※土/星/マ/ン/シ/ョ/ン の設定をお借りしています。

青い宝石のようだ、そう地球を評したのは誰だったか。たしか、その言葉は教科書で読んだような気がした。もう砂に埋もれて化石となってしまったかのような、遠い遠い過去の偉人が残した名言。その偉人が生きた時代は、宇宙に行けるのはほんの一握りの限られた人だけだった。だが、今はどうだ。真逆だ。僕たちは、地球から高度3万5千メートル、その偉人達が恋に焦がれた宇宙に住んでいる。地球は、僕たちの手の届かない地になってしまっていた。

「三郎、何、見てるの?」
「ん? 地球の写真さ」

体をずらすようにして譲ってくれた彼の手元には、青い青いほしが、静かに佇んでいた。

「綺麗だね」
「あぁ」
「ここからも、見れればいいのに。一番、地球に近い所なのに埃が積もって、全然、見えないんだよなぁ」

ぶつり、と文句を言う僕に三郎は宥めるように笑った。

「まぁ、窓がふかれるのは上層だけだからな」
「いっそのこと、窓ふきにでもなろうかな。それで、下の階層の窓を拭くんだ」

まるで土星の輪っかみたいに地球の周りを巡るリング状の構造物、その一番下の階層で僕たちは生まれ育った。リング状の建物は強化ガラスによって覆われているが、僕たちが住む最下層には、僕たちの先祖がこの宇宙に逃げ出して以来掃除されたことのない窓のせいで、太陽の光が一切、届かない。当然、僕たちの足元にある地球の姿なんて、写真でしか見たことがなかった。じ、っと目を凝らして写真を見つめていると、ふ、と三郎が僕の方に視線を向けているのが分かった。そっちに向き直ると、三郎が笑った。

「いつか地球に降りような」

何てことのない、さも当然、とでもいうような口調だった。けれど、僕はそれが当たりだなんてちっとも思ってなかったから、びっくりしてしまった。そんな僕に構わず、三郎はもう一度言った。「いつか地球に降りような。一緒に」と。

-------なのに、三郎は勝手に地球に降りてしまった。僕を置いて、一人で。



***

「らいぞー」

大気圧の変化に体を慣らすために7時間。僕たちは小さな小さな、カプセルみたいな小部屋に入れられる。減圧室、といって、徐々に部屋の中の気圧を下げていくことで宇宙空間で活動できるようにしていくのだ。その減圧室に入ろうとした僕を、隣の部屋から出てきたよく知った顔が引き止めた。

「あ、ハチ」

ハチとペアを組んでいる男が「先、行くぞ」と彼の後ろを通っていく。は、っと顔をそっちに向け「お疲れさまっした」頭を下げるハチに習って、僕も会釈をした。もちろん、返ってくるはずがないのは分かっていたけれど。案の定、彼は僕なんて最初からいないかのように無視して廊下の向こうに消えていく。ハチが目だけで「ごめん」って謝ってくるのが分かって、僕はかぶり振った。

(今、こうやって仕事ができるだけで十分だから)

「今日は上がり? お疲れさま」
「雷蔵は今からなんだろ? どこの地区なんだ?」
「僕? 僕は今日は下層の仕事なんだ」
「下層の?」

訝しげ、というよりは素っ頓狂な声を上げたハチのまなこが驚きに、ぐりん、と大きく見開いたのが分かった。それだけ彼が驚くのも無理はない。僕たちが生業としている窓ふきには、一見、ガラスに積もった塵をふき取るという単純そうな仕事に見えて、膨大なお金が掛かる。鉄壁に守られたリングシステムの外、宇宙空間で仕事をするのだ。紫外線や飛び交う宇宙の塵から身を守るための宇宙服に近い防護服や減圧室の維持やメンテナンスは目を剥くような金額になる。当然、そこで働く人は命の危険と常に隣り合わせだから、それに対する高額な保障の費用などのことも考えると、一般の人が料金を払うことは相当難しい。つまり、上層つまり富裕層からしか依頼がこない。だからハチがここまで驚くのも無理はないだろう。

「うん。年に一回だけ、この時期の」
「あぁ! ……もう、そんな時期なんだな」

この時期---------三郎がいなくなった時期に。彼がいなくなった、いや、地球に降り立った次の年から、これで4回目。この時期になると、必ず、依頼がくるのだ。下層の、僕たちが住む辺りの窓を拭いて欲しい、という。

(いったい、誰が頼んでいるのだろう)

窓ふきの仕事を管理する組合を通されてきているから、まっとうな仕事であることは確かなんだろうけど。前に、事務のおばちゃんに依頼主の名前を聞いてみたけれど、全然、知らない人だった。ハチとか他の同僚に聞いても、誰も分かる人はいなくて。一時、組合の中では様々な噂が飛び交ったけれど、真相は闇の中だった。今は、ただ、奇特な人だ、という認識で組合の中では一致している。

