※現パロのような、そうじゃないような。とりあえず、日本じゃないです。



寝坊して降り過ごしたらかなわないからな、と冗談に笑う三郎に促されて僕は部屋に戻ってきた。そうなれば本望なのに、と呟く僕の言葉は、もしかしたら聞こえていたのかもしれないけれど、三郎には届かなかった。扉を開けると、ベットの柵に括られた僕の大きなトランクが目に入って、どうしようもなく哀しくなる。

(この中に、僕のこれまでが詰まってるんだ)

僕が生きてきたことを全てが、このトランクに入っている。この旅に向けて荷造りをしていた時にはちっとも想像できなかった。あの時の僕は、ただただ、わくわくした気持ちだけをトランクに目一杯詰め込んで、まだ見ぬ世界に憧れていた。本当の世界に潜む冥い部分など、独りの淋しさなど、想像する由もなかった。三郎には三郎の、僕には僕の荷物がある。

-----------背負うことができるのは、自分だけなんて知らなかった。

三郎はトランクの近く、カーテンで閉ざされた窓に近づいた。ふっくらと窓を覆うベルベットの布を指先だけで除ける。冷たい冷たい夜を貫く流星雨。濡れた闇に部屋の明るさが跳ねて、窓ガラスに三郎の顔が映し出されていた。最初の夜とは逆の光景の輪郭は、その時ほど鮮明ではなかった。三郎が泣きそうな面立ちをしているのは、雨で滲んでいるせいだろうか。それとも……。

「雨、まだ降っているな。降りるときに止んでくれてるといいんだが」

背後にいる僕は距離がありすぎるせいか、辛うじてぼんやりとした翳だけが硬いガラスに映り込んでいるだけだった。旅先での雨が面倒だという考えには同意する思いはあったけれど、けれど、三郎が口にした「降りる」という言葉に心が痺れて何も言えない。彼はカーテンを閉ざすことなく、振り返ると困ったように眉を下げながらも、堅く結ばれていた唇を僅かに罅割れさせ、上げた。微笑もうとしてるのだ、と分かった。

「もう寝るよ。私の方が朝が早いし。電気は、君が寝る時に消してもらえばいいよ」

僕の答えを待たず、彼は黒い小さなトランクを抱えると、ベッドに掛っていた梯子に向かった。両手が塞がらないよう、トランクの取っ手を腕に通し、上に上がるために梯子に足を掛けて。----それから、不意に三郎が振り返った。ちょっとだけ、期待する。もしかしたら、「やっぱり一緒に行こう」って言ってもらえるんじゃないか、って。けれど、

「おやすみ、雷蔵」

さっきと同じ、囁くような微笑みを浮かびあがらせると、三郎は再び僕に背中を向けた。

--------これで、終わり。目を覚まして新しい朝を迎えたなら、もう、僕と三郎が会うことはないのだ。

抗うことも縋ることもできないまま、僕は二段ベッドに吸い込まれる彼の背中を見つめ続けた。



***

(あ、)

それまで断続的に僕の耳を刻んでいた枕木を越える音が、不意に不規則になった。眠ることなど到底できなかったけれど少しでも休ませようと横たわらせていた体に感じる、スピードの変化。だんだんと、ゆっくりになっていく。それは、僕と彼との別れが、終点が近づいてきていることを意味していた。

(あぁ、もう、本当に最後なんだ)

カーテンを開けたままの窓からは差しこむ光の色が蒼から白っぽいものへと変わりつつあった。雨は上がったらしい。もう夜明けなのだろう。時間が早朝過ぎて、車内放送は入らないと昨晩の段階で聞いていたせいか、車両はまったりとしたまどろみに満ちていた。

(このまま、三郎が寝過ごしてしまえばいいのに)

かくなる上は、と最後の手段とばかりに、どこにいるかも分からない神様に祈る。けれど、そんな願いも空しく、車輪の軋む音の間々に、ベッドの底板を挟んだ上から身じろぎの気配がか細く伝わってきた。本当に本当に小さく感じたそれは、きっと、普段の僕だったら全く気付くことがなかっただろう。僕の意識の全てが頭上に注がれていなければ、きっと、物音と認識されることもなかっただろう。それくらい、僅かなものだったのだ。

(三郎……もう、行っちゃうんだ)

やがて、きし、と消え入りそうなほど小さい音に続いて、目の前の梯子がかすかに揺れた。仰向けに寝そべっていた体を直角分だけ反転させ、壁側にお腹を壁側に背中を向ける。視界から梯子を消しただけでは心もとなくて、僕は、ぎゅっと目を瞑った。寝ているように装って、その場をやり過ごすことにする。

