「あ、そうそう。買ってくるの忘れちゃったわ」

お風呂も入り終え、さぁ寝るか、という時になって、リビングでテレビを見ていた母親がのんびりと言い放った。階段を上がろうとしていた俺は、脚をその場に下ろし「何が?」と振り返る。クーラーを掛けていたせいか冷やされた床面に、ひたり、と足の裏の熱が吸い込まれ、けれども、すぐさま膚と木との間に暑さが溜まっていく。

「何がって。ほら、朝、頼んできたじゃない。蚊取り線香」

まだイケメン韓流スターに意識を奪われつつも振り向いた母は「悪いわねぇ」と悪気のなさそうなおっとりとした笑みを浮かべた。部屋を網戸にしているとはいえ、どこからともなく入ってくる蚊は俺のここ数日の睡眠を妨害していた。

(まぁ、それだけじゃないけれど)

液体を温め蚊が苦手な成分や香りを放出させるというコンセントタイプの蚊取り線香を使っているのだが、今朝起きたときに、ちょうどその液体がなくなっていた。昼間はバイトで出歩けないため、母に頼んだのだが、息子の俺から見てもかなりのんびりしている母親のことだ、買い忘れるなど想定内だった。

「まぁ、いいよ。今日はなしで寝る」
「でも最近、蚊が多いから、ないと寝れないんじゃないの?」
「けど、今から、コンビニはなぁ」

町で一軒しかない、唯一夜の8時以降も開いているコンビニに行けば、おそらくは売っているだろう。だが、もう風呂にも入って汗も流してしまっている身としては、気が進まなかった。どよっと窓の外に広がっている闇はその見た目からして生暖かそうで。ご飯を食べているときに耳を掠めた予報士の『今夜も熱帯夜になるでしょう』とげんなりとした声が甦る。暑い中に外出して再びシャワーを浴びるのと夜中に蚊に食われるかもしれないのとを天秤に掛けると、快適なクーラーの下にいる俺が後者を選んだのも自然な流れだろう。

(この暑いのに、今日もハチは扇風機ですごすのだろうか)

ぱ、っとハチの顔が脳裏で弾けた。いつぞやに、彼が寝泊まりしている三郎の家のおばさんがクーラーを許してくれないのだ、と愚痴めいていた面持ちが再生される。それから、あの時に触れたハチの体温も。----------ずっと、あの時の熱に浮かされているみたいだった。

(だって、こうやって、すぐにハチが思い浮かぶ)

クーラーを使えないという話は、去年も一昨年も、その前の夏だって散々三郎から聞いてきた嘆きだった。やり手の女将でもある三郎の母親は息子も客も関係なく「35度にならなければ付けない」と豪語しているらしい。この季節になる度に「お前の家と代わってほしい」と、じと目で見られるのだ、いい加減慣れてしまうぐらいに。そう、だから、三郎の顔が浮かんでもおかしくないのだ。

(……けど、実際に浮かぶのはハチで)

その理由を、この感情に名前を付けなければならないのだとしたら、

「兵助、どうする?」

母親の声に、は、っと引き戻された。捕らわれていた思考が追いつかず、思わず、辺りを見回す。さっきと変わらない、ほんの少しだけテレビが進んだ空間がそこにあった。ぼさっとしていたのに気づいたのだろう「兵助、大丈夫?」と心配げな眼差しとぶつかる。

「ここ数日、ちょっとおかしいわよ」

おっとりとしている母からもそう言われるくらいだ、自分でも自覚をしていた。共に返った日に触れあったハチの腕の温もりが、雨が降った日の「それってどういう意味」というハチの言葉が俺の中でぐるぐると渦巻いている。何をしていても意識がそっちに向いていってしまう。

(今日なんかバイト中にミスを連発してしまったし)



***

「兵助、これ注文な」
「あ、わかった」

海の家のバイトと一口に言っても色々あって、シャワー室の管理や浮き輪などの遊具の貸し出しから水着の販売なんかも仕事の一つだった。今日は俺は厨房担当だった。ハチたち外の係が休憩所兼食事処となっている所で注文を受け、俺たち厨房係がその注文された料理(といっても、カレーとか焼きそばとかそんなのばっかりだが)を作り、再びハチたちが客に持っていくという流れだった。シフトの関係でハチと間近で顔を合わせるのは、あの日以来だった。

(何か、緊張する……)

あの日からハチと上手く会話を紡げずにいた。帰り道や休憩時間でも、他に勘右衛門や雷蔵、三郎がいれば混じるのは平気だけれど、二人だけになるのは避けていたのだ。一度だけ、帰りにハチが独りきりでいるのを見かけたけれど、声をかけれずこっそりと踵を返したことがあった。

(あれは、どういうことだったんだろう)

雨の日に、ハチが俺に言った「それってどういう意味」のという言葉の意図を、俺はずっと考えていた。もしかしたら、という期待を、すぐに、そんなことあるわけないと塗りつぶす。すっかりと体が覚えてしまった機械的な調理手順を繰り返しながら、思い浮かべては打ち消すという二つを延々と続けていた。

「カレー二つ、Bテーブル」

スチロール製の楕円形をした皿にご飯を盛りカレールーを上から掛けると、俺は外に向かって呼びかけた。じわじわと指先を食む熱と料理の重みに一度、調理台に置いて待とうかと思った瞬間、顔を出したのはハチだった。俺が悶々と考えていることなど露知らず「りょーかい」と、太陽みたいな笑みを向けられる。

