沈殿する風にいつもよりもはっきりと潮臭さを感じた。雨、だ。一瞬、開け放っていた窓から雨が降りこんできてねぇだろうか、と心配になって上体を半分だけ起こした。だが、視界に収められた窓の下に広がる畳の瑞々しさに染みはなくて。俺はそのまま、バタリ、と手足を布団に投げ出した。

(あーよかった)

閉じていく微睡みを揺らしている水音に「明日は雨だから」という雷蔵の残響が重なる。昨日は夕立にも似た地面を穿つような雨も、今日は空気を塗らすだけの弱々しいものだった。呼吸を止めた世界は朝だというのに、とても静かで。いつもなら朝食の準備のための従業員やら、朝釣りに向かうやつらの足音で忙しい廊下も、まだ眠りを纏っている。

(こりゃ、バイトはねぇな)

一番最初に勘右衛門の叔父に説明されたのは、雨の日は商売にならないから、基本的には店は開けないか開けても数人で回すということだった。雨音に激しさはないものの、窓の向こうに覆い尽くした雲の厚みに、当分止みそうもねぇ。どうせならもう少し寝ておけばよかった、といつも通りに目覚めてしまった自分に毒づきつつ、久しぶりにゆっくりできるのだ、と、もう一度自分も微睡みにくるまる。一つ瞼を落としてしまえば、あっという間に眠ることができるのは自分の特技だ。すぐに、浮力を伴った重みに沈んでいきかけて。

(そうか、今日は兵助と会えないんだな)

ぱ、っとその考えが過ぎって、は、っと動揺が波打った。どうして兵助のことを考えたのだろうか、と。同じ屋根の下で暮らしている三郎はともかくとして、雷蔵や勘右衛門にだって会えないはずなのに、最初に出てきた顔が兵助だった。意味も分からず速まる動悸を抑えつけるように、ノースリーブのシャツを掴む。

(何だって……)

不意にこの間の兵助と触れた腕に熱が膨れ上がる。剥き出しのそこを、反対の手で押さえこみ鎮火させようとするけれど、その体温の落差にますます感じてしまって。ぎゅ、っと目を瞑った。すっかり冴えてしまった意識をなんとか眠りに追いこもうとする。

(たまたまだ。そう、たまたま)

ただただ、自分にそう言い聞かせるしか術がなかった。



***

(んぁ?)

パタパタパタ、と軽い足音が俺の頭の中を駆け始めた。最初は無視をしていたが、やがてそれも苦しくなる。半分までしか開かない瞼に気力を立て掛け、携帯を探す。枕元から畳へとダイブしてしまっているそれに、その場から無理やり手を伸ばして掴む。すぐに現れた画面の時刻は、さっきから二時間くらい経っていたが、全く寝た気がしねぇ。眠たさがおぼろに包むが、単なる振動がお世辞にも新しいとは言えねぇこの宿を揺さぶり出した地点で、俺は二度寝を諦めた。

(あー、まじ、何すっかなぁ)

いつもなら自分は活動し始めてこの宿にいない時間帯だから、この騒々しさが普段通りなのか、それとも雨だからなのかは判断が付かなかった。これだけ五月蝿ぇと寝ることもできない。寝るのも無理、テレビもねぇ部屋で他にやることなんか、思いつかなかった。

(とりあえず、飯、食っか)

動き出してしまえば現金なまでに感じる空腹に、まずは腹を満たすことを第一にすることにする。飯を食ってる間に、何かいいアイディアが浮かぶだろう。パジャマも何も最初からそれだこしか持ち込んでないタンクを脱ぎ捨て、似たようなのを被り着る。共同の洗面所で、ざざっと洗顔や身なりを整え、そのまま一階の食堂に向かおうとして、階段でつむじ風に巻き込まれた。

「あ、はっちゃん」
「ホントだ、はっちゃん、おはよー」

どこから来てるのかは忘れてしまったが、この民宿に長期滞在している家族の子どもたちだった。姉は小学校中学年ぐらい、弟の方は低学年といったところだろうか。基本的に部屋食ではなく食堂と呼ばれる一室で飯を食べるため、必然的に顔を合わせることになる。とはいえ、朝と昼はバイトの都合で今までなかったため、ちょっと新鮮な気持ちを覚えた。

「おぉ、おはよう。珍しいな」
「それは、こっちのセリフだよ」

こまっしゃくれた言葉遣いの姉とは反対に弟の方はその姉の影からちらちらと顔を覗かせているだけだった。雨のせいでそれなりに涼しいというのに、二人は珠のような汗をかいていて。さっきまで、バタバタと廊下を走っていたのはこの二人か、と見当を付け、注意を促す。

「あんまり階段でドタバタしてっと、女将さんに叱られるぜ」
「だって暇なんだもん。せっかく海に来たのに、海は入れないし」
「入りたかったなぁ」

残念そうに唇を尖らした弟の頭をぽんと撫で、「あー、まぁ、明日もその次もその次もあるだろ」と慰めにかかる。けれど、その哀しそうな眼差しが和らぐことはなく、弟の表情がますます頑ななものになっていく。理由が分からずに「どーした?」と屈んで覗きこめば、代わりに姉が口を開いた。その面持ちも、どことなく暗い。

「だって、明後日に帰らなければいけないんだもん。ずっとここにいられないんだって」

ぼそり、と呟かれたその真理に、はっと俺は息を呑んだ。ここに来て一週間あまり、しっかりと馴染んでしまっていてすっかり忘れていたけれど、自分もこの幼い姉弟と同じ立場なのだ。ずっとは、ここにいることができない。あっという間にこの一週間が経ってしまったのと同じように、これからも楽しければ楽しいほど飛ぶように過ぎ去ってしまうのだろう。