「じゃぁ、そろそろ、行くね」
「おぉ」

小脇に抱えていた防護服が重たくなってきて、僕はハチに声を掛けた。もう先に行ってしまった同僚を追いかけようと、彼の踵が床を蹴る。きゅ、と。けれど、彼の彼の足裏が完全に離れることはなかった。行きかけたハチの体は綺麗な流線型の軌跡を描いて元の位置に納まる。

「雷蔵」
「ん?」

呼び止めておきながら言葉が続かなかったようで、ハチは困ったように視線をあちらこちらに走らせた。いつまで経っても終わることのない目線の逃走劇に僕の方から「ハチ?」と呼び止める。すると、彼は、今にも泣き出しそうに顔をくしゃりと歪めて呟いた。

「三郎はさ、きっと生きているよ」



***

誰もいない減圧室は、寂寥として見えた。いつもは全く感じることがないのに、やけに部屋が広く見える。暇つぶしに使える雑誌なんかも床に落ちていたけれど、拾い上げて見る気にはなれなかった。狭い2段ベッドの下の段に転がり、ささくれだった木の天井----上の段からしたら床になる部分---を見つめる。

『雷蔵は寝相が悪いからな、下の方がいい』

まるで昨日のことのように、僕のすぐ傍らに三郎がいるみたいに、その声が僕の中に響いた。天井に向かって手を伸ばす。ぐ、っと開いた指と指で掴むことができるものは、ただただ、薄くなっていく空気だけだった。

(-----どうして、ここに三郎がいないんだろう)

答えは分かりすぎるほど分かっていた。三郎が、望んだのだ。ここではないどこかへ、と。



***

5年前、まだ中学を出たばかりの僕は、当たり前のように、窓ふきの仕事を選んだ。あの時、三郎と地球の写真を見た日になろうと決めた気持ちは、一度も揺らぐことがなかった。下層の住民の仕事は限られている。たいていの人は、夢を持つことさえ諦め、選択肢というにはあまりに数少ない職の中から生きていくためにそれを選ばざるをえなかった。そう思えば、僕はなりたい職に就くことができたのだから、幸せというべきなんだろう。

(けど、三郎は違った)

僕と違い、ずっとずっと優秀だった彼は、もっと勉強を続けたかったはずなのだ。高校はもちろん大学にだってその上にだって行って、国の機関で『地球に降り立つため』の技術職として働くのが目標だったのだろう。三郎はあまり公言したがらなかったけれど、隠れたところで誰よりも努力していたのを僕は知っている。けれど、努力じゃどうしようもならないものが世界にはあるのだ。三層に分かれているのは、このリング状の建物が構造上だけじゃない。三郎の前に立ちはだかったのは、下層という身分だった。

「や、雷蔵」
「え?」

中学を卒業した足で向かった先、窓ふきの組合が入っている建物にいたのは三郎だった。

「な、んで? だって、上の学校に」
「あー。まぁ、ダメになった」

理由を問うても詳しいことは何一つ吐き出さなかった。けれど、三郎が下層の住民だから、ということ以外は思い浮かばない。怒りと腹立たしさと悲しみと悔しさと-----色んな感情がごちゃ混ぜになって、泣き出しそうになる。けれど、僕が泣くわけにはいかなかった。だって、一番泣きたいはずの三郎が、泣いてなかったから。

「気にすることないさ。窓ふきは楽しそうだし、何よりここには雷蔵がいるしね」

そう、笑ったから。



***

もともとずっと憧れていて仕事に傾倒していた僕だけでなく要領のいい三郎も、あっという間に仕事を先輩から覚えて、半年も経たないうちに僕たちはペアを組ませてもらえるようになった。前後確認など危険回避のために基本的にはペアで行動するのだが、何よりも相手といかに息を合わせるか、が綺麗に早く安全に窓を拭くコツとも言える。僕たちは、ゴールデンペア、なんて呼ばれていて、三郎と一緒にいられることに僕はかなり浮かれていた。

だから、すっかり忘れていた。時々、一緒に組合の建物から出ても「先帰ってて」と途中で三郎がいなくなったりすることや、家に帰ってきても自室にこもって何やら計算式を綴っていたり図面を引いていたりしていたことを。------本当の、彼の夢のことを。

「明日、窓を拭く場所は、下層らしい」

ごろごろと床にお腹を付けて雑誌を片手に寝そべっていた僕は、驚きのあまり、「えぇっ!?」と海老のように体を反らせてソファで同じく雑誌を読んでいた三郎を見遣った。背筋が引きつったけれど、それどころじゃない。衝撃的な告白に、一瞬、自分の耳を疑った。

「三郎、それ本当? また変な冗談じゃないだろうね」
「本当さ。依頼主とか詳しいことは聞いてないけど、明日は下層に行く」
「やった! 下層なら地球が間近で見れるかもしれないね!」

ぱ、っと目の前に甦るのは、あの時の青。写真じゃなくこの目で見る地球はどんな姿をしているんだろうか。美しい宝石のように煌めく水のほしが見れるのだ、そう思うだけで胸が弾む。けれど、そんな歓喜に浸っている僕に、三郎が「いや、雷蔵は行けないぞ」と水を差した。

