入り込んでくる陽射しの強さに瞼を降ろしていても光を感じて、チカチカと血潮が揺れている。まだ、寝ていても十分、大学には間に合う時間だった。それでも、開け放っていた窓から入り込んでくる熱の重苦しさに、自分の体温が篭っているベッドの上で耐えるのも限界だった。まだ眠りの中に滑りこみそうになる意識を無理やり起こし、すでに温まった床へと足を降ろす。

(あー、今日あたり、梅雨明けをしそうだなぁ)

窓の向こうには、すでに光をたっぷりと吸収して白金に輝く雲が広がっている。淡い青を溶かしたような空の下には、それとは一線を画した、濃い蒼を塗り込めたような海がどこまでも広がっていた。海と空との境界がはっきりするのを見て、感じる。-------夏が来たのだと。

(ん? あれ?)

景色に浸っていた僕の耳に、早朝らしからぬ爆音が響き渡った。視線を少しだけ左下の音源に向けて寄せる。と、僕と彼との家の敷地の合間で、すでに服を着替えて髪もセットし終えた三郎が単車のエンジンをふかしている所だった。もう学校に出かける時間だったのだろうか、と自分の読みが外れたことに慌てふためき、「さぶろー」と大きな声で呼びかける。僕に気付いた三郎は、エンジンキーをねじ回し、一度その耳を劈くような振動を止めた。騒音が消えたせいか三郎の声がはっきりとクリアに聞こえた。

「お、雷蔵。やけに早いな」
「そっちこそ。もしかして、もう学校行くの?」
「いや、学校じゃない。あ、私、テスト終わったって言ってなかったっけ?」
「えー、聞いてない」
「雷蔵は?」
「まだ試験があと一個。今日から夏休みかぁ、いいなぁ」

大学に入って初めての夏休み。期待や希望を抱いて、とまではいかないものの、何かと縛られていた今までとは少し違うような、そんな予感が僕の中で弾んでいる。ただし、この試験期間を無事乗り越えられたら、という、高いハードルがあるけれども。

「ま、頑張れ。例のバイトは明日からなんだろ? 今日はちょっと出かけてくる」

慣れたようにひらりと単車にまたがると、エンジンをひとふかし。あっという間に、風になった。路地裏から消えた三郎の言葉が胸を踊っている。『例のバイト』その言葉が、こんなにも僕の胸を浮つかせた。まだテストが終わってないのに、もう夏休みになってしまったかのような、そんな気持ちだった。

(本当に、楽しい夏になりそうだなぁ)



***

「バイト?」
「うん」

その話を持ち掛けられたのは、5月の連休が明けのことだった。普段は地元客しか来ない、溜まり場となっている喫茶店も時間帯のせいか閑散としていて、僕たち以外に客の姿はなかった。(まぁ、厳密に言えば、僕たちも客とはいえないのだろうけど) それまで、オレンジジュースをちまちまとストローで吸っていた勘右衛門が「ほら、叔父さん所の海の家、手伝ってほしいんだけど」と続ける。勘右衛門の家は普段は釣り人相手に渡し船の運航をしたり釣り具を売っていたりするのだが、一緒に棲んでいる彼の叔父さんが夏になると砂浜に打ち立てられる海の家の一軒を営んでいることを思い出した。

「そういえば、毎年、開いてるね。あそこで働いてるのって皆バイトだったんだ」
「うん。あの時期だけしかできないからね」

都会から電車で揺られること数時間、半島に面したこの田舎町も、夏の間だけは海水浴客や旅行客で賑わう。一年のうち、一番人口が膨れ上がるこの時期は、当然、猫の手も借りたいくらい忙しくなる商売も多い。(僕の家が営んでいる本屋でさえ、売り上げが伸びるのだ) その中でも、海の家といえば、一番の稼ぎ頭であると同時に人出がいる。

「一応、バイト募集は掛けるみたいだけど、よかったら、と思って。大学生になったし」

去年までは高校生という身分柄、両親の反対の元、バイトをすることは適わなかった。代わりに店番とか家の手伝いばかりを申しつけられていて、今思えば「高校生の 」というのも口実なような気がしてきた。その証拠に、パートのおばちゃんを雇った今年はといえば休みの日に家にいようものなら「バイトすればいいのに」と二言目には言われる始末だし。

