※結婚話。男同士でも結婚できるように法律が変わっている設定です。鉢雷が出張ります。

「なぁ、兵助」

のんびりとリビングのソファに座って雑誌をめくっていると、不意にハチからの言葉が耳を通り抜けた。ちょうど興味のある話題にのめり込んでいる最中で、紙面を目で追ったまま「んー」と生返事を戻す。その後に続く話がないことをいいことに、俺はひたすら文字を辿った。ふ、と、視界の隅にハチの脚が見え「ん?」と疑問に顔を上げたのと、頬を温かい物が掠めたのは同時だった。

「好きだ」
「な、」

口付けられた頬で、か、っと生まれた熱は、あっという間に全身を掛け巡った。指の先まで心臓と化したみたいに、早鐘を打つ拍動が煩い。鏡なんて見なくとも、自分が赤面しているのが分かる。もうすぐ結婚して一年になるというのに、未だに、慣れることができない。事実、俺の反応にハチが「兵助、顔、真っ赤」と、さっき俺の頬に落とした唇を緩めた。

「は、ハチが変なことするからだろ」
「変なこと、って言われると傷つくんですケド」

わざとらしく、よよ、としな垂れかかって落ち込んだふりをするハチを無視する。そうでもしないと、調子に乗るからだ。ふ、とした拍子に、ハチは「好きだ」とか「愛してる」とか囁いてくる。付き合っていた時も、結婚をした後も好意を憚らずに伝えてくる所は変わらなかった。それはそれで、嬉しいのだけれど、

(ちょっと、恥ずかしいっていうか、なんていうか……)

自分も同じだ、っていう気持ちを、俺は未だに上手くハチに伝えれずにいた。



***

「そんなんじゃ、そのうち、浮気されるぞ」
「ちょっと三郎」

久しぶりに遊んだ雷蔵に「最近、どう?」と問われ、「いや、別に特に変わりないよ」と正直なところを答えれば、ストローを銜えた三郎にさっそく茶化された。カフェという場所が場所なだけに大きな声を出すことはなかったけれど、すぐに雷蔵がたしなめるような眼差しを三郎に向けた。以前と変わっていない、そしてこれからも変わらないであろうやり取りに、自然と唇が綻ぶ。それを見咎めた三郎が、ふん、と鼻を鳴らして、ストローを口に銜えたままアイスティのグラスに突っ込み、戻した。がらり、と氷が崩れる。

「何、笑ってるんだよ?」
「いや、二人とも相変わらずだなぁ、と思って」

俺の答えに二人は顔を同時に、見合わせた。鏡みたいな動きだったけれど、表情はちょっと違う。三郎は誇らしげに、雷蔵は少し困ったように。それがまた面白くて、俺はひっそりと笑いを心にしたためた。雷蔵が「まぁ、ね。付き合いが長いからね」と溜息にも似たニュアンスで零すけれど、三郎は構わずに「私たちは倦怠期知らずだぞ」と歌うように言い放った。

「そうなのか?」
「んー、どうなんだろ? ……でも、まぁ、そうなんだろうね」

一度は疑問を呈した雷蔵だったけれど、ちらり、と三郎の方を見遣ると訂正の言葉を重ねた。

「そりゃ、努力しているからな。いつでも、新婚気分さ」
「努力って?」

三郎の口からまさかそんな言葉が出るとは思わず、興味半分で尋ねる。すると三郎は「言ってもいいか?」と言わんばかりに、了解を得ようと雷蔵の顔を覗うように覗き込んだ。雷蔵は視線だけで悟ったのか「言うな、って言ったってどうせ言うんだろ」と溜息をグラスの中の氷に浴びせた。言葉とは裏腹に、少しだけ、雷蔵の目が緩んでいるのは気のせいじゃないだろう。

「そうだな、一緒にいられることを当たり前としないとか」
「一緒にいられることを、当たり前としない?」
「すれ違うぐらいがちょうどいいんだよ。僕たちはね」

学生時代から一緒にいることが当然、というイメージが強かった分、雷蔵の発した言葉はあまりに意外なものだった。よく分からずに「すれ違い?」とそのまま思いを露出させれば、三郎が「仕事が忙しい時は、顔を合わす日が一週間続く、とかもあるからな」と落胆した面持ちで呟いた。そう言われて自分たちのことを考えると、そんなに長い間ハチと会わないことがあったことはなかった。

(一番長くて……出張で二泊三日の時くらい、か?)

