※土/星/マ/ン/シ/ョ/ン の設定をお借りしています。


欲しいものは何でも手に入るのだ、と、そう笑う父親。そこに卑しさが滲んでいると気付いたのは、いつの頃だったろう。まだ幼い時分だったと思う。けれど、いつしか、慣れていってしまった。何でも手に入る状態に。そうして、その卑しさに、目を瞑った。どうせ、目の前に広がっているのは昏い闇ばかりだ。

(けど、竹谷と出会って、俺は知った)

この世には手に入らないものがある、ということを。頭上に広がる満天の宙が見える代りに、俺は足元の下にあるらしい地球の青を見ることができないのだ、と。高度3万5千メートル、そこからもう数百メートル。ぴかりと磨かれた大理石の床。白い白い檻。そこが、俺の生きる場所、そう信じて生きていた。



***

(あ、そうか、もうそんな時期か)

パソコン上の画面に浮かび上がった窓ふきの案内の文字に、ふ、と天井を見上げた。直接差しこむ太陽のきつい光とそこに含まれる紫外線を避けるために今は天窓はシールドで覆われているが、本当なら、そこにあるのは満天の星空のはずだ。地上から3万5千メートル離れた宇宙、ぐるりと地球を取り囲むようなリング状の建物、その最上階に俺は棲んでいる。それが土星のリングと違うのは、それが人工物だという点だろう。

(窓ふき、か)

普段は隠してることも多くて、あまり気にすることがないけれど、窓一枚を隔てた宇宙は、宇宙ステーションや衛星が流星でぶつかった時などに削がれた金属片など様々なものが超高速で飛び交っていて、そんな塵が窓に降り積もり付着するのだ。一つや二つなら、大したことはないのかもしれない。けれど、塵も積もれば山となる、ということわざ通り、放置しておけば塵が重なり窓にはびこって遮蔽してしまうだろう。そうすれば、シールドで和らいだ自然の光が入らなくなる。そのために、年に一度、勘右衛門を通して、窓ふきの仕事を管理する組合に仕事を依頼するのだけど。

(……元気にしてるだろう、か)

胸の中で、そっと、名を呼ぶ。ハチ、と。大輪の花のように鮮やかな笑顔が瞼裏で最後に咲く。今も、ああやって笑ってるのだろうか。そうであればいい。心から、そう願う。どうか、笑っていますように、と。----------5年前、望んだわけじゃないけれど仕事として窓ふきという職を選んだハチの、最後に会った時の歪んだ表情を遠くに追いやりながら。ハチにそんな顔をさせたのは自分なのだ、という想いを塗りこめながら。ただただ、ハチが笑っているように、と希う。



***

(え、あ、そうか)

緑が満ちる部屋で本を読もうと思ったけれど、何となく薄暗い気がしてブラインドを兼ねた天井のシールドをリモコン一つで外すと、天井に広がる宙にぼんやりと何か白っぽい塊が二つ見えた。一瞬、何だか分からなくて、けれど、その塊の動きに窓ふきを頼んでいたことを思い出す。ぼやけたそれは、きっと、紫外線や飛んでくる星屑から身を守るための防護服だろう。まだ分厚く積っている塵のせいで、こちらからは顔や細部についてはほとんど見えなかった。ということは、向こうも同じなのだろう、とは思いつつも、何となく目が合ったら気まずい気がして少し隠れるようにして部屋の隅にあるソファに座り、置いてあった本を手にした。もう何度も何度も繰り返し読んだそれは、少しだけ擦りきれて表面が毛羽立っている。それを掌で撫でながら、最初の頁をめくった。読みこんで、すっかり覚えてしまった一文。

-----------どうして、我々は、地球から離れることができなかったのだろうか、と。

数年前、一番の友人である勘右衛門に借りて以来、虜になったその本は、とても美しく優しいおとぎ話だった。そのお話は、俺たちと同じこのリング上に生きているある男が地球に降り立つ、というストーリーだった。科学的に物事を考える勘右衛門が非現実的なその話を差しだしたことに驚いたけれど、虚構ゆえの美しさと優しさに俺はすぐさま惹かれた。その本に描かれた扉絵、そこに浮かぶ地球の青。写真や映像でしか見たことがないそれが、俺の足元の、さらにその下--------リングの底辺の下にあるのだ、そう思うと、なんだかとても不思議で、そして奇跡のように思えた。

