※土/星/マ/ン/シ/ョ/ン の設定をお借りしています。


「この足下から、3万5千メートルか。どれくらい遠いんだろうな」
「3万5千メートル、って、あんまり実感が湧かないね。でも、距離でいうと、」

彼が例を挙げた地名はラジオでしか聞いたことのない名前だった。土星の輪のように、地球の周りをぐるりと巡っている管状の建造物。当然、今、自分がいる所とちょうど反対側の場所は、地球の直径よりも長い距離だけ離れていることになる。下層同士の行き来は、上下ほどには制限されてはいないが、それでも自分の地域以外には出たことがほとんどなかった。雷蔵が口にした場所に、ただ漠然と遠いイメージだけが募る。

「あぁ、それは遠く感じる」
「うん。でもさ、上層の方がずっと遠いよね」

その距離の10分の1くらいなのにね、と雷蔵は眉を下げて苦笑いをうかべた。一番下の段から重ねるようにして、あと二つ。中層と上層は、さっき彼が口にした地名よりも距離的にはずっと近い所にある。それなのに、上層の方がその場所よりもずっとずっと遠くに感じるのは、生まれた時から身に刻まれてきた階層意識のせいなのだろう。

(3万5千メートルよりも、ずっと深い溝が、この世界にはある)

どれだけ努力をしたところで、決して埋まることのない距離。物心ついた時から当然のように存在していた身分の差に不満を抱くようになるのは、教育を受け出してからだった。口では「差別などなく友人として」などと大人は言うけれど、その大人が私たち下層の人間を締め出しているのだ。私は雷蔵と違って反発に反発を重ね、けれど、やがて不満に思うことすら慣れてしまって、いつしか諦めていた。

--------技術者として、地球に行きたい、という夢を。

「雷蔵は上層に行きたいのか?」
「どうだろ? なんか上層は上層で大変そうだよね。それよりは、地球に降りたいかな」

雷蔵の言葉に、心が揺れた。ずっと昔、約束をした。いつか一緒に地球に降りよう、と。青い宝石のような地球に、二人で降りようと。そのことを覚えているのだろうか、そう思い尋ねようとした瞬間、雷蔵はその柔らかな眼差しをさらに細め、とても倖せそうに笑った。

「けど、三郎と一緒にいることができたら、どこでもいいよ。ここでも、上層でも地球でも」

------そう言ってくれた雷蔵を私は置いて、一人で地球に降りた。



***

けれど深く湿った匂いが体を包み込み、私は思い知らされる。あぁ、夢だった、と。一度、醒めてしまった意識は、どれだけ抵抗したとしても、再び、眠りの扉をこじ開けて同じ夢の中に戻ることはできない。もう一度、眠れば、今度は冷たく淋しい夢に取り憑かれるだろう、と私は僅かに明るんでいた瞼をうすらと開いた。着陸後に地球のあちらこちらを彷徨い、最終的に腰を落ち着けたこの場所で、私はいつも通りの朝を迎えた。

(やっぱり、夢か)

電力がないためにまともな光の少ない我が家の暗さは、5年前、自分が生きてきた所と変わらない。人類の繁栄期に培われた技術を駆使して造られたこの家屋も風化に曝されて衰退の一途を辿るのみで、その廃屋さ加減は下層の家々を思い起こさせる。そう、この場所はあまりに似ていた。雷蔵と共に過ごした家に。

(けれど、決定的に違う)

あまりの暑さに昨晩、開け放していた窓から自然と入り込んでくる土の匂い、雨の気配。こればかりは、ここから3万5千メートルの宙、閉鎖された空間では決して感じ取ることのできないものだった。上層では人工的に天気が造られ雨模様の日もあるらしいが、きっと、ここまで再現できないだろう。母なる地球の匂いは。

(雨、か)

ごろり、と硬いマットレスに伏せたままだった己の体を反転させる。元々、暗い部屋は夜闇との対比で僅かに明るさを覚えるだけで、水底に沈んだみたいだった。そぼ降る雨が静けさを濡らしていく。雨の日は、嫌いじゃない。晴耕雨読、ではないけれど、雨の日はあまりできることがなく、ゆっくりと過ごすことができるから。