どれだけ遅くても絶対に家には帰ってくるし、そうと分かっているから、お互いに起きて待っていることが多い。ハチの隣で目を覚まして、遅刻しそうになりながらも朝ご飯を食べて、「行ってきます」の挨拶は忘れずして、帰ってきたら「ただいま」「おかえり」って言って、夕飯を食べてゲームしたりテレビを見たり、偶には一緒にお風呂に入って。一緒にベッドに入って眠りにつく。---------そうやって、過ごすことが、一緒にいるのが当たり前になっていていた。それは悪いことじゃないんだろうけど、

「なかなか一緒にいることができない、って分かってるからこそ、やっぱり一緒にいられることは嬉しいし、二人の時間を大切にしようって思うし、二人でいられることが本当に倖せだと思うし」

(けど、当たり前になりすぎてて、こうやって感謝したりしてないな……)

柔らかく微笑んだ雷蔵は、ちょっと照れくさかったのか「あ、あと、三郎は一緒にいると四六時中、好きだのなんだのって煩いくらいだから、ね。これくらいが逆に丁度いいのかも」と付け足した。途端に、三郎が「雷蔵、酷い……」と落ち込む。

「だってさ、あんまり言われすぎても、本気なんだか、って思うし」
「私はいつだって本気だぞ」

疑われてるなんて、と言い募りだした三郎を「冗談。冗談。ちゃんと分かってるよ」と雷蔵が宥めているのが、視界の膜にぼんやりと映し出されている。さっきの雷蔵の言葉が、俺の胸を抉って、そこが静かに傷んでいた。そう、そこなのだ。いつだってハチは「好き」だとか「愛してる」とか言ってくれている。そこには嘘や偽りはないと思う。けれど、軽い気持ちで言われてるんじゃないか、って少しだけ不安になるのだ。

(自分は伝えてもいないのに、な)

現金な奴だと思う。自分は言葉で示すことに恥ずかしさを覚えてしまって、なかなか言うことさえできないというのに、そうやってハチの好意を穿った見方で考えてしまうなんて。ハチは、俺のことをどう思ってるのだろうか。せっかくの「好き」という言葉に、何一つ、返せてないような俺のことを。

「兵助?」
「あ、ごめん。考えごとしてた」

誤魔化すように氷が溶けて透いた部分が浮いて見えるアイスコーヒーをそのままストローで吸う。と、うまく混ざってなかったシロップがそのまま咽喉で留めることができずに気管にまで入り込んで、咳き込んでしまった。止めようと思っても、絡みつく甘い粘りに絡みつかれてなかなかおさまらない。前の席にいた雷蔵が「大丈夫?」と心配そうに俺の顔を覗き込んだ。手近にあったお冷を口に含ませ、へばりつくそれをなんとか洗い落とす。

「あぁ、ちょっとむせただけだから」
「そっちもだけど、そうじゃなくってさ。何か、悩み事がありそうな顔、してたから」

僕たちでよければ聞くよ、と優しい言葉に甘えて、俺は胸の内を零した。ハチが「好き」とか「愛してる」とか言ってくれるのは嬉しいけれど、事あるごとに言ってくるものだから、その言葉に実感が伴わないこと。自分も同じようにハチのことを想っているけれど、なかなか素直にその言葉を口にできないこと。-------いつか、そんな自分にハチが愛想を尽かしてしまうのではないか、って思っていることも。

「まぁ、兵助がそういうの苦手なのハチも分かってると思うけどね」

俺の話を聞き終えた雷蔵は俺を励ますようにそう評した。三郎も再び口にしたストローを振り回しながら「だよな」と頷いている。それから「別に、気にすることねぇんじゃないか?」と続けた。それはそうなんだけど、と呟きを濁し、すっかりと氷が溶け切ったコーヒーのグラスに手を伸ばす。びっしりと水滴で埋まったところに指を置けば、つぅ、と崩された珠が一筋の流れとなり、それが集まって堰を切ったように俺の手を濡らした。ストローで分離してしまった水とコーヒーとを混ぜる。ぐるぐると渦巻くそれは、暗澹とした俺の迷いのようだった。

「まぁ、でも、頑張るのもありだと思うけど」

そんな俺の気持ちを見透かしたかのように雷蔵がさっと意見を翻す。

「そうだな。新鮮でいいんじゃねぇの? 結婚しようが何しようが、やっぱり気持ちを伝えるのって大事だしな」
「うん。あ、でも、言葉だけが全てじゃないと思うけどね」
「言葉が全てじゃない?」

うん、と雷蔵は頷いた後「行動とか態度で示すってのもありだと思うよ」と言った。それに応じて「いきなり押し倒してみるとか、な」とあけすけなことを言いだした三郎を雷蔵が「三郎っ」と裏拳で沈める。鈍い音が三郎からした。もんどり打って苦しんでる三郎を無視して、雷蔵が続ける。

「兵助は兵助なりのやり方で伝えればいいと思うよ。素直にさ、自分の想いを」

(俺は、俺なりのやり方で、か)



