※土/星/マ/ン/シ/ョ/ン の設定をお借りしています。



少しでも明るくなるように、と、かさが外された電灯の下でも手元ははっきりとしない。天候に左右されることもない薄暗さも慣れてしまえば、普段はあまり気にすることはない。けれど、いざ、こうやって、細かい作業をするとなるとスタンドライトが欲しくなる。自分が落とした影と辺りの蔭とが馴染むほどの暗さに実感してしまう。

(ここが、自然の光が届かない下層なのだ、と)

地球からこの建造物までの距離と比べれば、上層と下層の高さなんてたかが知れてる。けれど、その物理的なものよりも精神的な距離の方がずっとずっと遠いことがあるのを俺は知っている。もう、二度と帰ることのできない上層の暮しに未練は全くないけれど、時々、思うのだ。この下層の人たちに、地球の青や草木の緑を見せることができたなら、と。

「へーすけ、角と角が合ってない」

ぼんやりと思案しながら色紙を折っていたせいか、鋭い指摘が飛んできた。俺が折っていた水色の紙に伸びる幼い指には桜貝のような可愛らしい爪がちょこんと乗っている。俺とハチが共に暮らしているアパートの大家さんの娘さん(確か今年で5歳になった)に、なぜか俺は折り紙を教わっていた。

「もー、へーすけは下手すぎ」

小さな先生は唇を尖らせながら、けれど、笑顔で俺に小言を言い出した。教える、というのが余程楽しいのだろう。俺から水色の紙を奪い取ると、途中まで折っていた紙を開き直していく。元の大きさに広がった紙は、折り線が残っていて、少しよれた感じだった。けれど彼女はそれには気にも留めず、「だから、こうやって……こうで、こう」と再び紙を折り重ね始めた。俺よりも数倍器用な彼女は、子どもとは思えないほど丁寧に端と端を合わせて折っていく。さっき俺が形にしていた所まで俺よりも数段綺麗に作ると「分かった?」と強く念押しながら彼女は折り紙を返してきた。流れるような手つきに見とれていた俺は、何が分かったのか分からなかったが、つい勢いに押されて「分かった」と返していた。

「ホントに?」
「……あぁ」
「へーすけ、うそはいけないんだよー」

(子どもはやっぱり苦手だ)

嫌いじゃないのだけれど、まっすぐで何をするか分からない、ってイメージがあるからかもしれない。知人の結婚式に出るからという大家さんから子守の要請を受けたのはハチの方だった。大家さんにはすごくお世話になったから別に、そのことは構わない。ただ、いきなり「悪ぃ、用事ができたから、あとよろしく」とかは、いくらなんでもないだろう。

(早く帰ってこいよなぁ……)

彼女に折り方の指南を受けながら、心の中で零す。それでも邪険にできないのは、逃げ隠れるようにして下層に降りてきた身元も不明な俺たちを快く棲まわせてくれたからだった。



***

数百メートル。そのわずかな距離が俺たちを隔てていた。普通に考えてみれば、数百メートルなんて近距離恋愛にも程がある。けれど、透明な土星みたいな輪っか状の建造物に住んでいる俺たちからすれば、縦に数百メートル離れているということは、横にこの場所から対角線上にあるリングの端に行くよりもずっと遠くだった。

----------------上に三段と積まれている建物の階層構造は、そのまま、身分の差を表している。

ハチと再会し、俺はただの『兵助』として生きることにした。端から見れば、それこそ地球に降り立つぐらいの冒険だろう。それぐらい、上層と下層では住む世界が違いすぎる。けれど、富裕な身分を棄て去ることに何の躊躇いもなかった。ハチと共に生きることができるならば、他には何もいらなかった。

(けど、実際問題、それだけでは済まない部分もあったよな)

どう生きていくか、ということが俺の前に立ちはだかった。いくら上層ほど雁字搦めではないとはいえ素性を隠してでは部屋や仕事は簡単には見つからなかった。『久々知兵助』という名前一つで守られていたのだ、と気付いた。全部をなげうって飛び出してきたのだから、あるのはこの身一つばかりで。己の盾となってくれるものは何もない。

(そりゃ、ハチに守ってもらうこともできたのだろうけど)

別にハチを頼って彼が住んでいる部屋に転がり込むこともできた。当面のことを考えれば、それがベストな方法だということも分かっていた。けれど、それはしたくなかったのだ。5年前、自分の足で立って歩くことができたなら、その時に会いに行こう、そう決めて。けれど、自分の頭上であの頃と変わらぬ笑みを浮かべていたハチを見た途端、その決意はあっけなく崩れ落ちて、俺はハチの前に姿を現してしまったのだ。だから、今度こそ、自分の足で立って、生きていこう。

(そうして、いつかハチの隣に並ぶのに相応しくなれたら、その時、会いに行こう)



***

身を保証するものが何もない俺を温かく迎えてくれたアパートに腰を据えて一年。体力的にも精神的にもきつい仕事にはなかなか慣れることができなくて、このままじゃハチに逢えそうもない、という不安だけが渦巻いていた。それはいつしか、諦めに繋がっていた。-----もう、二度と、逢えないんじゃないかって。

