※土/星/マ/ン/シ/ョ/ン の設定をお借りしています。


地球から3万5千メートル、そこが俺の生きる場所。

足下に透いた世界がだんだんと広がっていく。自分の仕事の成果なんだ、そう思うと何年経ってもこの達成感は気持ちいい。延々と同じ場所を磨いているような、気が遠くなるような作業だからこそ、こうやって成果が上がってくる作業期間の後半には気持ちが上昇する。この手が窓を綺麗にしているのだ、と思うと、道具を扱う手にも力が入っていくのが分かった。少しでも光が入るように、と。砂塵を落としきった窓は厚さのせいで、少々、歪んで見えるけれど、それでもその窓がはまっている部屋の様子は十分に分かった。

(すげぇなぁ……緑でいっぱいだ)

目に映り込む緑が、眩しい。教科書や図鑑でしか知らない、草木や花がその部屋を満たしていた。庭園、という言葉よりも楽園、という言葉が相応しい。俺が磨いた窓から差し込む日差しを浴びて、ガラスの内に閉じこめられた草花は、より鮮やかに色づいていく。---------まるで光を喜んでいるかのように。

「竹谷、ここ」

やわらかな歓びに浸っていると、ヘルメットの中に響いたざらりとした声が俺を現実に引き戻した。インカムから伝わってくる硬質な声音の持ち主は、すぐ背後で俺が磨いた窓の仕上がりをチェックしていた先輩だった。こんなに近くにいるのに会話は機械越しなんてよく考えれば淋しいことなのかもしれないが、仕方ねぇ。ここは宇宙空間なのだから。

「あ、」
「分かるか、傷ができてんの」
「……はい」

紫外線や飛来する宇宙塵から身を守るために着衣した防護服はいわゆる宇宙飛行士が纏う宇宙服に形状は似ている。体よりも数回り大きい服のせいで太くなった指、男が指し示した先を凝らして見れば、僅かな傷があった。細く走る線は、それこそ光に透けなければ分からねぇほどだ。けれど、そう主張されれば、目に付いてしまう。

「また、お前、力任せにこすっただろ」
「すみません」
「別にお前の謝罪が聞きたい訳じゃねぇよ。ただよ、」

つらつらと講釈を垂れだした先輩に、俺は思考の中で耳を塞いだ。どうせ、いつもの説教だ。傷が窓を悪くする、宇宙塵が入り込めば窓が割れる原因にもなるかもしれない、薄くなった部分から紫外線が入りやすくなる、等々。5年もの間、毎日聞いていたら、耳タコだ。たぶん、空で言えるんじゃねぇだろうか。

(あーあ……本当、なんでこんな仕事してんだろうな)

ぶつり、と文句を胸中に吐いても、見つかる答えは虚しいものだと知っている。だから、俺は耳に続いて頭の中で目も塞いだ。現実を見なくてもいいように。下層という檻から俺たちは抜け出すことができないのだ、という現実を。



***

地上から高度3万5千メートルの所、地球の周りをぐるりとチューブのようなものが取り囲んでいる。まるで土星のわっかみたいな見た目をしているそこに、俺たちは暮らしている。----地球は、俺たちの祖父の祖父の祖父の……つまり、すっげぇ昔に、ほとんどの場所で環境が壊滅状態になり、残りは保護地区になってしまい、地球に居場所がなくなってしまった俺たちのご先祖様は宇宙に旅だった、ってわけだ。どうせなら、もっと遠いところを目指せばいいものを、なぜか、地球からそんなに離れていない所にリング状の建造物を造り、そこを新たな住まいにした。

(まぁ、そこまではよしとしよう)

人が住むということは、当然、汚れるということになる。内側の掃除は、まぁ、いい。それまでと変わらず、各々でもしくは協力して家や街の清掃をするのと同じ要領なわけだ。問題は、外。宇宙空間に曝されている窓。溜まった塵は幾重にも層をなし、強固に陽の光が通り抜けることを拒む。そうなれば、俺たちは生きていけなくなってしまう。----------そうならないよう、窓を拭くのが俺たちの仕事だった。