「あのさ、兵助」
「ん?」
「兵助はさ、地球に降りてみたいと思う?」

まだハチと出会う前の頃、初めて本を借りた時、コンピューターだらけの部屋で勘右衛門は俺にそう問いかけた。あまりにも想像のつかない質問で、そして、返事に困る質問だった。地球に降りたいなんて主張すれば、危険思想扱いされる世の中だ。俺は何て返せばいいのか分からず「まぁ、降りてみたいとは思うけど……でも、そんなの夢物語だろ」と曖昧な返事をして誤魔化したように思う。勘右衛門は、小さく笑って、その扉絵に重ねるようにして綴られた文字と同じ言葉を呟いた。俺に尋ねる、というよりは自問自答をするかのように。

「どうして、俺たちは、地上から3万5千メートルしか離れなかったんだろうね」

それ以来、この本を読むたびに考えるのだけど、答えはいつも出ることはない。ただただ、鮮やかに描かれた男の夢は眩しすぎて、ついつい、目を細めてしまう。もし、これが実話ならば、きっと直視できないだろう。フィクションと分かっていても、その美しさに胸が痛むのだから。白い白い檻に閉じ込められた自分と、物語の世界で自由に生きる男を対比して、どうしようもない虚脱感に襲われるのだから。-------けれど、だからこそ憧れ、読みたくなる。

(あ、そろそろ、今日の分は終わりかな?)

手元に差しこむ光がいつもよりもずっと優しいもだということに気づき、ぱ、っと斜めに顔を上げた。

(え、)

満天の宙の下、そこで笑っているのはハチだった。

(ハチ、だ、……)

探そうと思ったら、探すこともできた。何でも手に入る、と豪語する父親の、家の力を借りようものなら、下層に棲むハチの行方など赤子の手を捻るよりも簡単だっただろう。けれど、そんなことできなかった。できるはずもなかった。-----------いつか、自分の足で地面に立てたなら、その時にハチを探しに行こう、と。

(よかった、笑ってる)

あの日から5年。俺は、家を出て、己の力でもがきながらも、なんとか生きている。まだ、胸を張って自力で立っているとは言えないから、まだ、会うことはできない、そう思って窓ふきの仕事を組合に依頼するのも、勘右衛門の名前を借りていたけど。あの頃よりも少しだけ精悍な顔つきになったハチは、けれども、あの頃と同じ優しい笑顔を浮かべながら窓を磨いていた。その笑顔を見たら、もう、駄目だった。ハチの姿を見ないふりをすることなんて、できなかった。この想いを、ハチへの想いをなかったことにすることなんて、できなかった。できるわけもなかった。

(ハチに、会いたい)



***

--------------そうして、俺たちはまた笑い合った。満天の宙の下で。

***

ハチと再会して一週間。いつものように仕事上がりに部屋に寄ってもらったハチは、どことなく昏い面持ちだった。部屋に上がって緑を眺めている間も、どこか遠くを見つめていて。話しかけても、「あ、」とか「悪ぃ、何だった?」とかあやふやな答えばっかりで。心配になって「どうかした?」と尋ねても、珍しく歯切れの悪い口調で「何でもない」と誤魔化すばかりで。問い詰めようとした俺から逃げ腰だったハチは、後ずさりをして。あ、と、小さく声を漏らした。

「あ、それ、友達から借りてるんだ」
「悪ぃ。にしても、随分、ボロボロっていうか、読みこんでるな」

踏んでしまった本を拾い上げると、彼は大事に表面を撫で払った。差しだされた本を受け取りながら「あぁ、もう、ずっと借りてるからね。それこそ、ハチと出会う前から」と答えると、ハチは「って、5年以上だろ? もう、それ私物になってるだろ」と呆気に取られた様に呟いた。大きく目を開いたままのハチに、そうだ、と思い立って尋ねる。

「どうして、俺たちは、地上から3万5千メートルしか離れなかったんだろうな」
「え?」
「この本の、一番最初に書かれてるんだ。俺たちの技術力からすれば、もっと遠くに行けるはずなのに、俺たちの祖先が選んだのは、地上3万5千メートルで。それは、どうしてなんだろうな、って」