(一つ、二つ)

耳が彼が梯子の段を降りる音を自然と捉えて、つい、数えてしまう。布団をかぶってしまえばよかった、と後悔したけれど、今さら布団の中に潜り込むことも耳を塞ぐこともできない。心の中でカウントする数、近くなる彼の気配。背を向けているはずなのに、目を閉じているはずなのに、瞼裏にまざまざと浮かぶ三郎の姿。きっと、手にはあのトランクを抱えて降りて行っているのだろう。

(五つ、六つ……あと、一つ)

とん、と床に着地した音が静けさに響いた。すぐ傍らに三郎がいる。背中が、痛い。三郎が僕の方を見つめているのが分かった。きっと、僕が寝たふりをしていることに気づいているのだろう。けど、僕は目を瞑り、ぎゅ、とベッドカバーを握りしめ、息を殺し続けていた。

(だって、僕にはもうどうすることもできない)

垂れこめる空気の重たさが、苦しい。緊張に堅くなる背中越しに、三郎が話しかけてきた。雷蔵、と。

「私は、ここで降りるよ。あの本、持って行ってもいいかい?」

あの本、というのは、貸したやつのことだろう。僕は、ぐ、と唇をきつくきつく噛みしめた。ぴり、と削れた皮膚から少しだけ血の味がする。答えることが、できなかった。できるはずもなかった。もし、その問いに「諾」と返事をすれば、あのおとぎ話と同じ結末になってしまう。けれど「否」と返した所で、彼がこの列車から降りていくことは決定事項だった。

--------どちらを選んでも、めでたしめでたし、なんて終わりにはならない。『おしまい』なのだ。

沈黙を貫くことで頑なに答えを拒む。かたん、たたん。かた、ん。高架を通り抜ける音の間隔が少しずつ遅くなっていき、それまで体に感じていた疾走感がブレーキのせいで鈍く重たい物になってきた。ずっと走り続けてきた列車がいよいよ止まりかけていたのだ、と知る。もう行かないと、と囁きが届いた。

「雷蔵、君と出会えて本当によかったよ」

愛しさに胸が震える。

「この旅で君に出会えて、本当に倖せだ。君にたくさんのことを教えてもらったよ。誰かと食事を共にする楽しさとか、本の奥深さとか……世界の温かさとか。ありがとう、雷蔵」

徐々に落ちてきたスピードのせいでますます静かになった車内に、三郎の優しい言葉が響いた。気が付けば、僕は遮断していた視界を再び開けていた。切なさに濡れていき、ぼやけていく世界。かたっ、と最後の一つを跳ね飛ばした後、枕木をまたいだ時にする音が収まった。連結部分の金属が暫く軋み、やがて残響も途絶えた。列車が止まった。

「君が『ほんとうのさいわい』を見つけることを祈ってる」

それが私の『ほんとうのさいわい』なんだ、と三郎は静かに笑った。ような気がした。足音。三郎が僕の側から離れた。痛い。苦しい。心は今にも千切れそうだった。けれど、叫ぶこともできない。まるで金縛りに遭ったみたいに体が動かない。このまま別れなのだろうか、『おしまい』なのだろうか。きぃ、と部屋の扉が開いたのが分かった。さよならの合図。遠ざかる気配。外のみずみずしい空気がざっと胸に満ち、潮騒に浸かった感情を一掃させる。

(僕の『ほんとうのさいわい』は、)

「っ、三郎」

そう思った瞬間、布団を蹴散らすように撥ね飛ばし、手を伸ばしていた。扉の向こうへ。三郎へと。-------けど、届かなかった。間に合わなかった声が、閉じられた扉にぶつかって跳ね返ってくる。これで『おしまい』なんだ、と告げられたような気がした。三郎がしてくれた最後のおとぎ話の終わりみたいに。『おしまい』なのだ、と。

(これで『おしまい』なのかな?……けど、僕はまだ三郎にちゃんと伝えていない)

一緒に行こうか、という言葉も三郎の方から言ってくれただけで、僕の口からはまだ告げてなかった。好きだ、という三郎への気持ちも、出会えて倖せだ、という想いも。それから、僕にとっての『ほんとうのさいわい』が何なのかもも。まだ何一つ伝えていない。だから、まだ『おしまい』にするわけにはいかない。