(夏が終われば、俺もこの町を出てくんだよなぁ)

まだ夏は始まったばかりだというのに、寂寥感がじんわりと胸に沁み入った。いつもみたいに馬鹿みてぇに暑くて何かを考えるのが億劫な時なら、絶対に思わないのに、変に涼しいからかもしれねぇ。当たり前のように毎日顔を合わせてるあいつらとも、いずれは別れの日がくるのだと、妙に実感してしまった。

(兵助とも、会えなくなるんだよな)

また浮上するその名前に、どうしてだか心臓が軋んだ。捩じ切れそうなほど、苦しい。気温と同じように冷えていたはずの体のうち、あの腕の部分だけが妙に熱を持つ。どうしてそうなるのか、さっぱり分からなくて、変調の理由を必死に探していると、それまで黙っていた弟が「やだなぁ」と濡れた声を上げ、は、っと思考が再び姉弟に向いた。

「帰りたくない……はっちゃん、どうにかしてよ」
「どうにかしてっつわれてもなぁ」

俺がどうにかできる問題じゃない。とはいえ、二人を傷つけずにどう返せばいいのか困っていると、ふ、と姉の方が大人びた笑みを浮かべて「どーせ、子どもは大人の言うこと聞かないといけないんだよねー」と愚痴めいた。昔に家族でこの海に泊りに来た時に、そういえば、同じような事を思った記憶がうっすらとあって、俺はどこもかわらねぇなぁと苦笑いを漏らす。すると、彼女は少しだけ遠くに視線を投げて、呟いた。

「早く、はっちゃんくらい大人になりたいなー、そしたら自分で帰るのも決めれるのに」

(大人、か)

大人になってもどうにもならないことがある、なんて想いがつい口に出そうになるのを慌てて俺は塞いだ。幼い姉弟が今、知ることじゃない。いずれ、知っていくことなのだろうから。そう押し殺して、俺は二人の頭を掌で鷲掴みすると、くしゃくしゃと撫でた。

「わっ」
「あーはっちゃんのせいで、髪がぐちゃぐちゃ」
「そりゃ、悪かったな」
「はっちゃん、もーさいてー」

つん、と怒りながら駆けていく姉に付いて弟も走っていった。ぱたぱた、と軽い足音が遠ざかる。



***

遅くなってしまった朝食を女将さんに小言を言われながら流し込むと、俺はそのまま町の散策に出ることにした。雨は止みそうにないが、仕方ない。せっかくの休みなのだ。それこそ、あっという間に毎日が終わるのだったら、一日をごろごろ過ごして無駄にするのも、もったいない気がしたのだ。

(というか、兵助に会いたい)

この夏が永遠に続かないと気付いた感傷のせいなのか、それとも別の理由なのか、とにかく俺を占めるのはその感情ばかりで。かといって、バイト先以外でどうやったら兵助に会えるのか、皆目見当もつかなかった。一応、携帯のメアドは初日にバイトの連絡のために、と交換したものの、実際、何と打てばいいのか分からない。というか、あまり、メールは好きじゃないのだ。直接ならいくらだって話せるのに、文面だとつい妙に考え込んでしまって、あーでもない、こーでもないとぐじぐじと悩んでしまう。

(いっそのこと会いに行くか。けど、家知らねぇしな……どうすっかな、あ)

知ってる奴に聞けばいい、という考えに思い当たった俺は三郎の部屋に向かい、ふ、とその扉の前で立ち止まった。

(三郎はからかわれそうだよな)

興味津々であれこれと尋ねてきた上に、色々と冷やかされそうなのが目に見えて。いや、そういう事情じゃねぇんだけど、と想像上の三郎に言い訳する。それから、今、三郎は風邪を引いてるしな、と自分に言い聞かせる。バイト疲れなのか夏バテなのか風邪なのか、詳しいことは聞いてないが伏せ入っていて昨日のバイトは出てこなかったのだ。そのことを口実に、俺は三郎の部屋に背を向けた。

(三郎が駄目だとすると……あ、雷蔵)

ほとんど三郎と同じ、けれども柔らかさが滲む面立ちが頭に浮かび、俺は一気に階段を駆け降りた。雨だったら本屋で店番をする予定だ、と昨日言っていたことを思い出し、逸る心を押さえながらサンダルに足を突っ込む。どうせすぐ隣だし、とそれなりの雨模様だったが傘を差さずにそのまま宿の扉から突き破るような勢いで路地に飛び出して、

「ハチ!? お前、傘は?」

飛び込んできた驚きの声は、よく知った--------さっきまで俺が思い浮かべていた人物のものだった。

「兵助? どうしたんだ?」
「俺は本を買いに来たんだ、こんな雨だし」

小脇に抱えた薄茶色の包をがさりと音立てて、兵助は視線を横にずらした。いつもは閑散としている店内は人の温もりのためにガラスウィンドウが曇る程の盛況ぶりを発揮している。娯楽が他にない、といつか三郎が漏らしていたのを象徴するかのように。視線を本屋から戻した兵助がもう片手で持っていた傘を俺の方に差しだしながら問いかける。雨音が薄らいだ。

「ハチこそどうしたんだ? 本を買いに来たって感じに見えねぇけど」

まさか兵助の家を知りたくて雷蔵の家を訪ねに来た、なんて口が裂けても言えるはずもなくて「いや、まぁ、うん」と曖昧に濁してると、「もうちょっと、中入ったら」と彼の視線を肩口に感じた。そこに自分の目も向ければ、ノースリーブから剥き出しになっている肩が雨に打たれてて。心配げに「ハチまで風邪、引かれたら困るし」と呟く兵助に、思わず口にしていた。ほんの少しだけ、期待を込めて。


0724 「なぁ、それってさ、どういう意味?」

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