***

帰りに寄ってくれ、と依頼主の伝言が組合の本部からの無線で耳に届いたと時に、正直辟易した。嫌だな、と。またクレームを受けるのか、また先輩に怒られるのか、と。どちらも聞き流せば済む話なんだろうけど(実際、その場では聞いている振りをしていることが多い)、けど、後で思い返しては落ち込むのが目に見えていた。逃げ出したい、という感情は、組合の事務の声でますます高まった。

「あー、なんかな、竹谷だけ来て欲しいって」
「うえっ? 俺だけっすか?」
「そう。お前だけ」
「何で、俺だけ」

俺の叫びを無視してオペレーターは滔々とと依頼主の名前とその人物が住んでいる住所を読み上げだした。あまりの早さに覚えられるわけない、と焦った俺は「ちょ、」とゆっくり言ってもらうように頼み込もうとした。けれど、「後で通信で詳しいことは送っておくから」と簡単にあしらわれる。ぶつ、っと急に断線した通信の次に砂嵐のような音が耳に窪み落ちた。

「ま、頑張れ」

縋り付こうにもすでに相手はおらず、俺は肩を落とした。終始、黙ってオペレーターと俺との会話を聞いていた男の(無線は全員が聞こえるようになっている)ぼそりとした呟きに、絶対そうとは思ってもいないだろうな、と感じ、落胆した心がさらに沈んだ。

***

(すげぇな、やっぱり上層は)

歩を進める路面は大理石の廊下のごとく、ぴかりと磨かれていて、塵一つ無い。町並みは美しく、下層では考えられないほど整然と律されている。人々が生活する住居スペースは、同じ大きさ、同じ色のエントランスがずっと果てまで(それこそ俺の視力の限界まで)続いていた。

「えっと、ここでいいんだよな」

思わず手元にある書き写してきたメモを何度も見返す。結局、通信データで送られてきた住所は長ったらしく、頭の中に入れておくだけじゃ不安になって、俺はアナログな方法で呼び出された住まいの場所を保存することにしたのだ。

(っし、合ってる)

入り口の壁にある金属製のプレートには名字の代わりに位置を示す英数字の組み合わせが刻まれていた。自分で書いた、Oと0の違いがはっきりとしない英数字とにらめっこしつつ、この部屋でいいのだと確信を得る。やたらと細やかな装飾が施された呼び鈴を押したけれど、音は案外普通だった。

(あの部屋の持ち主ってどんなヤツなんだろうな? クレーム好きのババアとかだったら、一時間くらい文句言われそうだよなぁ。あ、でも依頼主の名前からして男っぽいよな。偏屈なじいさんとかだったら、まじ面倒だ。はぁ、)

するりと落ちかけた溜息を吸い上げるようにして胸奥に回収する。俺の身長よりも数倍でかい扉の向こうで、物音を聞いたような気がしたからだ。現金にもしゃん伸びる背筋に上がる顔。準備が整うのと、重々しげにドアが俺の方に開かれたのはほぼ同時だった。そこに立っていたのはじいさんではなくて。

------------兵助、だった。

「な、んで」
「久しぶり、ハチ」

その呼び方で呼ばれるのは、本当に本当に久しぶりだった。困ったように眉を下げながらも、唇は微笑むように円弧を描いていて、瞳に跳躍する水の膜は潤み揺れていた。泣きたいのか笑いたいのか、きっと分からないんだろう。俺だって、分からない。

(だって、もう、5年も会ってなかったから)

***

地球の回りに浮かぶリング状の建造物は、上層・中層・下層と建物内部が大きく三つに区切られており、その階層構造がそのまま身分のピラミッドと一致している。日当たりのよい上層部に住むのは経済的に余裕がある人たちばかりで、逆に光の全く届かない暗い暗い底辺に住むのは俺たち下層の人間。中層には自然光は届くもののそれほど明るくはない。にも関わらず、デパートや病院といった施設が多く軒を連ねていた。教育の機会は均等であるべきだ、というお偉いさんの考えで、中学までは上層部に住む子どもも下層で生きている子どもも、同じ中層部にある学舎で学ぶことになっている。兵助は、その中学の時の友だちだった。

(いや、友だち以上だったんだろうな)