***

「今日、どうだった?」

ハチお手製のハンバーグに舌を綻ばせていると、ふ、と付け合わせのアスパラを食べていたハチが思い出したように問いかけてきた。ざ、っと、雷蔵と三郎とのやりとりが頭の中を巡って、「え」と言葉を詰まらせてしまった。けれど、ハチはそのことに気づくことなく、箸をジャガイモに伸ばす。

「ほら、今日、雷蔵と三郎と会って来たんだろ」
「あ、あぁ」
「あいつら、相変わらずだった? つうか、変わってるとか、想像つかねぇけどさ」
「あ、うん。三郎が変なこと言って、雷蔵に殴られてた」
「変わんねぇなぁー。変なことって?」

ぽろり、と漏らしたことに、ハチが笑いながら突っ込んできて、はた、と俺の思考は止まった。

(押し倒してみろ、って言われたなんて、口が裂けても言えない)

「や、……忘れた」

口の中に押し込んだハンバーグを噛むふりをして、色々と考えたけれど、うまい逃げ口上が見つからなくて。結局そこに頼ってしまったけれど、特に疑問を持たなかったようでハチは「ふーん」と呟いた。それから、視線を俺から外し、「あっ!」と何やら思い出したように叫んだ。

「どうした?」
「あのさ、俺、急に出張が入ったんだよ。明日からさ」
「え!?」

あまりに突然なことに素っ頓狂な声を上げていた。その拍子にまだ口のなかで噛み潰していた肉が食道へと吸い込まれそうになる。慌てて、ぐ、っと堪えると、俺は驚きのままにハチを見つめた。すると「ごめんな」と彼は片手をを立てて、拝むような仕草を見せた。

「いや、いいけどさ。仕事なら仕方ないし。で、いつまで?」
「それがさ、結構、長くて金曜までなんだよ。しかも、金曜の上がりが遅いからさ、多分、こっちに戻れるのは土曜だと思う」

(一週間近く、も、ハチに会えないんだ)

そんなに、という胸の想いは自然と口から零れ落ち、空気を揺らせていた。

「淋しい?」

そんな俺を見たハチが、意地の悪い笑みを浮かべて尋ねてきた。淋しい、そう言葉にしてしまえばいい。淋しい。淋しい。淋しい。重なっていく想いはそれしかないのに。なのに、俺の舌は「べ、別に淋しくないよ」なんて想いとは正反対のことをべらべらと喋り出していた。止めようと思えば思うほど、勝手に口が回っていく。

「久しぶりに独り暮らしだ、って思えば、結構楽しそうだし、たかだか一週間だし」
「ふーん。俺は淋しいけどなぁ」

すい、と逸らされたハチの眼差しに、胸が軋んだ。ハチを傷つけてしまった、って。けど、どうやっても想いは胸内に居座って、そこから動こうとしない。そこから、じわじわと熟れていく痛みが咽喉を締め付け、訂正の言葉も謝罪も出てこない。-------------------その夜、俺たちは結婚して初めて手を繋がずに寝た。



***

そこからの一週間は、最悪だった。もう土曜日なんか来ないんじゃないか、ってくらいのろのろと進む時間。どれだけ確かめたって、携帯には着信どころかメールの一本も入ってなくて。けれど、こっちから、連絡を取る勇気もなかった。あとひと押しでハチに繋がるのに、と液晶に浮かんだハチの文字が溜息で濡れる。

(ハチ……)

一人では広すぎるベッドで俺は寝返りを打った。空を掴む手の冷たさが、身に堪える。どうしたって、ハチの温もりに触れることはない。一人で過ごす夜が、こんなにも淋しいなんて、知らなかった。一年前までは、一人で寝ることなんて極々普通なことだったのに。淋しさなんて感じたことなかったのに。----------気が付けば、ハチと手を繋いで寝ることが、一緒にいることが当たり前になっていた。

(けど、今、思えばすごく倖せなことだったんだな……)

手を繋がないまま迎えた朝、ハチは何も言わずに仕事に出て行った。いつもはハチの温もりが残っている掌にあるのは虚ばかりで。一人で寝ることができなくて、今日まで俺は雷蔵と三郎、それから勘ちゃんの家を転々とし、そこから仕事場に向かった。三人とも何かを察したのか、根掘り葉掘り聞くこともせず、ただただ温かく俺を迎えてくれた。けど、今夜ばかりは、ハチが明日のいつ戻ってくるか分からないから、と家に戻ったのだった。

(けど、こんなんだったら、勘ちゃんの言葉に甘えればよかったかな)

久しぶりに踏み入れた我が家は、当然「ただいま」って言っても「おかえり」って声が返ってくることもなく。ただただ、しん、とした昏さだけが潜んでいた。俺とハチの家なのに、まるで他人の家に迷い込んでしまったかのような心細さに襲われた。そのまま電気も点けずにベッドに飛び込んだ。微かに残るハチの匂いが俺を包んで、涙が頬を濡らした。

(もしかしたら、明日になってもハチは帰ってこないかもしれない)

彼が言っていた帰宅の期日は明日だ。けれども、ちっとも音沙汰のない事態に、このまま別れることになるんじゃないか、って不安だけがぐるぐると頭の中を巡っている。想いをちゃんと伝えればよかったという後悔に涙して------泣き疲れた俺はいつしか眠りに落ちて行った。

(……ん?)

