※結婚話。男同士でも結婚できるように法律が変わっている設定です。


一番記憶に残るのは、味覚だという。視覚でも聴覚でも嗅覚でも触覚でもなく、味覚。どうしてかわからないけれど、なんとなく分る気がする。小さい頃食べて美味しくなかったもののほとんどは、食べれるようになった今もやっぱり美味しいとは思えないし、逆にすごく美味しかったものは、情景に刻まれた色や匂いまでも思い出すことができる。

***

同じような扉がずっと続いているマンションの通路を弾む足取りで通り抜ける。日はずいぶんと長くなったけれど、それでも明るいうちには帰れることは少ない。今日も、コンクリートの足もとに、ぼんやりとした灯りが落ちて黒い影を長く伸ばしていた。壁に面した擦りガラスの窓からは、それぞれの部屋の団欒の声が楽しげに聞こえてくる。俺たちの部屋と間取りが同じならば、そこはキッチンがあるはずで。風に乗って夕餉の匂いが-------カレーだったり魚や肉のやけるそれ-----が届いて、俺のお腹は小さく意思表示の声をあげた。

「お腹すいたな」

結婚してここに住みだした当初は間違えて別の部屋のドアを開けてしまわないかと不安で、いくつ目の扉か数えていたけれど、最近はそんなことしなくても一発で分かるようになった。俺たちの部屋からは、いつも、ハチの楽しそうなハミングが漏れていたから。一応は、鞄に合い鍵を入れているけれど、あまり使うことがない。今日も、ハチの明るい歌声に、俺はそのままドアノブを握った。

「ただいま」

玄関に入ると同時にハチとの約束の言葉を投げる。すぐさま、鼻歌が途切れたキッチンから「おかえり」とハチが顔を出した。自然と緩む頬に、もう一度「ただいま」と告げる。すでに部屋着に着替えていたハチはその上にエプロンを身につけ、フライ返しを片手に「もうちょっとで晩飯ができるから、着替えてこいよ」と笑顔を咲かせた。

「ありがとな」

靴を脱いで上がる俺を確かめて、「おぉ」とハチは再びキッチンスペースに引っ込んだ。ひらり、とエプロンの紐が視界で揺れる。

(あ、)

いつもなら、ハチの言葉に甘えてそのままクローゼットのあるベッドルームに直行する所だったけど、俺はキッチンへと足を踏み入れた。フライパンを片手に何やら調味料を加えようとしているハチのエプロンは、やっぱり、紐が解けている。ついつい零れそうになる笑いをかみ殺していると、調味料がフライパンに落とされたんだろう、威勢のいい音が弾けた。じわりと食欲をそそる肉汁の匂いと甘辛さに混じって嗅覚を刺激する匂いが届く。ごくり、と咽喉が鳴った。再び、ハミングしだしたハチに声を掛ける。

「しょうが焼き?」

俺の登場にハチはびっくりしたのか、肩を揺らして俺の方を見遣った。それから、視線をフライパンへと戻し「おぉ。豚肉が特売だったからな」と手早く菜箸を使って肉をかき混ぜる。部屋を満たしていく香ばしさを堪能していると、ハチが顔を俺に向けた。

「どうした?」
「何が?」
「や、キッチンに寄ってくの珍しいなぁ、と思って。腹減ってるなら、味見する?」

菜箸でフライパンの端っこの方にくっついていた豚肉をつまむと、にっかしと笑顔のまま「あーん」と俺へと差し出した。慌てて「違うって、エプロン」と首を横に振る。俺の指摘にハチは見下ろして「あぁ!」と相槌を打った。俺はぶらぶらと揺れている紐に手を伸ばした。

「ほら、後ろ向いて」
「いや、あーんが先だろ」

エプロンの紐を結んでやろうとした俺の腕を掴みながらハチが笑う。照れくさくって「はぁ?」とそっけない返事をしてしまったけれど、それすらハチには見抜かれているようで。菜箸はあぶないからな、と箸から指へとつまみ直し俺の口元へと運ぶ。

「ちょ、ハチ」
「いいじゃん、誰も見てないし」
「そういう問題じゃない」
「じゃぁ、どういう問題だよ」

ぐっ、っと喉が詰まった。そう言われてしまうと言葉が出てこない。黙り込んだ俺を畳みかけるようにハチが「ほら、早く。肉が焦げちまうからさ」と指を更に俺の方に近付けてきて。俺は観念して、口を少しだけ開けた。

「あ」
「もうちょっと口開けて」
「あ”」
「ほら、あーん」

ふわり、と美味しそうな匂いと共に、俺はぱくりとそれを口にした。こつん、と俺の口内とハチの指が触れたのが分かった。放した瞬間、ちゅ、っとリップ音が漏れる。別に変なことをしているわけでもないのに、どきり、と心臓が跳ねて、恥ずかしさが一気に体を上昇した。奔る熱にきっと耳まで赤くなっていることだろう。思わず視線を伏せると、ハチが小さく笑う気配が届いた。

「へーすけ、顔、真っ赤」
「…うるさい」

ハチにからかわれて、俺は彼のエプロンの紐を結び直すという本来の目的を投げ捨てて、その場から逃げるようにベッドルームへと駆けこんだ。熱くなった頬を両手で抑えながら。


***

「ごめんって」

ほこほこと甘い匂いが漂う食卓には、いつものように溢れんばかりの料理が並んでいた。できたての温かな湯気が上り立つそれらを前に、俺はつんとハチから視線を逸らし続けていた。腹が立っているというよりは恥ずかしくてハチの顔を見れないだけなんだけど、ハチは俺が怒っていると勘違いしているようで、しきりと頭を下げてる。

「あんまりにも兵助が可愛かったからさぁ」

またしても赤面してしまう台詞につい「ハチの馬鹿」と口応えてしまった。怒りに油を差してしまった、とハチは受け取ったのかすぐさま「ごめんって」と上目遣いで謝られる。別に喧嘩したわけじゃないのに、なんだかよそよそしく感じて。あんまり空気が悪くなるのも嫌だから、俺も勇気を振り絞ってハチへと焦点を合わせる。ちらりと見遣るハチに「明日、豆腐サラダな」と告げれば、彼は「味噌汁にも入れるな」とほっとしたように笑った。

「じゃぁ、食べようぜ」
「あぁ」

ぱちん、と掌を合わせて「「いただきます」」と唱和し、お揃いの箸に手を伸ばす。俺たちのいざこざを見守っていたテーブルいっぱいの料理は少し冷めかけていたけれど、それらをお腹に入れると、やっぱりほわりとした温かさが俺の体の中に広がった。---------温かな、倖せが。



***

早食いのハチは自分の分は平らげたようで、でも、テレビがよく見えるソファに移動することもなく、その場で俺が食べ終わるのを待っていた。結婚する前からの、俺とハチとのささやかな約束だった。一緒に食べるときは、最後まで。その約束をしたのはいつのことだったろう。確か付き合い出して暫く経って、なんとなくハチといるのが当たり前になっていた頃のことだった。今でも仕事の都合で食事が別々になってしまうこともあるが、同じ部屋に住んでいなかった時はなかなか食事を共にすることができなくて、久しぶりに一緒にご飯を食べた時のことだった。

「なぁ、ハチ、聞いてる?」
「おー、あ、ちょっと待って、すげぇ面白い所なんだ」

まだまだ話したいことがあったというのに、ハチはといえば一人さっさとテレビの方に引き上げていって。バラエティ番組だろうかブラウン管の向こうから響いてくる楽しそうな笑い声が癪に障る。ハチとテーブルで向かい合って食べていた時は美味しく感じていたはずなのに、同じ唐揚げなはずなのに、噛めば噛むほどゴムみたいなものを食べているような気分に陥る。美味しさどころか味すら感じない。ちらり、と視線をテレビの方に向ければ、大笑いに肩を揺らしているハチの背中が目に入った。