(だって、まだ、何一つ、始まっていない)



***

「三郎っ!」

必死に走って走って走って、やっと見つけた。丸まった細い背中。小さなトランク。列車の乗降口の扉の向こう、朝靄に包まれた三郎は白い光に消えてしまいそうだった。幻に果ててしまいそうだった。慌てて、列車からプラットホームへと飛び降り、名前を呼びながら彼の腕を取る。

「雷蔵っ!?」

見開いた薄茶色の瞳は驚きに満ちていた。しゅんしゅんと蒸気を吐き出し続ける列車と僕を交互に見遣り、それから「雷蔵、早く戻らないと。この駅ではあんまり長く止まらない」と僕を列車の中に戻すように押し返した。けれど、今回ばかりは三郎に言いくるめられるわけにはいかなかった。頑として「戻らない」と伝える。三郎の向こう、淡い光に滲んだ空の下には夢に見たことのある草原が広がっていた。少しずつ温まって目覚めていく世界。凪いだ風が、僕とよく似た色の髪を揺らす。その穏やかな雰囲気とは裏腹に三郎の切迫詰まった叫びが辺りを切り裂く。

「今なら戻れる。さぁ、雷蔵、早く」

僕は視線を切り結び、真っ直ぐな眼差しをむけることで、彼の願いを撥ね除けた。

「いいんだ。僕は三郎といきたい」

行きたい。生きたい。三郎と、いきたい。はっ、とした三郎の閉ざされた唇は何かを綴ろうと懸命に動いた。けれど、音になる前に空気に霞み消えた。僕はもう一度、その言葉を繰り返す。「三郎と共にいきたい」と。三郎は苦しそうに眉を寄せて「雷蔵」と僕の名前を呼んだ。

「……雷蔵。……私は詐欺師だ。嘘をついて、君を騙しているのかもしれないだろ」
「確かに三郎、お前は詐欺師かもしれない。けど、一番嘘を吐くはずの所で嘘をつかなかった」

じ、っと聞き入っている三郎に「それ、どこだか分かる?」と訊ねると、彼は頬に掌を当てて暫く思案し、それから「嫌」と首を降った。柔らかな風が草原をあやすように撫でる。緑の海では陰影が寄せては引いていく。永遠に繰り返す波の如く。

「名前、三郎だ、って最初に教えてくれただろ。普通なら、一番嘘を言って隠すべきな所を。それだけで十分に分かるよ。お前は嘘を付かない詐欺師なんだって。嘘が下手な詐欺師なんだって……だからあり得ない、と思ってるけど、それでも、もし、お前に騙されたとしても、それは本望だ。それでもいい。それでも、僕は三郎、お前と共にいきたいんだ」

三郎は何も言わなかった。視線をさ迷わせたりすることもなく、けれども、目の前にいる僕を見ているわけでもなかった。ただただ思案するあまりに深みへと陥ってしまったかのようだった。だから僕は待った。三郎の方から答えを出してくれるのを、どれだけでも待つつもりだった。けれど、時間はあまりに無情で。沈黙に付した僕たちの頭の上を汽笛が一つ通り過ぎた。出立の合図。

「雷蔵、本当にいいのか?」

ようやく、三郎が口を開いた。その間にも着々と出発に向けて列車の準備がなされていく。資材は完全に運びこまれ、ボイラーが活性化され、新たな胎動が列車に乗っていなくても伝わってくる。彼の懸念することに「うん」と返事をすれば、ますます彼の顔つきが険しくなった。

「今持っている全てを棄てることになるかもしれないんだぞ?」
「構わないよ」
「犯罪者だって追いかけられるかもしれない」
「案外、僕、逃げるの得意なんだ。そうなった時はそうなった時さ」
「……本当に、いいんだな?」
「うん」

蒸気の白煙と共に空気が閉じられる音。振り返れば、列車の扉が閉じていく所だった。心の中で列車に残してきた大きなトランクに別れを告げる。声に出さないが、まだ「本当にいいのか」と彼が目で問いかけてきているような気がして。僕は泣きそうな面持ちをしている三郎に手を伸ばした。今度は、間に合った。そっと彼の背中に腕を回そうとした僕を三郎は抱き寄せると「馬鹿だよ、君は」と呟いた。そんな三郎に僕は「馬鹿でいいよ」と小さく笑う。かたん。背後で、列車が動き出した。

「だって、僕にとっての『ほんとうのさいわい』は、君なんだから」



嘘つきな聖人と正直者のペテン師


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