空に閉じ込められた熱が発散されないまま迎えた夜がようやく西の彼方へと溶けだす頃、俺は海岸線へと続くコンクリートの坂を下り出した。この生ぬるさでさえ有難いと思うような日照りが時期に降り注ぐだろう。坂を降りれば開かれた砂浜の向こう、海の上には雲ひとつない朝焼けが広がっていた。闇が溶けだした群青も天井から押し流され、緑っぽいグラデーションを目で追っていけば、水平線辺りが金色に染まっている。もうすぐ、日の出だ。

(今日も、暑くなりそうだなぁ)

昨夜のニュースで全国的に宣言された梅雨明けの言葉に相応しい、夏空という言葉がぴったりの一日になりそうだった。異常気象だと騒がれた今年は天候がぐずついていて、すっきりしない天気が続いたこともあり、観光協会の組合員である父さんも随分と心配していたけれど、ものの見事に海開きの今日には間に合い、この晴天だった。

(あ、久しぶりだな、この感覚)

足裏に僅かな違和感は一年ぶりのものだった。ざり、と降ろしたてのサンダルに砂が入り込んでいく。まだ自分が汗をかいてないせいもあり、サンダルと俺の足裏との間で粒が移動するのが分かった。爪先がドーム状に覆われているとはいえ、合間合間から入り込んでくるその小さな刺激が目を覚ませるのに丁度いい。バイト初日だから、と昨晩は早くに床に就いたはずなのに熱帯夜のせいで、なかなか寝付くことができず何度も寝返りを打った。携帯のアラームで無理やり起こされてからもぼんやりとしていて、気が付けば勘右衛門の叔父さんから指定された時刻に迫っていて。あたふたと、適当に準備を済ませて家から海へと通じる扉を飛び出したてきたのだ。欠伸を一つ二つ噛み殺して、目的地の海の家まで、ざりざりと海岸線を突っ切る。今日は朝一で設営準備があった。

「おはよう、兵助」

不意に、背後で弾けた声。喉から出かけた驚きの叫びを何とか抑えた自分を褒めてやりたい。知らない声だ、と振り向いて、あぁ、と俺はその姿を認識した。俺よりも上背も横幅もある男は俺とは対照的にやたらと元気そうに瞳を爛々とさせてそこに立っていた。昨日、出会ったばかりの彼の名が咄嗟に出てこず、とりあえず「おはよう」と返した後、頭を軽く下げる。

「えっと……ごめん、名前」
「竹谷八左ヱ門。あ、でも、俺の名前なげぇからさ、一発で覚えられる奴、珍しいし」

慣れている感じの彼は穏やかな感じで俺に応じてくれた。

「ホントごめん、竹谷くん」
「くん付けとかいいから。ハチとかって呼んでもらえると嬉しい」
「あ……ん。分かった」

人懐こい笑みを浮かべられれば断ることもできず、俺は押されるがままに頷いた。

(何か、調子狂うな……)

初対面でいきなりあだ名呼び、というのは俺の人生において一度もない。好感だとか不快だとか、そういったレベルの問題じゃない。こちらの懐に軽々と飛び込んでくるハチに何となく気圧されてしまう。別に彼が俺に何かをしている訳じゃない。むしろ、俺の心の持ちようなのだろう。この保守的な田舎町で生まれ育った、典型的な性格をしている俺にとって、彼の人当たりの良さは、どことなく得体の知れなさを感じずにはいられないのだ。



***

都会からローカル線に揺られに揺れて辿り着く、半島の先端にあるこの町は、漁業と僅かながらの観光で生計を立てている、『ど』がつくほどの田舎町だった。夏場になれば人口が普段もの何倍にも膨れあがり、人の出入りが激しいために、一見、開放的に見える。だが、それはあくまでも表面上だ。立ち替わり入れ替わり来る外の人達に見せる外面の下に潜む内々の顔。あくまでも余所者は余所者だ、という閉鎖的な空気がある。その窮屈さに反抗する者もいれば、一度その枠に収まってしまえば楽だと順応していく者もいる。

--------自分はどちらかといえば、後者だった。

人見知りというよりも心を開くのに時間が掛かるというのが正確なところなのだろう。高校に進学した時に他の市町から来た同級生と最初の内は打解けることができずにいた。それこそ、目の前のハチのように親しげに話しかけてくるやつもいたが、俺が上手く返せずにいるとつまらないやつと判断したのかそのうち話しかけてくることもなかった。そのことについて淋しいという感情が無だったわけではないが、それならばそれでいいと思っていた。地元に帰れば、勘ちゃんも雷蔵も三郎もいる。気心知れたとい彼らといるだけで十分だ。

(余所者なんて一緒にいると何かと面倒で、疲れるだけだからな……)