(あー、疲れたー)

蓄積する体の重みを宥めるかのような夕風が襟足を撫でる。ずるずると足を引きずりながらアパートへの道を歩み続けていると、どこからかいい匂いがしてきた。ちょうど、夕食の支度の時間なんだろう。空腹を訴える音にお腹をさすりながら、屋台にでも寄ればよかった、と一抹の後悔を覚える。家に残されている食材で夕飯を作るのもこの体では重労働だったが、通りに引き返すのも、もっと面倒だった。

(もう冷や奴とご飯とかでいいかな)

下層に来て一番はまったのが豆腐だった。安い、栄養がある、美味いの三拍子が揃っているそれは俺の食卓をほぼ毎日飾るようになっていた。辛うじて冷たさを保っている冷蔵庫の中にあるそれを考えただけで、自然と足取りが軽くなったような気がした。

「あ、兵助くん、おかえりなさい」

ようやくアパートの前まで来ると、そこで鼻歌まじりの大家さんと出会った。やたらめったら陽気な性格をしているのは前々から知っていたけれど、今日はそれに輪をかけるようにして楽しそうだ。

「こんばんは」

彼が手にしているものに、つい、意識が奪われてしまう。一年前までは当たり前のように目にしていた、けれども、今では見ることのできない、鮮やかな緑に。偽物だろうか、と一瞬思ったけれど、溜息が出るほどの瑞々しさにすぐにその考えは打ち消された。俺の視線に気付いたのか、彼は門扉にくくりつけようとしていたそれを、俺の方に自慢げに突き出した。

「あぁ、これ? これ、笹だよ」
「本物ですよね」

俺たち以外に誰も聞いてない、と頭では分かっていても、声を潜めてしまう俺に対し、大家さんはあっけらかんと「うん、そうだよ」と笑った。思わず辺りに視線を配って「見つかったら、まずいんじゃないですか?」と諫める。けれど、彼はのんびりした口調で答えた。

「そーだね。でもさ、今日は、年に一回の七夕だから」

ほら、と斜上方の窓を見遣る大家さんにつられて俺も顔を向けたけれど、当然、そこに広がっている宙も星々も見えるはずもなくて。上層の窓の時は自然と見えた深みのある宇宙の黒ではなく、ただただ塵に塗れたのっぺりとした暗がりが貼り付いているだけだった。俺の気持ちを汲み取ったかのように大家さんが小さく笑った。

「星は見えないけどね。あ、そうだ。兵助くんも短冊、書いてよ」
「え?」
「アパートの人、みんなにお願いしてるんだ。はい」

傍らの机にあった黄色の短冊とペンを手渡されたのはいいけれど、急に言われたものだから願い事なんて思い浮かばなくて。

「大家さんはなんて願い事を書いたんですか?」
「えー、僕? 僕はね『僕の大切な人を倖せにします』って書いたよ」

ほら、と見せてくれた短冊には、大家さんらしいほわほわと文字で、彼が口にしたことと全く同じことが綴られていた。願い事というよりも決意表明のような書きぶりに「それ、ちょっと願い事と違うんじゃないですか?」と疑問を呈すと、彼は柔らかな笑みを浮かべた。

「星に誓いを立てたらさ、夜になる度に思い返すでしょ。そしたら、頑張ろう、って思えるんだ」

(あぁ、だったら、俺の誓いはたった一つだ。--------ハチに逢いにに行く)



***

それから、また月日は巡り、門扉に笹がくくりつけられた夜、俺はハチに逢いに出かけた。

もう自分の足で立って歩いているのか、って問われたらまだまだ不安な部分はあるけれど、けれど、毎日、必死に頑張って頑張って、夜になる度に目には見えないけれど心の中で星を想い浮かべては、誓いを胸に生きてきた。そんな日々のことを考えたら、次に進もう、そう思えたのだ。

「兵助」

俺を出向かえたハチは、その綺麗な眼を真珠星のように煌めかせていた。ゆらり、ぽとり。彼の涙が俺の頬を濡らし、自分のそれと混じり合って静かに落ちた。気が付けば、俺はハチの胸に抱かれていた。耳元から柔らかな囁きが包み込む。「ずっと待ってた」と。


「一年前、今年もさ兵助の部屋の窓ふきの依頼が来るかな、ってずっと待ってたんだ。……けどさ、ずっと続いていたのに今年はなくて、びっくりしてさ。いや、びっくりだけじゃないな……すげぇショックだった。年に一回、唯一、兵助と逢うことのできる時だから」

きゅ、と萎んだ喉に引っかかった掠れたハチの声に「ごめん」って言おうとしたけれど、漏れ出るのは嗚咽ばかりで。ただただ、掴む温もりを放さないように、彼の背中に回した指先に力を込めた。俺を抱く彼の腕の力も、強まる。涙に震える体も温もりの愛しさも、全部全部、伝わってくる。

「それを励みに、すっげぇ、一年、頑張ってたんだよ。なのに、依頼がないって知って、正直、魂が抜けたってくれぇだった。せめて理由が分かればって、窓ふきの組合の人に掛け合ってもらって、なんとかさ、依頼主の尾浜勘右衛門ってヤツとコンタクト取ったんだ」
「勘右衛門と?」
「あぁ、そこしか手掛かりなかったし。で、お前が下層に行ったって聞いて、すぐさま飛んで帰ろうとした俺に、そいつがさ、言ったんだ」

懐かしく大切な友人の名が出てきたことに彼が健在なのかも気になったけれど、それ以上に何をハチに言ったのだろう、と顔を上げる。

「『兵助は、きっと、自分から会いに行くから、それまで待っててくれないか』って。だからさ、本当は何が何でも探し出して会いに行こうと思っていたんだけど、兵助がそうしようと思ってるんなら、待っていようと思って」

溜まりに溜まっていた涙の堰が崩れた。勘ちゃんの優しさとそれからハチの温かさが胸に染みわたる。倖せだった。この世に生まれてきて、大切な人達と巡り逢うことができて、本当に倖せだった。そう言葉にしようと思ったけれど、何も言葉にならなかった。代わりに、彼の温もりをもっともっと強く抱きしめ、祈った。

「よかった。兵助と、逢えて」

-----どうか、どうか、この気持ちが伝わりますように。ハチと出会えて倖せだ、と。



***

「へーすけ、また、手が止まってる」
「あ、ごめんごめん」
「早くしないと、みんなが飾り付ける時間になっちゃうよ」

色とりどりの七夕飾りは机いっぱいに溢れかえっていた。二人で作ったのは門扉にくくられた笹を飾るには十分な量になっていた。このアパートでは恒例となった七夕を、今年、初めてハチと一緒にするのだ。そう思うだけで自然と唇が緩む。今年は、どんな願い事を書こうか、まだまっさらな短冊を見ながら考える。

(ハチは、どんな願い事を書くのだろう)

昨日、その行事の事を伝えた時は、顎に手を当てて深く考え込むようにしていたハチを思い出していると、

「お、やってるやってる」

いつの間に部屋に入ってきたのか、頭上から朗らかな声が降り注ぐ。顔を上げれば「ただいま」と日なたのような優しい笑みを向けられ、心がふわりと緩む。すぐに抱きつきたいのを、子どもの前だし、と自制し、代わりに笑顔だけで全てを伝えようとする。

「はっちゃん、おかえり」
「ただいま。あ、さっき、大家さん帰ってきてたぞ」
「ホント!?」

目を輝かせた彼女はそのまま一目散に部屋を飛び出して行こうとして。机に残された七夕飾りに慌てて「ちょっと、これ」と声を掛けたけれど、聞く耳持たず。巻き起こした勢いに、机に無造作に積み上がった色紙が舞い散り、床に落ちた。つむじ風みたいな彼女に、しばらく呆然。足元の鮮やかな色彩にようやく、あ、と声を漏らした俺に、腰を屈めて拾おうとしていたハチは苦笑いを浮かべながらドアの方を見遣った。

「あとで短冊を貰いに行きがてら、置きにいってくるか」
「そうだな……ハチ、もう短冊に何書くか決めた?」

散逸した折り紙を集めていたハチの手が止まった。ひと息分の沈黙ののち「あぁ」と相槌を押しだした。どんなことをハチが短冊に書いたのか気になっていた俺は彼に「何、書くんだ?」と問いかけた。けれど、ハチは黙りこんで言い渋り、やがて口にしたのは違う話題だった。

「そういや今日な、俺の友だちが地球に行くんだって」
「え?」
「俺の友だちがさ地球に降りていくの。大切な人に会いに」

誤魔化すために、という訳じゃないだろう。ハチはそういうことはしない、と分かっているから。冗談のような夢物語のことでも、きっと本当なのだろう。ふ、といつか、勘右衛門が俺に問いかけてきたことを思い出し、そのままそっくりハチに振った。「ハチは地球に降りてみたいと思う?」と。すると、彼は即答した。

「いや。行きたいとは思わないな」
「どうして?」
「兵助が、ここにいるから。兵助が地球にいるのなら、即行、降りて行くけどな」

あの時の自分とまったく同じ答えに驚きと--------そして、愛しさがこみ上げてくる。

「……兵助こそ、後悔してねぇか? 下層に降りてきて」
「ないよ。一度だってない」

自分が何をしているのか分からなくて辛い時もあった。先が見えなくて不安な時もあった。それでも、ここに来たことを後悔してはいない。太陽から降り注ぐ自然の光がない代わりに、電球によって淡く橙色に照らされた家で「おかえり」と迎えられることの温かさを知ったから。

-----------俺の生きる場所が、ここにあるから。

「『兵助に一生「ただいま」と「おかえり」を言う』」

ふ、とハチが柔らかく笑った。初めて見た時から、ずっと好きだった日だまりみたいな笑顔。突然の呟きに「え?」と返せば、そっと抱きしめられた。柔らかい温もりの先で「短冊に書こうと思ってること」とハチが続けた。そういえば、今日はまだその言葉を告げてなかったことに気づき、俺は、口にした。

「おかえり、ハチ」




おかえりなさい。


title by カカリア


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