差別などなく友人として、と大人達はきれい事を並べ立てるが、どうしたって上層の奴らは上層の奴ら同士で輪を作るし、俺たちは俺たちでつるんでしまう。あからさまな悪口や意地悪なんかは小学校で終わる代わりに、中学に入れば関係を断絶し、互いに関わらないようにするのが当然だった。

(けれど、兵助は違った)

兵助と親しくなったきっかけも、緑だった。

***

「何、やってるんだ?」

学校からの帰り道、しゃがみ込んでいた俺の頭上から落ちてきた影があまりに長く留まっているものだから振り返れば、まっさらな白シャツが飛び込んできた。仕立ての良さそうなそれに、一目でそいつが俺とは違う上層の人間だと分かって。こっちが「何か用か?」と威嚇しようとしたその時、純粋な声音で疑問が説かれた。

「や、草、見てた」

どうせ馬鹿にされるのだろう、と斜に構えていた俺は、彼の素朴な問いかけに、切れ切れの単語でしか返せなかった。けれど、彼はそのことを気に留めることもなく「草?」と、不思議そうな面持ちで俺を見遣った。彼から足下に生えている緑へと視線を転じる。公園にあるコンクリートに囲まれた花壇、顔をのぞかせている双葉は、黒々とした土を押しのけるようにして懸命に芽吹こうとしていた。

「これさ、本物なんだよな」
「え、あぁ」

彼は言われたことの意味が分からなかったのか、顔を少しだけ傾げた。それから「本物だと思うけど?」と疑問符の付くような口調で応じた。きっと、目の前で首をひねっている彼にとって、どうして俺がそんなことを尋ねたのか分からないだろう。この風景は彼にとって当たり前のものなのだろうから。緑がある、なんて。

(けど、俺らにとっては、)

俺たちが住んでいる最下層は、この建物群の深い深い底辺にあるために、光が一切届かない。あるのは夜みたいな暗い暈に覆われた人工の光。光だけじゃない。自然のものは、全て貴重な存在だった。水も循環させて使い続けているし、建物を保持するために地面は強度のある鉄筋やコンクリばかりで、土なんてものはない。光も水も土もない。あるのは空気ばかり。そんな所で草や木など育つはずもない。

-------そう、どうせお前らには珍しくもなんともないし、どうっていう感想を持つこともないんだろう。

そんな風に穿った目で俺は彼を見ていた。けど、

「綺麗だよな。なんか、懸命に生きてる感じがする」

穏やかに差し込む陽の光みたいに、彼は柔らかに微笑んだ。

***

それがきっかけで、俺は兵助と話すようになって。気がつけばいつも一緒にいた。兵助は俺と違い上層の人間だったけど、そのことを鼻に掛けることもなく俺を蔑んだり哀れんだりすることもなくて、俺たちは対等だった。俺たちの中で上層も下層もなかった。くだらないことで笑ったり喧嘩したり、そうやって毎日が流れていく。一緒にいるのが当たり前で、当たり前すぎて、いずれ別れがくることを、一緒にいられない日がくることを、忘れていた。

「ハチ、来月の卒業式、出ないって」

いつもの帰り道、公園の花壇はふわふわとした土の布団が被されているだけで、緑はどこにもなかった。春支度のために眠っている種子に想いを馳せつつ、ぼんやりと佇んでいると、いつの間にか兵助が背後にいた。あの日と同じように、蔭に光景が僅かに暗くなる。

「あぁ、出ないつもり」
「何で?」
「実を言うと、もう仕事、始めてるんだ」
「仕事って、窓ふきの?」
「あぁ。まだ宇宙に出るのはやってないけど、思ってたよりきつそうだ」

奨学金で学校に行った身だ。一日も早く返済するためには、一日だって早く働き始めるに越したことはない。卒業に向けて授業が減っていった時期から、こっそり、アルバイトという形で一足先に世話になることにしたのだ。

「そっか」
「兵助は家業を継ぐんだってな」
「あ、うん。……本当は高校から大学も行って、微生物の研究をしたかったんだけど、父さんがさ早い内に経営の基礎を教えたいって煩かったから」
「微生物?」
「あぁ。発酵食品とか、おもしろそうだと思って」
「今からだって、まだ、なんとか間に合うんじゃねぇの?」

