び、その視線を、首を振り続けている扇風機に向けた。俺も弧を描いているそれに向かい直る。目が回りそうだった。彼の方から扇風機の正面が戻ってきて、横のラインでしばらく留まる。その風がまた動いた瞬間、勘右衛門が口を開いた。

「どうするんだ?」
「……どうするって何が?」
「告白するとか、そういうこと」

そう問われても答えは見つからず、何か答えようとしたけれど、何一つ言葉にならなかった。半開きになった唇から入り込んだ生温かな風が、からからと喉を干していく。声を失った俺に「どうするかはハチが選ぶことだと思うけど」という話しかけてきた言葉に続けて呟いた勘右衛門の声は震えていたのは、扇風機のせいじゃないだろう。



0805 「兵助、泣かしたら、俺が許さないからな」

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