(だが、今日くらいは晴れて欲しかった)

見上げた空、その先にある宙はきっと晴れているだろう。雷蔵がいる世界は。けれど、ここからは見ることができなかった。たれ込めた重い雲からはらはらと零れてくる雨は、泣くことのできない自分の代わりのようだった。



***

(これが、地球)

降り立った地球は勘右衛門が以前言っていた通り、私たちが教科書で教えられていたものとは違った。かつては、確かに破壊の限りを尽くされ、生態系そのものが絶滅の危機に瀕したのかもしれない。そこから逃げ出すように人間が宙へと飛び立ちどれくらいが経っているのか、公の発表が信じられなくなった今、正確な所は分からない。だが、降り立ってみての感想としては、幾星霜という程に昔じゃないような気がした。情報統制を行った政府によっていかに洗脳されていたのかが分かる。とにかく、私たちが考えているよりも、自然というのはずっとずっとたくましいものなのだろう、私を出迎えた地球は鮮やかな命に溢れかえっていた。

(最初はそう、ただただ、驚きと発見と感動の日々ばかりだったのだ)

雨水に呼応するように色味を増していく植物、互いに連鎖し繋がり合っていく生き物たち、そして、流転し続ける海の青。初めて足を海に浸した時、私は泣いた。ただただ、止めどなく涙が流れ出た。漏れ出る嗚咽にひりひりする喉は、目の前に広がる潮と同じ匂いがしていて、どこか懐かしかったからかもしれない。今、自分がこの母なる海に包まれている奇跡に胸が震えたからかもしれない。実感した。

-----------命は、ここから生まれたのだと。人類の故郷は、この海なのだと。



***

『鉢屋、聞こえる?』

ややノイズに耳がざらつくものの、通信機から思ったよりもはっきりと届いた勘右衛門の第一声に、地球の美しさに浮かれ立っていた私は「こちら地球。よく聞こえる」と子どもみたいに答えた。それが向こうにも伝わったのだろう、苦笑いが聞こえてきた。

「それにしても、ずいぶん、連絡が遅かったな」
『……ちょっと機械の調整に手間取ったのと、あと』

彼の言葉が途切れたのは通信回線の問題じゃないだろう。現に、躊躇うような息づかいだけがやけに耳を穿つ。宛がったヘッドホンの奥に潜む静寂が、痛い。いつまで経っても続きを言おうとしない勘右衛門に「あと?」と促す。だがヤツは無言のままで、苦しげな息づかいだけが3万5千メートルという距離を越えて伝わってくる。-----------俺は悟った。

「もう、そっちに戻れないんだろ」
『……あぁ』
「何となく、そんな気がしてた」

当初は、こっちが着陸した直後に連絡を取る手はずだったのだ。それが、どれだけ待っても通信機が反応する気配がない。最初は故障かと思ったが、点検してもその気はなく、だとしれば考えられる可能性はたった一つだった。私が地球に降り立ったことが露見し勘右衛門たちが捕まってしまった、という。

「お前は、釈放されたのか?」
『まぁ、そうだろうね……』

詰まりそうになる息の音が途切れ、ひゅ、と勘右衛門の喉が鳴った。彼がこれから何を言い出すのか想像がついて、僅かなタイムラグを先回りをする。

『ご』
「謝るなよ」
『鉢屋……』
「お前が気に病むことはない。それなりに私は楽しんでるし」

地球の、全てが綺麗に見えた。今まで知らない光景と出会う度に、地球に降りることができた倖せを噛みしめた。

『……けど』
「ずっと夢だったから。地球に降り立つことは私の夢だったから」

(ただ一つ、心残りがあるとするならば……)

私の心を読んだかのように、勘右衛門がゆっくりと呟いた。

『……あの約束は守るよ。必ず、守る』
「そうしてくれるとありがたい」



***

そうやって不定期ながらも連絡を勘右衛門と取りつつ、私は地球での生活を楽しみつつあった。海の傍に居を構え、その周囲を巡った。拠点に海辺を選んだのは、初めて入水した時の感動に勝るものがなかったからだ。自給自足なんて生易しい言葉では言い表せないほど、生きていくのは大変だったが、それでも海に戻ると「今回も無事に帰って来れた」と感じた。歩くたびにどんどんと世界が広がっていって、目新しいものに心を奪われて夢中になっていて、いつしか、自分の頭上にある宙のことを、そこの世界のことを思い馳せることがなくなっていた。あの日まで。

「何に使う建物だろう、これ」

自然に還っていっているとはいえ、それでも、まったく人工物がないわけじゃない。生命が謳い上げる世界の中で、今にも呑まれ消えそうな過去の遺物が、かつてそこに人が生きていたという証が、所々で残っていた。指で弾けば、そのまま、崩れ落ちそうなほど脆くなっているコンクリートや煉瓦造の建物、赤錆びのほとんどが蔦植物に覆い隠されている鉄筋。もちろん、そんな朽ち果てているものばかりじゃない。自然の変化の一つ一つが緩慢な速度だったために確実に植物に浸食されつつも、かつての原型を留めている家屋を、ぽつり、ぽつりとだが見かけることがあった。

---------その一つが、このドーム状の建物だった。

いつものように通信機などの最小限の荷物を背負い、この地球に降り立った機体から探索の旅に出て、俺は歩き続けた。初めて目にした青に、大いなる海に惹かれ毎日そこに通っていたために、海に近い着地点の周囲はあらかた見尽くしてしまった。それで今回は、内陸部の少し奥まで行ってみようと思ったのだ。ただ、太陽の光が届く昼間はともかく、夜は不安だった。凶暴な動物に出会うこともあるし、地形が見えなくて彷徨う内に迷って元の場所に戻れなくなるかもしれない。

(暗くなるまでに、どこか、野宿できそうな場所を探さないと)

だが、そうして見通しのよい河原などを探してうろうろと歩いているうちに、日はとっぷりと暮れていた。焦る心で必死に目を凝らし、辺りを浚う。と、小さなドームがあることに気がついた。あまり大きくない、けれども特徴的な形状の建物に、最初は何をするためのものなのか、全く見当がつかなかった。お椀のような半球の形をした天井は風雨にさらされ、多少くすんでいるが、どうやら白っぽい色をしているようだった。まるで何かの卵のようだ、と変わった形に胸を躍らせ、未開拓な星に来た探検者きどり(実際、その通りなんだろうが)で中に入った。

「……望遠鏡?」

円形の中心に置かれたそれは、真っすぐなまでに宙に向いていた。初めて目にするそれは、きらりと磨かれた様に黒光りしていて、ついさっきまで使われていたみたいだった。それでも、今までの経験の事を考えると、触れたらそのまま粉砕してしまわないだろうか、と不安になり、そっと、手に取った。けれど、それは想像した以上にずしりとした確かな固さを掌に残した。途端に、安堵の気持ちのまま、望遠鏡を触りまくる。

「今でも使えるのか?」

大きさ的には公的機関のものというよりも個人の趣味で造り付けられたような場所だったが、置かれている望遠鏡は本物のようだった。上へと向けられ傾いていたレンズとは反対の、下にさがっている部分を見遣ると、ガラスがはめ込まれていた部分があって、そこもぴかりと輝いていて、なぜか、埃一つも付いてなかった。本当に、さっきまで、誰かがここにいたのではないか、と思わせるほど、きちんと手入れがなされているようだった。そのガラス口の部分に接眼させればいいのだろうと見当を付け目を近づける。

(あ、)

雷蔵がいる場所が、私のふるさとが、そこに映し出されていた。

(還りたい。けど、もう二度と還れないの、だ……)

初めて感じた。自分のふるさとは、海でもなくこの地球でもなく、雷蔵の元なのだと。初めて後悔した。雷蔵を置いて、一人でこの地球に降り立ったことを。そして、初めて気がついた。-------私の夢は『雷蔵とずっと一緒にいること』であったのだと。


***

その日以来、私は天文台(と勝手に呼ぶことにした)を根城にし、そこで暮らすことにした。あれほど足繁く通っていた海も、いつしか遠のいていた。晴れれば食糧を得るために辺りを巡り、雨が降れば家屋に奇跡的に残されていた天文の本を読みふけって過ごした。そして、毎夜毎夜、望遠鏡を覗き込んだ。-------雷蔵が見えるんじゃないか、って。

(もちろん、見えるはずもないんだけれど)

塵で覆われた下層は中から地球が見えないのと同様、こちらから下層の中の様子が見えることは決してない。上層の方で仕事をしている姿を捉えることができないだろうか、と目を凝らしたこともあったが、はっきりとはしなかった。リング状になっているせいか、おそらく、この場所からきちんと見えるのは下層の底面だけなのだろう。ぼんやりと眺めては、今頃どうしてるのだろう、と思い馳せる日々。けれど、もしかしたら雷蔵が見えるかも知れない、そのチャンスが年に一回だけあった。--------雷蔵が窓ふきで、下層に降りてくる日。

(なのに、雨だからな……)

どれだけ希っても、重い腰を下ろした雲がどくことはなかった。年に一度しかない逢瀬だというのに、今まで、一度だって晴れたことはなかった。毎年、覗き込んだ望遠鏡に映り込むのは、水滴だった。---------涙雨、そんな言葉が思い浮かぶ。

(きっと、罰なのだろう)

雷蔵を置き去りにして地球に降り立った自分への。約束、と行っておきながら守らなかった自分への。



***

『鉢屋』

晴れないだろうか、と祈りつつも、いつしか、うとうとと眠りについていたようだった。突如として耳元でビーコン音が鳴り喚く。慌ててヘッドフォンを付ければ、残響に割れつつも勘右衛門の声が届いた。

(久しぶりだな)

政府に知られないようにするために元々不定期だった通信は、前に話したのはいつだったか、と記憶をさかのぼらなければならないほどに、間隔が開いて途絶えがちになりつつあった。機械の寿命なのかもしれない。砂嵐に巻き込まれたかのようなノイズばかりで、なかなか聞き取れない。それでも、必死に耳を傾ける。

『久しぶりだね。元気にしてた?』
「何?」
『今日、雷蔵を見かけた』

窓ふきをしていた、という呟きに、過ぎる雷蔵の倖せそうな笑顔。

(よかった。雷蔵の倖せを奪うことがなくて)

『で、ちょっとさ聞きたいことがあって、僕の部屋に呼んだんだけど』
「聞きたいこと? ……というか、私のこと、話すなよ」
『分かってたんだけどね、でも、もう遅い』

もう遅いってどういう意味だ、と問い返そうとした瞬間、

『三郎っ!』

はっきりと、その声が届いた。ずっと聞きたかった、雷蔵の声が。

『還っておいでよ』
「……還れない、よ」
『どうして?』

こちらに着陸した機体では浮上は不可能に近い、とか、反逆罪として追われている身だとか色々あったけれど、一番の理由は、雷蔵に合わす顔がないということだった。身勝手に一人で地球に降りておきながら、雷蔵に会いたいだなんて、雷蔵の元に還りたいだなんて、そんなことできるはずもなかった。口にできない思いを抱えて黙っていると『分かった』と声が弾けた。

『じゃぁ、僕が三郎に会いに行くから。だから、待ってて』
「そんなことしたら、雷蔵まで追放されてしまう。もし途中で見つかったら、窓ふきの仕事だってできなくなるかもしれない」

守りたかったのだ。自分と違って誇り高く、倖せそうに窓を拭いている雷蔵の笑顔を。なんとしても守りたかった。5年前も今も。それが、自分にできた、できる唯一のことなのだ。だから、声高に叫んだ私の名を、彼は優しくささやいた。

『三郎、だって、約束しただろ。一緒に地球に降りようって。だから、待ってて。何年かかっても、必ずお前のいる地球に行くから。お前の元に還るから。今度こそ、一緒にいよう』



どうか幸せな夢を見ながら眠って


title by カカリア


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