「え、何で?」
「だって雷蔵、明日、休みの日だろ」
「あ……え、でも三郎は?」

自分が休みならば、当然ペアである三郎も休みのはずだ。どういうことなのだろう、頭に疑問符が並ぶ。僕の表情を汲み取ったのか、三郎が少しだけ眉を下げた。

「明日のヤツに休みを交代してくれって頼まれてさ、私だけ明日出ることになったんだ」
「えー、そうなんだ。いいなぁ、ずるい。地球が間近で見ることができるじゃないか」

ずっと見たかった地球を三郎だけが見れるなんて、という気持ちは抑えることができなくて。ずるいずるい、と駄々っ子のように僕は文句を零し続けた。三郎は宥めるように僕の頭をぽんぽんと撫でた。それが子ども扱いされているみたいで腹が立ってきて、もう一度「ずるい」という言葉を漏らそうとした瞬間、柔らかな熱が僕の口を塞いだ。

「すまない」

再び離れた彼の唇が紡いだ四文字、その『すまない』の本当の意味を知ったのは、その次の次の夜になってからのことだった。



***

その日、三郎は消えた。

全く帰ってくる気配のない三郎に胸騒ぎを覚え、組合に行けば「今日は三郎は休みの日だろ」と不思議そうな顔をされた。切迫した僕の様子に、組合の人も心配し、総手で三郎の行方を探してくれた。-------そうして見つけたのだ、下層の窓を拭くためのリフト、そこに結ばれたていたロープが切れて宙にはためいていたのを。誰もが思った、三郎はそこから落ちたのだ、と。

(けれど、それも、フェイクだった)

下層の窓を拭く、というのは偽りだったのだ、と聞かされたのは、それから一週間ぐらいあとの事だった。この辺りの正確な記憶はほとんど残っていない。ただ、この下層では見かけることのない、宇宙の果てのような黒いスーツを来た人たちが僕たちの家に来るやいなや、全てを根こそぎ持って行ったことだけは、はっきりと覚えている。三郎との思いでは何もかも、なくなった。あの写真でさえも。彼ら---国の特別治安部隊だと名乗った-----が告げた真実は、あまりに現実離れしていた。

「鉢屋三郎は反政府組織と関わりがあり、地球へと逃亡を図った」

けれど、僕は心のどこかで納得していた。三郎は、地球に降り立ったのだ、と。

三郎は組合から追放された。落ちた、だけだったら、捜索されたのかもしれない。けれど、三郎が関わっていた人物が、一緒に地球に降り立ったらしい人物の存在が、一転させた。彼と親しい人物は皆、政府機関からの取り調べがあった。組合も権力を恐れ、捜索はすぐさま打ち切られた。だから、彼の生死は、未だに分かっていない。けど、僕はこう思うことにしている。----------三郎は、地球に降り立ったのだ、と。

(僕だけを、独り、残して)



***

のし掛る闇の向こうで、減圧が成功し出立を告げるアラーム音が鳴り続けていた。ぐるり、と腕を回してみる。うん、良好。やけに重たいのは体が減圧に慣れている証拠だ、と自分に言い聞かせ、僕は防護服を身に着けた。最初は自分一人でするのにとても手間取ったが、5年も経てば簡単なものだ。いつものように、最上階から下がるためのリフトに向かう。足下に伸びるロボットみたいな影は僕の分だけ、ただ一つ。

-------僕は、あの日以来、誰ともペアを組まずに仕事を続けている。

三郎以外の誰かとペアを組む気にはなれなかった。組合側としても、犯罪者である三郎と一番近しい存在だった僕を扱いかねたのだろう、本来ならばあり得ない僕の要望はすんなりと通った。この宇宙で、僕は誰よりも孤独だった。



(ここからは、フックにロープを固定させて移動か)

闇だけが存在する宇宙空間に出てみれば、風もなくいつもよりも穏やかだった。とはいえ、急につむじ風が巻き起こることもある。油断は禁物だ、そう言い聞かせ、僕は体に固定したフックを押したり引っ張ったりして、強度を念入りに調べた。中層部まではリフトが降下していくものの、最下層の部分までは直通のものはない。フックでリフトにロープを固定し、それを命綱として壁ぞいに降りていくしかなかった。切れてしまえば、それで最後。宇宙の藻くずとなる。そろりそろり、と慎重に足を下へ下へと滑らせていく。壁の方に顔を向け、足場となるフックだけに注意を集中させる。と、不意に、吹き抜けた突風に体が取られ、ぶわり、と体が浮いて反転した。

(あ、)

目の前に、青が迫っていた。三郎のいる、地球の青が。いつか一緒に、と約束した地球の青が。

「っ、三郎」

不意に嗚咽が漏れた。青い地球が滲む。丸はずのそれは、あっという間に、形を亡くした。ここでなら、泣いても許される気がした。誰もいない、自分独りしかいないここでなら。彼の名前を呼んで、泣いてもいいような気がしたのだ。三郎を想い、泣いても。

(ねぇ、三郎、今、君はそこに独りでいるのかい? 青い宝石みたいな地球に)



迷い子のサウンドスケープ


title by カカリア


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