「はい」
「っ、」
「っと!」

その眩しさについ目を反らしてしまった俺は、彼にちゃんと皿が渡るのを確認しないまま、その重みを手放していた。小さく息を飲むのが聞こえて、視線を寄越せば、彼の掌に安置されなかった皿がそのまま落下していく所だった。一瞬のそれがスローモーに見える。やがて、ぐしゃりと鈍い音が俺の耳に届いた。

「大丈夫か? 悪ぃ」

鋭くハチの案じる言葉が俺に飛んでくる。謝罪をするべきなのは避けようとした俺の方だというのに、先に謝られてしまった。ぎゅ、っと喉がすぼむ。黙り込んでいる俺の手先を見遣っては「火傷とかなかったか?」と心配そうに尋ねてきた。声を失った俺は相槌を打つことさえできず、頷いてなんとか意思を伝えれば「よかった」とハチはほっと肩を降ろした。その足下にはカレーライスの残骸が散逸している。

「……あ、片付け」
「いいよ。ここは俺がやっとくから。それより、もう一つ作って」

超特急な、と皓い歯を見せてにっかし笑うと、ハチは掃除道具を取りに行ってしまった。



***

視界の狭間でひらひらと白っぽいものが揺れていた。それが母親の手だということに気づき、ようやく音声が繋がる。怪訝そうに「兵助?」と呼ぶ声が。辛うじて「あぁ…」とだけ返事を遣れば、俺を見つめる母は眉を下げ、目を曇らせて、心底心配しているような面持ちを向けた。

「本当に大丈夫?」
「あぁ、うん。ごめん、暑いからちょっとぼんやりしてるだけだから」

正確にいえば熱に浮かされている、ということなのだろうけれど、そんなこと口にはできず、当たり障りのない答えを返す。母はまだ案ずるような表情を見せていたが、それでも納得したのか「そう。ならいいけど」と呟いた。それから、「そうそう」と思い出したように声を跳ね上げさせる。

「蚊取り線香どうする? 私が運転できればいいのだけど」
「あーうん。いいよ、明日にする」
「そう? あ、そうだ。ちょっと待ってて、蚊取り線香、あるかもしれない」

俺の一家で唯一運転免許を持っている父親は、ビールに呑まれてとっくに夢の中だった。母親はその性格から察するに極度の運動音痴なのだろう。ハンドルなんか持たせたら危険だ、という理由でペーパードライバーだった。俺が物心着いた頃からこの方、一度も運転しているところを見たことがない。

(あー、やっぱり、免許ほしいよな)

自動車どころか三郎みたいに原付やバイクの免許すらない自分に溜息を零す。親自体は免許を取ることに反対をしているわけではなかったが、自動車学校に通うかと考えていたGW明けにこのバイトの話を聞いて、夏休み中に免許を取るのを断念したのだ。

(バイト自体はすごく楽しいから、それでよかったけど……それにハチにも出会えたし)

ただ、こういった時の不便さはやはり感じてしまう。夏休みが終わって後期の授業が始まったら免許を取りにいこうと心に決める。様子見の前期に比べて本格的な専門の授業も増えて忙しくなるとは聞いているが、背に腹は代えられない。

(来年の夏も、こうやってバイトかもしれないし)

長期休みの間に短期コースで取得するつもりでいたけれど、来年も同じような状況なら難しいだろう、と想像し、やはり授業の合間を縫ってでも秋口から自動車学校に通うことを決める。ふ、と、またハチが頭に過ぎった。

(その頃には、ここにいないのか)

一緒にいることが当たり前のようになっていたけれど、その事実を突きつけられ、今更のように思い出す。彼は、この町の住人じゃないのだと。いつまでこの町にいるのか、具体的な日付を聞いている訳じゃない。けれど、俺たちがバイトに行っている海の家は世間一般の人が夏休みが終わる日、つまり8月31日に解体される。

(あと、一ヶ月か)

明日でめくられるカレンダーを見て、ぎゅ、っと胸の辺りが苦しくなった。--------分かってしまった。腕に残る熱の正体を。何をしていても、ハチが思い浮かぶ理由が。どうして、こんなにも胸が苦しくなるのか。分かってしまった。

(------あぁ、俺、ハチのことが好きなんだ)

ほわり、と恋情が宿る一方で、俺は悟っていた。この想いは誰にも告げることがないのだろう、と。ただ独りでこの想いを抱え続けるのだろう、と。ひっそりとこの夏にしまわれ、いつか思い出になるその日まで海底に沈められるのだろう、と。どれほど想っても、ハチはいずれこの町を出ていくのだから。最初から叶わぬ恋ならば、告げない方が互いのためな気がした。

(想いを告げて気まずくなるくらいなら、最後まで笑顔でハチの傍にいたい)


その想いを噛みしめていると、背後から足音が迫ってきた。母の華やかな声がリビングに響く。楽しげに「これ、これ」と近づいてきたその手には、ぼってりとした豚がちょこんと残っていた。今は滅多と見かけない蚊遣り豚の登場に「これ、」と呆気に取られてそれだけ呟くと、母は嬉しそうに「いいでしょ。ちゃんと使えるから」と差し出した。陶器製のお腹の中で、渦を巻いている蚊取り線香。-------それは、今の俺によく似ていた。



0731 ハチのことが好きで。でも、どうしようもできなくて。ぐるぐる、している俺のようだった。

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