「どう? やってみない?」
「やってみようかな? 夏休みはバイトしようと思ってたし」

授業に慣れるまでは、と迷いに迷って、色々とあった誘いの声を断り、バイトを見つけるのを後回しにして。そのままずるずるとゴールデンウィークも終えてしまっていた。この時期になってしまうと、授業の予定と合わしやすいバイトは他の人に取られていて、しまったなぁ、とちょっと後悔していた所だった。

「ふーん、おもしろそうだな」

奥のカウンタースペースで洗い物をしていた兵助がエプロンで手を拭いながら僕たちのいるテーブル席へとやってきた。海岸線に面したこの喫茶店の息子である彼は、僕と同じように、休みの日になるとこうやってよく家の手伝いをしている。

「兵助もする?」
「どうだろ、この店があるからなぁ」
「しようよ。俺がおじさんにかけあってあげるし」

ストローを銜えていた勘ちゃんが振り回してオレンジを撒き散らしながら懇願した。しばらく「うーん」と考え込んでいた兵助が、不意に、僕の方を見た。ん? と、彼の視線に不思議に思いながらいると、「じゃぁ、雷蔵がバイトするならする」と、僕に決定権を振ってきた。

「えー、ちょっと兵助、そんなの、責任持てないよ」
「だってさ、同じような立場の雷蔵もするなら、父さんを説得しやすいし」
「そんなぁ」

ちょっと責任重大な気がして、慌てて周囲に助けを求める。と、僕たちと通路挟んで隣、昔懐かし(といっても、僕たちは当然直接は知らないけど)のインベーダーゲームができる席でさっきからマイペースに週刊漫画を読んでいる三郎が目に留った。縋るような気持ちで「さ、三郎は?」と尋ねたけれど、「んぁ?」と向けられた目は眠たげで、こっちの話を聞いていた様子はない。

「何が?」
「夏休み、海の家でバイトしないか、って話」
「あー、夏休みなぁ」

あまり乗り気じゃないような口調だったけれど、こっちの話に参加する気になったらしく、手にしていた漫画誌を閉じて僕たちの方に向き合った。勘右衛門が「や、無理なら別にいいんだけどさ」と補えば、三郎は「いや、他のバイトがなぁ」と呟いた。

(あ、そっか。三郎、いくつかバイトしてたっけ)

高校の時も校則など関係なくいくつも掛け持ちしていた三郎は、大学に入ってもバイト三昧の日々を送っていた。正確な所は知らないけれど、短期長期含めればかなりの数をこなしているのだろう。海の家のバイトがどれくらいのものなのかは分からないけれど、もっと割のいいバイトも探せばいくらでもあるはずで。

「そっか。だと無理かもな」

惜しむように兵助が零したのに続き、僕も「そっか、残念」と漏らせば、三郎は「いや、」と頭を被り振った。

「メンツに入れといてくれるか? 他のはなんとかするから」
「本当に大丈夫?」
「あぁ。……雷蔵と兵助と勘右衛門と四人で海の家、か。楽しい夏になりそうだな」

皓い歯を見せて笑った三郎に、僕たちはまだ来ぬ夏の夢を描いた。



***

(あー、やっとテストが終わった)

最後の選択問題がまだ心残りだったけれど、今さら考えた所でもうどの道どうすることもできないのだ、と自分に言い聞かせ、僕は本を開いた。ターミナル駅の端っこのホームを発着するこの路線は、朝と夕方の通勤通学時間帯以外は、本当に本数が少ない。すごく不便なのだけれど、それでも通学に電車を使っているのは、乗車時間に本が読めることと、海岸線に沿って電車が走っていくことにある。毎日、違った景色を見せる海に、心が安らぐ。本と窓と交互に視線を転じながら、僕はのんびりと進むローカル線に揺られた。

(うわぁ、暑い)

車両の外に出た途端、熱濃い潮風が体に巻き付いた。さっきまでの冷房が効いているのかどうなのかさっぱり分からなかった生ぬるい車内がいかに涼しかったか、一瞬で体感できた。足元に墨汁のような黒く短い影が滲む。あっという間に、額に汗が噴出した。

「あ、兵助」

時間が時間だからだろうか、灼熱のホームに降り立ったのは自分を含めて三人だけだった。そのうちの一人はよく見知った背中で、少し早歩きで近づき、声を掛ける。振り向いた兵助は「雷蔵もこの電車だったんだ」と、僅かに驚きの色を目に浮かべた。

