窓を閉め切っても鬱積していく蝉の声に寝返りを打つのすら億劫で、熱をもてあました吐息だけを零す。二酸化炭素の濃度がいつもより高い、なんて、そんな馬鹿げた考えが、息苦しさの中に詰まっていた。

(雷蔵に会いたい)

突如として浮かんだ願いは、まるでそれ以外の思考を知らない赤子のように、私を支配した。自分とシフトを代えてもらったのだ、叶わない望みだと熱に遊離する頭でも分かっていたが、それでも希う心を止めることはできなかった。会いたい、会いたい、会いたい。さすがに鈍重な体で暴れ回ることはしないが、駄々をこねる子どものようにその言葉を誰もいない部屋に発し続けた。

「雷蔵に会いたい」

いつまででも言えそうな気持ちだった。だが、実際問題としては、熱に熟れて腫れぼったくなった喉が言葉を塞ぐ。そのうちに口にしてちゃんと音を成しているのか、それとも、心の中だけに吐露しているのか分からなくなってきた。体調を崩してさすがに許されたクーラーの送風音の向こう、暑さに歪む窓の外で蝉がひっきりなしに叫びを上げていた。

(夏風邪を引くなんて、小学生以来かもしれないな)

元来、夏には弱いというか、すぐにバテる体質であることは自覚していたが、それでも成長するにつれて、こうやって寝込むことは少なくなっていた。体力がついてきた、というのもあるのだろうが、自分で適当に加減することを覚えたからだ。調子が良くないな、と感じれば、早めに体を休めたり薬を飲んだりと、上手く自分と付き合う術を取得したはずだった。

(……ちょっと、調子に乗りすぎたな)

勘右衛門が持ってきた海の家のバイトの話は、何か楽しいことを予感させた。気のない振りをして聞いていたけれど、話を聞いた瞬間に感じたのだ。きっと、楽しい夏になると。そして、それは的中した。いつものメンバーに加えて、余所から来たハチと過ごす毎日は、あまりに楽しくて。少しでも長く雷蔵たちと一緒にいたくて、なけなしの体力を顧みることもせずにバイトに打ち込んだ結果がこれだった。

(はぁ、最悪だ)

一昨日辺りから体の重たさは何となく感じていた。昨日はろくに食べ物を受け付けず、水分ばかりを喉に通してやり過ごした。まぁ、明後日は休みだからそれまでは持つだろう、と楽観的に考えていたが、夏の日差しに消耗していた体はあっさりと白旗を揚げ、熱に圧されて動けない体で目を覚ましたのが今朝だった。まだ薄暗さの残る自室で、頭痛に今にも弾けてしまいそうな頭を抱えながら、何とか勘右衛門にメールで連絡を取る。しばらく黙り込んだ携帯は、蝉の五月蠅さが空に孕んだ頃になってゆっくりと震えた。こちらの体を案じる言葉に続いて、『雷蔵が代わってくれるから心配しなくてもいいよ』という文面。途端に、不甲斐なさが押し寄せる。

(雷蔵、ずっとフルで入っていたはずだよなぁ)

シフト制だから休みは基本的には皆で交代で取ることになっていたのだが、雷蔵は初日からずっと働きづめだった。遊ぶ予定を入れるために雷蔵に休みを尋ねて知ったときは、彼の体が心配でたまらなかった。勘右衛門の叔父に抗議しよう、と雷蔵に言ったけれど「まぁ、誰かがそうしないとだめだからね」とのんびりと微笑むばかりで。結局、先週から一週間、ずっと休みなしでバイトに入っていて、今日、ようやく休みだったはずなのだ。

(雷蔵……)

熱が巡る頭の中は、もう訳がわからなくなってきていた。会いたいという気持ちと申し訳なさとごっちゃになって気持ち悪い。そのまま落ちてくる瞼に抵抗する気力もなく、眩む闇に身を任せる。一回だけ、体の向きを変えた。気だるさが布団に染み込んでいく感覚は、ずいぶんと久しぶりなような気がする。あっという間に温んだ額のタオルがぼてりと落ちる。だが、拾い上げる気力はなかった。枕代わりにしているアイスノンだけが心地よさの源だ。蝉の轟きが、遠くなったような気がした。



***

ゆらり、ゆらり、と海に漂っていた。あぁ、夢だ、そう分かる。夢だった。けれど、私はこの光景を知っていた。なぜなら、過去にあった現実だったから。これは、私の記憶なのだ。もう少しすれば、雷蔵が私の方に近づいてきて、名前を呼ぶ。