暫く、顎に手を当てていたハチは、「わからねぇ」と声を振り絞るように呟いた。それから「けど」と続ける。

「けど?」
「やっぱり、離れることができなかったんだろうな。大切な存在からは」

それから、俺だって離れることができねぇもんなぁ、と噛みしめるように一言一言をゆっくりと口にしたハチは、それから俺の方を向き直った。ぐ、っと潰れた彼の唇は小さく震えていた。どうしようもなく、哀しい予感がした。手を伸ばしてみるけれど、掴んだ温もりは一人分だけで。

「明日で、終わりなんだ。この部屋の、窓ふきの仕事」

ひゅん、と流星がハチの瞳に映る満天の宙を過った。



***

「勘ちゃん、」

奥で青白い画面がゆらゆらと揺れていた。薄暗く落とされた照明の中、スクリーンセーバーの光だろうか。コンピューターにはあまり強くない俺にとって勘ちゃんの部屋に電気が点いている時に来ると、メタリックな輝きはあまりに眩しくて、未知の世界に来てしまったかのような気がして、ついつい、目を伏せてしまいそうになる。けれど、今は、海の底にいるみたいだ、と思った。

(まぁ、海なんて、知らないけれど)

高度3万5千メートル、地球の周りを巡るリングの上で生きている俺たちは『海』というものを知らない。発展に発展を重ねた技術のおかげで、目前まで迫ってくる3D映像、臨場感あふれる音響、その場を再現したかのような匂いに手触り。そうやって造られた『海』は知っているけれど、本物は見たことがない。きっと、一生、見ることはないのだろう。この広いようで狭い空間の中から出ることは、できないのだから。そう思っていた。

(けど、今は……)

「どうしたの? こんな夜中に」

部屋の中に通そうとして扉を大きく開けようとノブを押し動かした勘ちゃんを、俺は掌で制止させる仕草で押しとどめた。動きの反動で勢い黒い髪が揺れたその下に、怪訝そうな勘ちゃんの面持ちが浮かんでいた。何か言いたそうな彼の口から言葉が発せられる前に、先に紡ぐ。

「うん。これ返しに来た」

ゆらり。水紋のように広がった淡い光が過り、勘ちゃんの顔を泳ぐ青い翳が、揺れた。けれど、とりたて変化のない表情に、驚いたのは俺の方だった。意味が通じなかったんだろうか、ともう一度「お別れを言いに来たんだ。俺、上層を出ようと思う」と詳細に告げた。地球の周りをリング状に取り巻いている建造物、その中のチューブのような空間は縦に上層・中層・下層に分かれている。分かれているのは、何も、構造上だけの話じゃない。建物の階層が、そのまま身分の階層に繋がっているのだ。高貴な身分を棄てでも、俺はハチと一緒に生きていきたかった。離れることなんて、できなかった。

--------------大切な存在からは、離れることができないから。

「……そっか」

勘右衛門は、二呼吸分だけ沈黙を通し、それからそう言って本を受け取った。そっと表紙を撫でながら「随分、遅い帰還だったね」と視線を伏せて本に向けながら呟いた。淡々とした勘右衛門に、長い間借りていた礼や謝罪よりも先に別の言葉が口を突いて出た。

「驚かないのか?」
「そうだね。そんな気がしてた。いつか、兵助が出ていくって」
「そっか」
「うん。あのさ、兵助」
「ん?」
「兵助はさ、地球に降りてみたいと思う?」

あの時と同じ問い。あの時は誤魔化したけれど、今ならちゃんと言えるような気がした。

「地球には憧れるけど、降りてみたいとは思わない」
「何で?」
「地球から3万5千メートルの所に大切な人がいるから。だから行くよ、地球に一番近い所に」

本の扉絵にあった、青い青い星。とても美しくて、そこに、ハチはいない。俺の大切な人は、そこにはいない。だから、降りたいとは思わない。俺をから視線を自身の手元に降ろしていた勘右衛門は「そっか」と零し、それから「もう、答えが出てるなら、これは餞別にはならないね」と小さく笑った。

「兵助」
「ん?」
「きっと倖せになるよ、お前は」



君が瞬く頃


title by カカリア


七夕企画 main top
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -