機械が静かに悲鳴を上げている。カタカタカタ、と今にも壊れそうな鈍さで首を振り続ける続ける扇風機が息苦しさをかき回していた。部屋には木目調の古い年式のクーラーがあるにはあるが、「不経済でしょ」と付けさせてくれねぇ。女将である母親の命令は、この民宿において絶対だった。たとえ客であっても言ったことは遵守させる傍若無人な母だったが、なぜかそれが人気なのだから世の中は不思議なものだ。この母君のおかげで沈没船間近だった民宿が息を吹き返し、自分はそのおかげで飯にありついているがために文句は言えない。

(けど、まぁ、そんなんだから親父に逃げられたんだろうな)

そんなこと口が裂けても言えない、と、想像しただけで母親の怒号が飛んできたような気がして、一瞬、背筋が寒くなった。だが、あいにく、長持ちするものでもない。生ぬるさを通り越して熱を孕んできた空気に自然と湧き出てきた汗。体にまとわりつく気持ち悪さにさすがにいつまでもゆっくりと寝ていることはできなかった。

(さてと、そろそろ起きるか)

昨日のバイト帰りに「明日は迎えに来ないからね」と釘を刺されてしまったのだ。その一昨日の晩にネットで気になるバンドを見つけたのが運の尽き、楽曲をエンドレスで聴いていたがためにバイト初日を危うく寝過ごすところだったのだ。それだけなら、雷蔵には関係がないのだが、たまたま昨日は「初めてで心配だから」とこの夏の間長期滞在する同じバイト仲間のハチを迎えに来たのだ。その時に、私が寝ているらしいことに気がつき、部屋まで来てくれたのだが、爆睡していた私を起こすのには相当の時間と労力が掛かったようで。ひどく、おかんむりだった。

(これ以上、雷蔵を怒らせたくないもんなぁ)

基本的におっとりしている性格の彼だが、雷蔵自身以外の誰かに迷惑を掛けることについては、極端に厳しかった。すぐに投げ打って逃げ出そうとする私を引きずってでも戻そうとするのが雷蔵だった。面立ちは間違えられるくらいに似ているというのに、性格は二直角分違う。

-------母親の他に私が敵わない人物、それが従兄弟の雷蔵だった。

「さて、と。そろそろ起きるか」

客間の一室がそのまま自室になっているせいか年寄り臭い和装の部屋で異質さを放っている携帯電話が震動を繰り返している。さすがに自分で起きなければ、という意識が残っているうちにセットしておいたアラームだった。手を伸ばして適当にボタンをいじれば、自然と鳴りを潜める。のびと欠伸を一つ、それから私は布団から上体を起こし、その勢いのままに、立ち上がった。畳に触れた足裏が残された夜の湿っぽさを感じ取る。シーズンが始まる前に取り替えたばかりの真新しい薄緑が目に映える。

(今日は昼うちから曇ってくるかもしれないな)

開け放っていた窓から入り込んできた、淡い潮風にそう想う。夜中の間はぴたり、と風が止んでいて濃度を増殖させていた潮臭さが、いつしか押し寄せてきている。もう数歩だけサッシの方に近づき、窓から顔を覗かせば、視界の端に灰色を帯びたちぎれ雲がいくつか浮かんでいた。



***

海と空を見れば、だいたいの天気が分かる。そう教えてくれたのは雷蔵だった。まだ私がこの町に母親と一緒に戻ってくる前、年に数度、それこそ都会の街からこの海辺の田舎へと、盆と暮れだけに尋ねてくる間柄だった時のことだ。あの時は、まだ父親も一緒で、私たちは一組の客として民宿に逗留していた。

「三郎、もう帰ろう」

朝一で宿題である朝顔の観察を終え(わざわざ家からこっちに車に積んで持ってきたのだ)た私は、観光客が泳ぐような海水浴場とは違う、地元の子ども達が遊ぶような岩場に雷蔵に連れてきてもらっていた。特別な場所、という響きに、その時の私のテンションは普通じゃなかったと思う。覗き込んだ潮だまりには色鮮やかな海藻が揺れ、その中で幼魚やヤドカリといった生き物たちが優雅に暮らしていて、まるで宝石箱のようだった。遊び始めてどれくらい経ったのか、よく覚えていない。ただ、もうちょっとこの場にいたかった私は「えぇー」とブーイングを雷蔵に浴びせたのだった。

「いいじゃないか、もう少しくらい」
「駄目だよ。もうすぐ海が荒れる」
「そんなのどうして分かるんだよ?」
「だって、分かるものは分かるんだもん。海とか空を見れば」

そう言い切って私をその場から離そうとする彼に、私は意地になってテコでも動かないと決めて「そんなの嘘に決まってる」と足を踏ん張った。怒った雷蔵が「もう知らないから」と立ち去ってどれぐらいしてからか、急に荒れ出した天候に危うく遭難しかけたのだった。

(そういえば、それ以来かもしれないな。雷蔵が頑として譲らなくなったのは)



***

窓から海を眺めていると、ふ、と柔らかいメロディが聞こえてきた。その優しい音色にすぐに雷蔵のハミングだと分かる。向かい合っている彼の部屋ではなく、その間にある僅かな路地に近いところからする。すぐさま目を転じれば予想通り、路地に面した壁を覆うようにしてあるすだれの前、天まで伸びそうな勢いの朝顔に彼が水やりをしている所だった。すぐさま、ここから「雷蔵」と呼びたくなる衝動を抑え、それをフットワークに代える。他の客を起こそうが構わない。私は階段を駆け下り、勝手口から飛び出した。