静まり返った闇に何か物音が響いたような気がして、俺は意識を浮上させた。どれくらい時間が経ったのだろう、と暗がりに指を這わせて携帯を探す。爪が硬いものに触れ、感覚から携帯だと判断した俺はサイドボタンを押そうとした。その瞬間、カタン、とはっきりとした物音が廊下から聞こえた。

(え? 俺、鍵したっけ?)

記憶を辿るけれど、混乱する一方だった。鍵を開けた後、誰もいなかった部屋の空気の冷たさに打ちのめされていたから、その後のことをよく覚えていない。もしかしたら、内側から鍵を閉め忘れたのかもしれない。携帯に伸ばした指先が硬直する。もし泥棒とかだったら、下手に灯りが付けない方がいいだろう。凶悪犯とかだったら命も危ういかもしれない。

(ハチ……)

ぎゅ、と掌を握りしめる。見つかったらどうしよう、と恐怖に心臓がきりきりと痛む。自分の息ですら相手に聞こえてしまうような気がして口を抑えたかったけれど、身じろぎ一つもするわけにはいかなくて。じわじわと手の中に溜まっていく汗。早鐘を打つ鼓動。全身が扉の向こうの気配に集中している。と、確かな足の運びが、この部屋に近づいてきた。

(もしかしたら、このままハチに会えないかもしれない。まだ、何も伝えていないのに)

ぎゅ、っと目だけを瞑り、覚悟を決めたその時、パチリと閉じた瞼の向こうで光が瞬いた。

「ただいま……寝てるか」

聞こえてきたのは、愛しい愛しい人の声で。がばり、と「ハチっ!?」と俺は飛び起きていた。俺の目が捉えたのは、俺の勢いに驚いたハチの姿で。ほっとした感情と愛しさがごちゃまぜになって、溢れかえって、濡れた世界がぼろぼろと崩れ出した。ハチが呆気に取られているのが分かったけれど、涙が止まらない。

(よかった、ハチだった。ハチが帰ってきた)

「へ、兵助?」

戸惑いながらも俺の背中をそっと撫でるハチの手。その優しい温もりに、ますます涙が溢れる。ずっと触れたかった。会いたかった。堰き切った感情は、言葉らしい言葉にならず、ただひたすら、俺は彼の名前を呼び続けた。「ハチ、ハチ、ハチ」と。



***

「落ち着いたか?」
「うん。ごめん、ありがとう」

ソファでハチから手渡された水でひりひりと痛む咽喉を潤わせていると、彼は「まさか泥棒と間違えられるなんてな」と笑った。早とちりした自分が恥ずかしくて「だって……」と言葉尻を萎ませてると、ハチは「あんなに泣くから、何があったのかと思った」と俺の頭をくしゃりと撫でた。じわり、と沁み入ってくるハチの温もり。今なら、素直に言葉にできるような気がした。

「本当に怖かったんだ。もし、殺されたりして二度とハチに会えなくなったらって」
「兵助……」
「怖かったのはそれだけじゃない」

俺はコップを手近なテーブルに置くと俺はそっとハチの手に自分の掌を重ねる。

「この一週間、ずっと考えてた。このままハチが、この家に帰ってこなかったら、って。そう考えたら、死ぬのと同じくらい怖かった。離れてみて、一緒にいることが当たり前になってたことに気付いたんだ。この部屋に住みだした時は一緒にいるだけで倖せを感じていたのに、いつの間にかさ、それが当然に思ってて。一緒にいることがどれだけ倖せなことか、忘れてたみたいだ」

想いだけが溢れてうまく言葉にできない俺の告白を静かに聞いていたハチは、ゆっくりと微笑んだ。重ねた掌の温かさに「あのさ、俺、言葉にするの苦手だし、行動にも露わすことができなくいけど、けどさ、」と続きを口にする。涙に咽喉が塞がって、やっぱりうまく言えない。それでも、ハチは優しい眼差しのまま、ぎゅ、っと俺の手を握ってくれた。あの夜から、ずっと俺を巣食っていた淋しさが溶けてなくなっていく。

「俺、ハチのこと、好きだよ」

そこまで告げると、俺はそっと彼の唇に自分の温もりを重ねた。


ハチと一緒にいる。--------------------------それが、俺の倖せ。



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