(料理してくれるのは嬉しいけど……話ぐらい聞いてくれたっていいのに)

背中越しの会話はあまりに空しくて、ぼろり、と涙が零れた。こんなんで泣くなんて、と抑えようとすればするほど、どんどん滲んでいく視界。ぐ、っと手の丘を瞼に押し付けたけれど、その隙間から溢れだすものを堪えることができなかった。

「悪ぃ、なんだった……って、兵助?」

振り返ったハチが慌てて飛んできて、俺は泣き顔をハチの胸に埋めた。おろおろと心配するハチに心に秘めていた想いを吐露すれば、ハチは「本当にごめんな」と俺の頭を撫で、それから誓いを立ててくれた。一緒に食べるときは、最後まで、と。



***

そんな事を思い出しながら最後の一口を食べていると、じっと視線が注がれているのに気が付いた。

「ひゃに、ふぁち」

自分では「何、ハチ」と言ったつもりだったが、実際に出た音は、えらく籠ったものだった。食べながらしゃべるなんて、マナー違反だろうけど、むぐり、と口の中に入っているそれを味わうのとハチと話すのとを天秤に掛けた結果だった。「いや、うまそうに食うなぁ、って思って」と俺に笑いかけている眼差しが、どことなく幼子を見遣るような雰囲気で。少し釈然としないけれど、「まぁ、美味いからな」と事実を述べると、ハチが噴き出した。

「何だよ」
「悪ぃ悪ぃ」

ぽんぽん、と頭を撫でられて明らかに子ども扱いをされているのに文句を言おうとした瞬間、「あ、」とハチの明後日な声に防がれた。

「どうしたんだ?」
「デザート、忘れてた」

満たされた感覚に思わず「もう入らないかも」と言おうとしたけど、いそいそと準備しかけるハチの背中に言葉を失って。とりあえず、少しでも消化できないかと考えたけれど、あいにく屋内では手軽に体を動かせる訳でもなくて、じたばたするのを諦めた。おまけに、自然と温まった体に重くなったのは体だけではないようで、いつの間にか瞼というシャッターが下りていたらしい。「へーすけ、」と揺らぐ声に、ふ、っと視界が明るくなった。

「今、寝てただろ。疲れてる?」
「んー疲れてるというか、ほら、お腹一杯になったから」
「なら、いいけど。何事も体が資本だからさ、たくさん食えよ」
「や、もう食べてるって。というかさ、ハチと一緒に生活したら絶対太る」
「は? 何で?」
「や、このテーブル見たら、そう思うし」

二人掛けにしては大きいんじゃないか、と思いつつ、ハチに「これくらいでいいって」と押し切られたダイニングテーブルに埋め尽くされた料理の数々。出されたものは食べなさい、と両親に躾けられた俺は、毎回、平らげるのに苦労していた。贅沢すぎる悩みなのかもしれないけど。

「そうか?」
「そうだよ。毎日パーティみたいだし」
「だってさ、食べ物が食卓に並ぶとさ、なんか倖せな気分になるじゃん」

心から倖せそうなハチの柔らかな笑顔に、ふ、と小説の一説を思い出した。『幸福な記憶は味覚に残りやすい』と。きっとそうだろう。仲直りした後のポトフ、約束した日の唐揚げ、プロポーズの日のパスタ、結婚式のケーキ。それらは、全部、俺の中の記憶に刻み込まれている。それだけじゃない。覚えているのは、特別な日だけじゃない。何気ない毎日の味を、その倖せな記憶が全部、今の俺に繋がってる。だから、俺は一生忘れないだろう。今日という、倖せな一日を。

そうして、これからも、そんな倖せな一日を積み重ねていくのだろう。



いとしきひびをきみと

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