「よかった、今日はちゃんと起きられたんだ」

私が声を掛けるよりも先に、雷蔵のおかしがるような視線がこちらに向けられる。昨日の怒りはどこへやら。彼の態度にこっちも「まぁ、当然だろ」と茶化して答えれば「よく言うよ」と彼は口角の深みを増させた。

「今年も咲いたよ、この朝顔」

それから、さらに意味深な笑みを浮かべられ、気恥ずかしさに心臓が小さくなったような気がした。そんな私を知ってか知らずか、雷蔵は私から視線を朝顔に向けた。晴れた日の残照のような瑞々しい紫色したそれは、どこにでもあるような至極普通の朝顔だった。---------けれど、私と雷蔵にとって、この朝顔は特別だった。



***

見上げた空は真っ黒で、落下してくる雨は弾丸のごとく鋭く膚を削った。夏だというのが信じれないくらい、冷たい。空の荒れは海へと伝播し、うねる波間に帰り道を見失ってしまった。満ち潮でも水に浸かることのないと思われる高台の岩まで飛沫で濡れ、私は恐怖と焦りで一杯だった。

(やっぱり、雷蔵の言った通りだった)

どうして信じなかったのだろう、という後悔の念を覚えたところで、今更どうにもならない。波にさらわれてしまうのではないか、と必死に、岩肌に爪を立ててしがみついていた。--------その後のことは、よく覚えていない。ただ、保護されたときに安堵の声を上げる大人達に混じって、小さなしゃくりあげている声だけは、今でも覚えている。

(それから、雷蔵を泣かせてしまった、という想いも)

雨に打たれたせいか、それとも流されまいと必死に岩にしがみついていたせいか、疲労困憊した私は高熱を出してしまって、そのまま残りの日数を寝込んでしまった。熱が下がり、ようやく自由に動き回れるようになったのは、私が街へと戻ることになっていた朝のことだった。

「謝らないと」

まだ全身が海綿みたいにふわふわとしていて力が入らず、ごろごろと過ごしていた布団の中で呟いてみる。けれど、雷蔵と顔を合わせるのが怖くて、どうしても、会いに行くことができずにいた。謝らないと、謝らないと、謝らないと。その思考が蔓みたいにずるずると絡み合って、どんどんと身動きが取れなくなっていく。気がつけば出立の時刻が近づいていた。

(……もう、このままでいいよな。うん、きっと来年になったら忘れてるだろうし)

勝手口から繋がる路地に置いてあった朝顔のプランターを車に積むために運ぶように母親に言われ、久しぶりに外に出た。円筒形に組まれたプラスチックのリングや棒を昇っていった蔓はその先端で行き場を失って、何もない空間に伸び、けれども重みに逆らうことができずに落ちて、こんがらがっていた。その緑の中に、ぎゅっと圧縮された紫が点在している。時間が時間だ。昼近くになり、もう萎んでしまったのだろう。そんな小さくなった花びらの中には、すでに枯れかけているものもあった。

(あ、種もできてる)

からり、と乾いて焦げ茶色に変わっている花の跡には、ふっくらとしたものができていた。よく見れば、すでに花殻も散って膨らみが十字に避けている者もある。観察日記に書かなければ、と詳しく調べるためにタマネギみたいな形に触ってみる。

「あ、種」

弾けたのは実だけじゃなかった。膨らみから中から黒っぽい粒が掌に転がるのを横目に、振り返れば、あの日までと変わらない穏やかそうな面持ちの雷蔵が立っていた。怒ってるはずだ、と思いこんでいた私は彼に掛ける言葉が見つからなかった。何て言えばいいのか分からず、掌中の種を握りしめ、ごろごろとすりつぶすようなことをするしかなかった。

「それ、」
「え?」
「もう、種、できたんだね」
「あ、あぁ」

すごいねぇ、と呟く雷蔵に、ぱ、っと考えが閃いた。そのまま、彼の手を取った。不思議そうに私を見遣る彼に「あげる」と種を押しつける。戸惑っている彼が「え、でも」と返してきそうになるのに気付いて、「いいから、種、全部あげる」と彼の掌を上から握り込んだ。じゃぁ家から袋を持ってくるね、と向けられた背中に、私はようやく彼にその言葉を告げることができた。「ごめん」と。

--------けど、彼の答えを聞くのが怖くて、そのまま逃げ出したのだ。

情けないけれど、その時の自分の精一杯だったのだ。彼の返事も待たず、勝手口に飛び込むと、彼に会わないまま車に乗った。プランターを置いてきたのに気付いたのは、9月の新学期になって、学校に持ってくるように言われてからだった。そうして、心のどこかで彼のことを考えながら、一年を過ごし、次の年、まだ雷蔵が怒っていたらどうしよう、と不安に苛まれながら、また私は両親に連れられてこの町に来た。本当は来るのが怖くて来たくなかったのだが、さすがに自由奔放な母親でも小さな子どもを一人都会に残してくるわけにはいかなかったらしい。有無を言うこともできずに、再びこの地を踏んだ。

--------どぎまぎした私を出迎えたのは、壁一面の、あの朝顔だったのだ。私が彼に押しつけた種から育てたのだ、と笑った彼は、それから「いいよ」と一年越しの許しの言葉を私にくれたのだった。



***

「……雷蔵、昨日はごめん」

ホースで朝顔に水をやっている雷蔵の背後に向けて謝る。振り向いた彼は仕方ないなぁとばかりに、柔らかい溜息を漏らすと「本当に三郎は変わらないよね」と呟いた。それから「いいよ」と笑った。



0718 (やはり、君には敵わないな)

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