「三郎」

ほら、来た。

元々、この町で生まれ育った雷蔵は余裕綽々とした体で私の方に近づいてきた。自分が普段は住んでいる都会のクラスメートにはスイミングを習っているヤツも多いが、そういう連中はフォームが美しいだけだった。だが、雷蔵は違う。息をするのと同じくらい自然と海を泳ぐのだ。あたかも陸上で歩いているのと代わらないスピードで泳いでいる様は妬みを通り越して、羨望に値した。

「雷蔵」
「ずいぶん遠いところまで来たね」
「これがあるからな」

自嘲気味に自分が収まっているビニル製の丸形ボートを叩けば、彼は「そこから出ればいいのに」と無理難題なことを口にした。彼越しに見える海岸線は、ずいぶんと遠くなってしまっていた。岸にいれば耳が痛くなるほどの蝉時雨も、ここまで来れば聞こえない。薄れた喧噪に、少しだけ右に視線を投げれば赤い球が波間に揺れている。遊泳許可の範囲を知らせるそれからほんの少しだけ外れていた。足が確実に着いてない所で、雷蔵は器用に立ち泳ぎをしていた。

「無理だって」

水泳の授業は好きじゃなかった。なまっちろい体を曝さなければいけないのだから。小学生というのは思ったことを何でも口にするのが職業だ。あけすけにからかわれるのが嫌で腹痛だの何だのとずる休みことも多かったために、泳ぐことに苦手意識があった。だが、この町に来れば、そんなこと言ってられない。他に娯楽がないのだ。雷蔵に連れてこられるのは、たいていが海だった。

「無理じゃないって。一緒に泳ごうよ」

ほら、と差し出された手を安心して掴めたのは、それが雷蔵だったからなんだろう。気がつけば、私は当たり前のように海に浮いていた。雷蔵の手は、魔法の手なのだ。その手があれば、大丈夫だ、と無条件に思えるのだから。



***

ひたり、と不意に闇が温もりに吸われた。うすらと目を開ければ、熱に潤むあやふやな世界の向こうから「あ、ごめん、起こしちゃったね」と柔らかい声が降ってきて、雷蔵は私を覗き込むようにしていた。夢の続きを見ているのだろうか、と、割れ響かんばかりに聞こえていた蝉の声の代わりに聞こえる水音に思う。けれど、「どう、気分は?」と額に貼り付いた髪を除ける彼の指先が、はっきりと自分に触れているのを感じ、まだ掠れる喉をこじ開けた。

「ら、いぞ?」
「うん。ただいま」

いつも優しいけれど、いつも以上に優しい笑顔に、申し訳なさが溢れる。どう言えば分からずに「バイト」と言ったっきり声を失った私に、彼は小さく笑った。それから、幼子を甘やかせるような口調で「いいよ。体調悪いんじゃ、仕方ないよ」と応じた。

「もう、終わったのか?」
「うん、さっきね」
「今、何時?」

いつしか部屋は薄暗さに包み込まれていたが、あれだけ煩かった蝉時雨が全くしないということから夜だろうか、と判断したものの、果たして今が宵の口なのか深夜なのか、さっぱりと分からなかった。だから、私の問いに彼が「まだ6時前」と告げたのには、驚きを隠せなかった。

「6時って、朝の?」
「ううん。夕方の。昼過ぎから雨になってね、商売にならないから、って先に上がらせてもらったんだ」

その言葉にようやく耳に染みいってくる水音が雨だれなのだということに気がついた。屋根を叩くそれは、夕立のような激しさはなく、細々と空気を揺らしていた。最近、天気予報を見る余裕もなく眠りについていたから知らなかったが、この調子だと明日も天候は良好とはいえないのかもしれない。

「明日も雨っぽいから、ゆっくり休むといいよ」

私の考えを読んだかのように雷蔵の言葉に、驚きで何も言えずにいると、不意に、彼の温もりが額から離れた。代わりに淋しさが付着する。屈み込んでいた雷蔵が立ち上がる気配に、慌てて手を伸ばした。あの海の時のように、縋り付くような気持ちで。

「雷蔵、」

引き留めるための叫びも出ていた。怪訝そうに振り向いた雷蔵が「何?」と尋ねてくる。そこまで来て、何だか幼子みたいな自分が気恥ずかしく、「行かないでくれ」という望みは胸壁に跳ね返され、口に出せなかった。

(淋しいだなんて……)

ふふふ、と柔らかい笑い声が思考をその場に引き戻した。彼は白っぽいものをひらひらと振りながら「これ、水に浸してくるだけだから」と再び屈み込んだ。その白は、昼間に私の額を冷やしていたタオルだった。優しい温もりが、また私の額に触れた。

「ほら、もうちょっと寝てなよ」



0723 (やっぱり、雷蔵の手は、魔法の手だ)

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