本当は、自分だって動物と関わる仕事をしたかった。人工光しか当たらない環境だったり紫外線が多すぎるせいで免疫力が極端に低下することがある。それは人間だけではなく、動物にも症状が現れるらしいことが近年の調査で分かってきて。そう知って、いてもたってもいられなくなった。自分の手で調べられたら、って。動物たちを救えたら、って。

(けど、どうせ、夢のまた夢だ)

地球から3万5千メートル、そこが俺の生きる場所。けれど、そういった研究はプラス数百メートルの場所、上層で行われている。とうてい、下層住民である俺が行けるような所じゃねぇ。たかが数百メートル。けれど、その僅かな高さの差が生み出す身分差は、地球からこの場所までの距離よりも大きい。

「無理だよ。父さんいるし」

すい、と反らされた兵助の目に覆う諦めの色に、俺の中で何かが切れた。

「何で、んなこと言うんだよ」
「ハチ?」
「……ずりぃよ、兵助」

ふつりふつりと迸る感情を抑えることができなかった。溢れる想いが叫びに変わる。

「何なんだよ、お前は上層の人間だろ? 望んだら、何だって手にはいるじゃねぇかっ! 無理とか簡単に諦めるなよ。俺と違って、お前はいくらだって選ぶことができるじゃねぇか。俺には進みたくたって最初から道がないのに、どれだけ願ったって上の学校に行けねぇのに、なのに、」

俺が生きている所、地上より3万5千メートル。それよりも、もう数百メートルだけ高いところに兵助は生きている。3万5千メートルに比べたら、数百メートルだなんて大して変わらないのかもしれない。けれど、俺にとっては、すげぇ差だったのだ。

***

上層の人間のくせに、と兵助のことを罵ったのは、その時が最初で最後だった。-------そうして、顔を合わせないまま、俺たちは別れた。もう二度と、会うことはないだろう、そう思っていた。

***

「え、っと、何か窓ふきで気になったところでも」

緑の部屋に通されたために、いつしか過去へと思考が旅立っていたらしい。思い出という過去に拘束された意識がやっと解放されると、痺れるような疲労感だけが実体に残された。沈黙に揺れた彼の眼差しを受け止め続けることができなくて、俺は呼び出しを食らった際に告げている業務上の言葉を投げかけた。けれど、兵助は「いや、窓ふきのことでってわけじゃないんだけど」と呟くように否定した。それから続ける。

「だんだんだんだん宙が透けて見えていくのがおもしろくてさ、ずっと下から見てたら、磨いてるのがハチだったからびっくりして、つい、本部に連絡してしまって……悪かったな、呼び立てて」
「いや……」

それっきり落ちてしまった沈黙に俺は話しかけることができず、かといって、立ち去ることもできなかった。勝手なことを言ってごめん、と謝らなければと思えば思うほど、がんじがらめになってしまう。あの時は、自分が正しい、そう思っていた。兵助には未来が広がっているような気がして、自分には何もないと思っていた。兵助は苦労知らずだ、ってねたんでいた。けど、今なら違うって分かる。兵助は兵助なりに、苦しんで生きていたのだ、と。下層だから、って最初から諦めていた自分から、目を反らしていたことを。

(誰だって、その場で根っこ張って懸命に生きようとしてるんだ、って知ったから)

差し込んだ光が緑に反射して揺れている。眩しくて目を足下に向けると、そこには土を押し上げ伸びようとしている双葉があった。初めて出会ったとき、二人で見た光景と重なる。俺の視線を辿ったのか、兵助が感嘆の声を上げた。

「あ、芽が出てる」
「え?」
「昨日までは、ちっとも出る気配がなかったのに。すごいな。やっぱり、窓を磨いてもらったおかげかな」

双葉の傍にしゃがみ込んだ兵助の隣に、俺も同じようにして腰を下ろした。視線が重なる。兵助が笑った。あの日と変わらずに笑った。陽の光みたいに、柔らかく包み込むように。---------それを見た途端、俺の中で芽吹いた。兵助への想いが。ずっとずっと土の中で眠らせていた想いが。

「ハチが磨いた窓はさ、他の人がしたのと全然違うんだよな。入ってくる光がすごく優しくてさ」



宙で芽吹いた地球の因子


title by カカリア


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