「もう夜だっていうのに、あちぃな」

海の家を閉め掃除を終えた俺たちが帰路に着いた頃には、ひっそりと夜が迫っていた。海水浴客が引いた砂浜はまだ花火に興じるには少し早い時間帯のせいか、人影がなかった。昼の熱狂が嘘のように押し寄せた静けさに、砂浜が波に打ち被る音だけが響き渡っている。バイトしている間は全然気付かないかったが、こうやって他のざわめきが鳴りを潜めれば波音がよく聞こえた。

「そうだな。空気も籠もってるし、熱帯夜になりそうだ」
「げっ、マジで? ……今日は、クーラー付けさせてくれるかな、女将さん」
「あー、三郎の母君はあれだからなぁ」

あれ、だけで通じてしまう言葉に、がっくりと肩を落とせば、隣で歩いていた兵助が喉を笑いに揺らせた。この夏の間、俺が世話になっている民宿の女将である三郎の母親は、なんてていうか、傍若無人という言葉がよく似合う。客だろうとなんだろうと容赦がない。初日に熱気で蒸し風呂状態な部屋に通されたのにもまず驚いたが、次の言葉に固まった。

「あ、クーラーは付けちゃだめだからね」

意味が分からず、きょとん、と女将を見遣れば「ここでは私ルールだからね」と豪毅に笑った。他にも、飯の時間にいなければありつけない、とか、もてなしという言葉は遠くのお星様になったようだ。指定時間の5分前に食堂に行けば、周りはどうやら常連のようで、彼女の率直な言いぐさにも慣れたようにやりとりしていたが、正直、俺はびびったのだが……。

「まぁ、頑張れ」

応援している、と続けるくせに、その目や口元はすっかり楽しんでいるようで、「笑い事じゃねぇ」って、と腐りつつ、ざくりざくりと砂浜をかき分けるようにして歩を進める。蹴り上げた砂がサンダルの上から降り注ぎ、膚を焼いた。まだ昼の名残が留まっているのは地面だけじゃない。絶え間なく聞こえる波音とは逆の方に視線を転じれば、山の際がまだ仄明るく光っていた。まだ不完全な夜闇が俺たちを包んでいる。

「はぁ、にしても疲れたなぁ」
「今日は平日だったけど、想像以上に混んでいたな」
「だよなー。下手すりゃ、この前と同じくれぇじゃねぇの?」

海開きを迎えた三連休は、この海岸に入り切らないじゃないか、って心配するぐらいのたくさんの観光客が来て、忙殺に忙殺され、店を閉めたときはまさに死屍累々といった感じだった。あの三郎さえ軽口を叩く余裕がなかったのだ、俺たちのことは推し量れば想像がつくだろう。その次の日にもたくさんの人出だったが、三連休のことを思えば全然楽勝だった。だが、今日はその三連休を思い起こすような、たくさんの家族連れや若者が浜を賑わせていたのだ。

「今日から学校が休みだからな」

一瞬、兵助の言っていることが分からず、「ん?」と曖昧な相づちを返す。すると彼は「ほら、終業式、昨日だったから、今日から夏休みなんだろ」と分かるように噛み砕いて教えてくれて。それで、そうか、と今日の客層と繋がり理解できた。

「そっか、ガキらは今日から夏休みなわけか」

去年までは自分も高校生という身分だったために『今日から夏休みだ』という区切りがはっきりとしていた。けど、大学はテストやらまとめのレポートやらと終わりはあるもの、どこか曖昧なまま休みに突入していて、いまいち夏休みだ、という実感が湧いていなかった。

「40日くらいか? そう思うと、大学の休みは結構長いよな」
「確かに。俺、大学入って何が楽しみって長期休みだったし」
「なのに、こんな田舎町でバイトしてていいのか?」

言い方的には『こんな田舎町』とキツイものがあるが、実際、兵助が口にしたのは、揶揄でも卑下でもなく、単純に疑問を持っているようなそんな声音だった。

「むかーしさ、俺がすっげぇ小さかった頃、親と一緒にこの町に来たことがあってよ。その時、めっちゃ楽しくてさ。だから、夢だったんだよな、この海でバイトすんの」

本当に昔、それこそ小学生に上がるか上がらないか、それくらいの頃、一度だけきただけだというのに、駅について電車から降りた途端、とてつもなく懐かしさを感じたのだ。年々積み重なっていく記憶は、思い返すこともなければ、そのまま風化の一途を辿ることになる。きっと毎日が違っているはずなのに、些細な違いだからか、同じことの繰り返しの日々のような気がして、昔のことはほとんど覚えていない。けれど、『特別な思い出』というのはいつまで経っても宝石箱の中のように煌めきが色あせることがないのが、不思議だ。宝石が磨かれて輝きが増すのと同じように、思い返せば思い返すほど記憶ってのは綺麗に見えるんじゃねぇだろうか。

「へぇ、そうなんだ」
「あぁ、本当に楽しかったんだよな。だからさ、俺もこの海に来た人たちにさ、『すっげぇ楽しかった』とか『また来たい』と思わせれたらいいよな、って」
「それで、あの対応なんだなぁ」

感慨深げに呟いた兵助の言いたいことが分からず、俺は足を止めて彼の方を見遣った。少しだけ深みを増した暗がりの中で、ぼんやりと彼の白さが浮かんでいる。不思議そうな面持ちをしていたのが伝わったのだろう、ほら、と彼から零された笑みが、返す波のように俺を引き寄せた。

「ハチ、どんな無理難題な客でも、いっつも笑顔だったからさ」
「あー、まぁな」

まぁ、ビーチに人が溢れれば溢れるほど、その客層の幅も広がるわけで。しかも、やたらと開放的になってテンションが上がってしまうヤツもかなり多い。おまけに、ビールやらアルコールを昼間から呷って絡んでくる客も時々いた。

「すごいよな。俺、調理担当でよかったと思ったし」

安堵の溜息を漏らした兵助は、今日は中担当だったのだ。俺や兵助以外にも三郎や雷蔵、それから勘右衛門といった初日に仲良くなったメンバーとは別に、他にも何人かバイトがいて、海の家の設営の時にだいたいの割り振りとシフトについてを決めた。俺は海の家に造られた仮床で食事をする人たちの注文を聞き、兵助はその注文を元に盛りつけをしたりする担当だった。もちろん担当の場所や割り振りは日によって変わる。今日は勘右衛門は更衣ロッカー担当だったし、三郎と雷蔵は浮き輪なんかの貸し出しをしていたようだ。

「や、俺はお前の方がすげぇと思うけど」

外から見ても調理場の厚さは半端なさそうだった。梅雨明けをしてから、いかにも夏本番、という日が続いている。朝からすでに蒸し暑かった今日は、一気に気温が跳ね上がったんじゃねぇだろうか。後でニュースで確認するのが怖いくらい、暑かった。

(けど、外はまだマシだろうなぁ)

「そうか?」
「や、中、めちゃくちゃ暑そうだったし」
「それは否定しない。けど、ハチたち外も暑いだろ。俺、一回、ゴミ出しに外に出たけど、日差しに殺されるかと思ったし」
「いや、外っつったって、一応屋根の下だからさ。逆に影でラッキーって。風も生ぬるいけど、海の方向から吹いてくるからさ」

夜が近づくにつれて粘度を増した潮風も、昼間は太陽に干されたように乾いていて。海を渡ってくる分、僅かなながらも涼しさを含みながらこちらに届いた。すだれで日よけされた海の家にも入り込むそれのおかげで、ずいぶんと暑さが楽になってた。夕方になれば、心地よさを覚えるくらいだったのだ。それに比べて、一応衛生面のためにガラスかプラスチックかよくわからない透明な仕切りの中で、火を使って作業している兵助たちは、すっげぇ暑そうに思えたのだ。

「そっか、それは羨ましいな。……けど、やっぱり中の方が気が楽だな」

接客あんまり向いてないし、とからりと笑う彼はあまり気にしているわけではなさそうに見えて。けれど、どことなく、その瞳は凪いでなかったような気もした。そこに触れていいのか、と迷っていると、「でも、ハチは外のパラソルとかにも注文行ったんだろ?」と兵助の方が先に言葉を発した。

「あー、あれなぁ。みんな家の中だったら楽できたんだけど。すっげぇ暑いし、ほら、まだ泳いでもねぇのに、もう真っ黒だし」

元々、色白ではない自分は体質として、焼ければすぐに黒くなるタイプだった。ここに来て数日、あっという間に、どこかのリゾートビーチで寝そべってました、っつうくれぇ、日に焼けて黒々としている。そんな腕を見せれば兵助は「そうか?」と俺と同じようにして腕を近づけてきた。日焼け度合いを比べるつもりなんだろう。すぐ傍まで来た彼は「本当だ」と感慨深げに頷いた。彼の体が揺れたせいか、空隙がなくなる。とん。触れた腕に帯びる、彼の温もり。途端、さっきまで、静まりつつあった体の熱が、暴発した。

「あ、悪い」

何てこと無かったかのように、彼の腕が離れた。だが、まだ俺の心臓は狂ったみたいに早く打ち付けている。血流が壁にぶつかっている音が兵助に聞こえそうなくらい、うるさい。怪訝そうに兵助が「ハチ、顔、赤いぞ」と俺を覗き込み、ますます体温が上昇する。何か話題を変えなくては、と必死に辺りを振りかぶって、ふ、とそのことに気付いた。

「つーか、首元、赤くないか?」

少しばかり俺の方が背が高いからだろう、兵助の首筋、襟足が少しだけ伸びた黒髪の下にあるうなじの部分が火照っているように赤らんでいた。背中側だからか、兵助からは見えなかったのだろう。彼は溜息を一つだけ零した。

「やっぱり? 何かひりひりしてるなぁ、って思ってたんだよな」

元々地黒な俺とは違い、夜の密度が増した暗がりの中では彼の膚のその白さがコントラストをなしている。彩度が潜まったそんな中で、その部分だけが色づいていて、目についた。おずおずと兵助が伸ばした指が、髪を僅かにかき上げ、その仕草がやたらと艶めいて見える。

(すげぇ色っぽい……って、何考えてるんだ、俺)

ほぼ初対面のしかも男なのに、そう自分に言い聞かせようとする理性とは別の所で、心がざわめくのが感じた。まるで潮騒みたいに途絶えることのないそれ。寄せては返し、引いてもまた押し戻ってくる、その感情。



0721 (-----------それの名前を付けるとするならば、)

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