「うん、後ろにいたけど、本、読んでたから、気付かなかったや」「二両しか走ってないのにな」
半島の稜線に沿うようにして曲がっていく単線にもうその車両は見えなくなっていた。代わりに、レールの合間を縫ってぼうぼうと生えている緑々とした草が目に付く。線路に盛られた石から昇り立つ陽炎に、その草が揺らいで見えた。どちらともなく、ホームを歩き出す。

「テストだったのか?」
「そう。兵助も?」
「いや、俺はレポートの資料を集めに」
「まだ夏休みじゃないんだ?」
「いや、休み明け提出の」

他愛のない会話をしながら、なだらかな坂になっているホームを下りて右手に折れる。今、電車が行ったばかりで、特に周囲を確かめることなく線路を渡れば、自転車などの侵入を防ぐための安全柵、そしてその先に続いているのは道だった。一時間に数本しか走らない単線の田舎町の駅ともなればプラットホームにあるのは雨よけの屋根と色褪せたベンチのみ。駅舎など当然ない。

「ん?」

その安全柵の前で、誰かが右往左往していた。僕たちとあまり変わらないような若い男。ガタイのいい体つきは、さっき、僕たちと一緒に降りた人物だと分かったが、見覚えはない。肩に掛けているボストンバックのでかさからいっても、この辺りの人物じゃなく旅行者なのは一目瞭然だった。

(珍しいなぁ、電車の旅行者か。しかも、一人とか……学生かなぁ?)

交通の便やその後の行動範囲のことから多くは車やバイクといった利用率の方が高い。そう考えると珍しいが、彼の出で立ちからして、学生ができるだけ安く費用を上げて色々な場所に旅行するタイプなのかもしれない、と思い直す。学生の一人旅とかしてみたいなぁ、と、通りすがりざまに、ぼんやりと彼を眺めていると、はた、と目が合った。

「あの、」

見すぎていただろうか、と心臓が縮んだ。だが、続けた彼の「切符って、」という言葉と、手に握りしめられた小さな切符に、あぁ、と納得する。自分たちは定期を使って通っているし、無人駅なのは当たり前すぎて気にも留めなかったが、目の前の彼にとっては未知の世界なのだろう。彼が何に戸惑っているのかは分かったが、僕は「えっと、切符は…ここでは使わないよ」とうまく言い表すことができなかった。その代わりに、彼の悩みに気づいた兵助が、分かりやすく説明を付け加える。

「あぁ……ここ、駅員いないから、渡さないっていうか渡せないんですよ」
「あ、そうなんだ! ……あ、けど、これどうしよう」

僕たちの方に見せた切符には、ちらりと彼の指の間から地名が見えた。そこに刻まれているのは、知識でしか知らない場所。県をまたぎ、ここからずいぶんと遠い地名が記されていた。そこに意識が向いていた僕とは違い、応対していた兵助は冷静に「そのまま持ってってもいいと思いますけど」と返す。

「あ、そっか。どーも、ありがとな。助かった」

太陽のように、ぱっと明るい笑顔を僕たちに向けた彼は「あ、ついでに、もう一個教えてくれると助かるんだけど」と人懐っこそうに目尻をさらに緩めた。どんなことだろうか、と僕が「いいけど?」と答えれば、目の輝きが増した。右手を押しだすように俺たちの方に立てて「ちょ、待ってて」と伝えると、彼はポケットにもう片方に手を突っ込んだ。しばらく、がさごそと漁っていた彼は「あった、あった」と独りごち、それからくしゃくしゃになった紙を出した。どうやらメモのようだった。

「あのさ、尾浜って釣り具屋知ってる?」
「知ってるけど」
「教えてくれねぇか? そこに行きてぇんだけどさ」

駅員に聞こうと思ったらいないし、とぼやいた彼は、「あ、そうそう」と一人で捲し立てた。

「俺さ、何かその店が募集していた海の家のバイト要員なんだよ」
「え、そうなの? 僕たちもそうだよね、兵助」
「あぁ」
「マジでっ!? おほー、すっげぇ偶然」

飛びあがらんばかりに歓びを弾けさせている彼は「俺、竹谷八左ヱ門」と僕たちの方に手を差し出した。



0716 こうして、僕たち5人の忘れられない夏が、始まった。

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