「兵助? どうした、ぼっとして?」
「いや」

ハチの案ずる声に浸っていた思考から解放された。余所者の彼を前にして今、考えることじゃない。別に彼に聞こえていたわけでもないのに、独り言を漏らしていたような気がなぜかして慌てて首を振る。怪訝そうな面持ちに「何でもない」と付け加え、急いで止めていた歩みを発進させようとした途端、

「っ」
「あ、ぶね」

体と脳の指令のタイミングがずれたのか砂に足を取られこけそうになった俺を、支える力強い腕。すん、と潮まじりの汗の匂いが漂った。抱き留められた部分の熱が膨れあがっていき、それが全身を巡る。心臓が壊れたみたいに早鐘を打っていた。

「大丈夫か?」

耳から直接体に響くハチの声が全身を艶やかに撫でた。頬が自分で感じるほどに熱い。心臓が破裂しそうだ。妙に彼の存在を意識してしまう。全然、大丈夫じゃない。けど、彼が問うていることはそういうことじゃないと分かっているから、「あ、あぁ。大丈夫」とだけ返し、彼に掛けていた体重を引き戻した。離れる体温、残る熱。------何か、まだ自分をハチが抱いているようだ。

「……そ、そういえば、雷蔵は?」

彼を直視できず、辺りを見回して、今更ながらに友人がいないことに気がついた。昨日、勘ちゃんの所にハチを連れて行った俺たちは、「ま、ついでだ」と豪快に笑った叔父さんからバイトの説明を受けた。海の家といっても、リゾート地でもなんでもないこの海岸線の設営される掘立小屋だ。シャワーと着替えができる場所の提供と、パラソルや浮き輪といったものの貸し出し、それから、飲み物だとか焼きそばだとか、ちょっとした食事の提供がメインとなる。シフトの組み方は相談、ということで、話を終えた俺たちは、そのままハチを三郎の家が営んでいる民宿に送っていくことにした。(ハチはバイトの間そこで寝泊まりするのだそうだ) 次の日も、この辺りのことをよく知らないハチのために、海の家が設置されている浜辺まで雷蔵がハチを連れていく手はずになっていた。なのに、その雷蔵の姿が見えない。

「あーなんかさ、三郎がまだ寝ててさ。迎えに来てくれた雷蔵が「僕が起こすから、少し遅刻するって伝えておいて」って言われて、とりあえず先に来たんだけど」

急に、彼の口から昨日はいなかった友人の名前が出てきたことに驚いた。俺の家の前で彼と別れたの時点で、俺たちは三郎について一緒にバイトする仲間だとは伝えていない。ハチが「鉢屋って民宿に行きてぇんだけど」と言ったために案内しただけだった。なのに、今、彼は親しげに名前を呼んだ。三郎って。あの俺以上に偏屈な友人の名を。

「三郎って」
「あ、民宿の。今度のバイトも一緒なんだってな。あの後、夜にさ、食堂で飯食ってたら、一緒になったんだよ。あ、雷蔵も一緒でさ。で、色々話したら、結構盛り上がっちゃってさ。三郎っておもしろいヤツだよな。そうそう、兵助ともダチなんだろ? ってか、雷蔵と勘右衛門とお前と腐れ縁だって三郎が言ってた」

唖然としている俺を無視してハチはどんどんと話を転がしていく。三郎から聞いたんだけどよぉ、という言葉に続くのはこの町の様子だけじゃなく、俺たち自身のことだった。まるで、旧くからの友人のごとく、俺たちのことがほとんど知らないハチの口によって語られていく。

(もう仲良くなったのか?)

ざわり。凪いでいた胸内が不意に波立った。一度生まれた波紋は次々と伝わり跳ね返り別の波を作り出していく。雷蔵はともかくあの三郎がそこまで彼に話したことは驚異に値した。余所者であるはずの彼がもう身内のようになっている。その事が嫌だった訳じゃない。嫉妬とも違う。いや、やはり嫉妬なのだろうか。こうやって俺の知らないところで三郎と雷蔵がハチと仲良くなったことが。羨ましい。

(こいつとこんなに親しくなった三郎や雷蔵が。俺だって……ん?)

自分の思考の違和に、また砂に足が取られる。ざり、とサンダルの隙間に入り込んだ砂粒みたいな小さな違和。胸に宿る気持ちが理解できなかった。けれど、その想いが確かに存在していることに気付いてしまった。偏屈な三郎と簡単に親しくなったハチじゃなく、三郎や雷蔵に嫉妬している自分に。

----------雷蔵や三郎みたいにハチと親しくなりたい、という己の想いに。

「兵助?」

覗き込まれれば顔が近い。また、心臓がおかしくなる。まだ陽は昇っていないのに、顔が日焼けしたみたいに火照る。いったい、何なんだろう、これは。足裏に触れる砂も、さっきまで夜冷えに沈んでいたはずなのに、急に熱くなったような気がして、俺はサンダルを脱ぎたくなった。



0717 この感情の正体を、俺は知らない。

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