※別れてます。


なかなか家に戻れない仕事だと、配属一ヶ月で実感し、即座に新聞を止めたポストには、それでも、山のように封書や葉書が突っ込まれていた。あまりの量に、ポストから片手で掴んで取り出したそれらを落としそうになり、思わず舌打ちする。

(どうせダイレクトメールの類だろうな。迷惑だよな)

そう思い、けれど、はたと思いなおす。自分たちの会社の営業だって同じだろう、と。こちらはよかれと思って勧めても、相手からすれば傍迷惑、ということだってあるのだ。(罵倒まではいかなくても、ちくりとした事や嫌味の一つや二つ言われることもある)そう思うと、靴底がする減るまで歩きまわっている自分がなんだか空しくなった。

空いていたもう一方の手でアパートの部屋の鍵を開けると、冷たい闇が俺を出迎えた。入ったところで、手探りでスイッチをつけると人工的な光が煌々とフロアに落ちた。まだ春前だというのに蒸れた感触の革靴を蹴散らすように脱ぎ、苛立ちに任せてわざと足音を立てて歩く。ひやりと貼りつく廊下は、埃だらけ、とまではいかないものの、蛍光灯の下でうっすらと白く照らし出されていた。

居間のスペースに入るとそのまま座椅子に雪崩れ込み、その勢いで床に封書や葉書を流すときちりと締め上げたネクタイを少し緩めた。途端に清涼な空気が胸に充満していくような気がして、この道を自分で選んだのに、と身勝手で正直な自分に苦笑を詰まらせる。

どんどんとすり減っていく靴底のように、俺の中で少しずつ少しずつ蝕まれていくのを最近強く感じている。正義感だったり、真面目に正直に生きることだったり。学生の時には、あんなにも表していた喜怒哀楽ですら、面に出すのが億劫になりつつある。それが大人になることなんだろうか、と思う自分がいる。

(……変なこと考えてねぇで、さっさと寝よう)

徹夜続きに重く感じる頭を抱えながら、自分のとるべき行動を整理し順位付けて、まず、床に散らばった封書や葉書をかき集めて、目を通すことにする。



「はぁ」

ダイレクトメール、ダイレクトメール、ダイレクトメール。派手な色づかいからシンプルな文面まで、まぁ、よくもこんなにも考えるものだ、と感心するぐらい色々な種類のそれらを俺はゴミ箱に突っ込んでいった。あまりの量に調べるのすら面倒になって、全てそのままゴミ箱に投げ込んでしまおうか、と迷う。と、かつり、と指先が葉書に引っ掛かった。

(ん?)

潮江文次郎様と機械で書かれた宛名は、頼りなく細い。企業が使うのではなく、家庭用のプリンターで印刷されたものだろう。インクがやや蒼く滲んでいた。指に掛かったのは、往復ハガキのために他の葉書よりも膨れ上がっていたせいだろう。中折りになっていたそれを開けると、本文へと視線が自然と向かった。

同窓会

オレンジやら黄色やら華やかな枠線に囲まれた幹事の明るい近況報告で始まった挨拶。『大学卒業から3年も経ち』と続く同窓会の誘いは、随分と先の日付になっていた。おそらく仕事が忙しくて行けないだろうと葉書をゴミ箱に捨てようとして、つい反射的に見た、腕に巻き付いた呪縛は時を止めていた。

「最近、忙しくて、リューズ使って巻くの忘れてたからな」

誰に聞かせる訳でもなく独りごちて、俺は葉書をゴミ箱に投げ捨て、時計の横の突起をねじろうと指でつまんだ。

(あいつは、仙蔵は……来ないだろうな)

動かない時計は、まるで、今の俺のようだ。前にも後ろにも右にも左にも進むことができない。あの日から、3年前から、ずっと俺の時は止まってる。

***

仙蔵と最後に会ったのは、卒業式の朝だった。

「文次郎」
「んだよ?」
「代表挨拶に選ばれたって言ってなかったか? 遅刻するぞ」
「んなこと、分かってる。つーか、見て分かるだろうが」

慌ててダークスーツに身を包んで飛び出して行こうとしている俺に、のんびりと構えていた仙蔵がからかう様に引き留めた。他の卒業生よりも一時間も早く集合するように言われ、携帯のアラームをいつもより多く鳴らしていたはずなのに。気がつけば、家を出なければいけない時刻はとっくの昔に過ぎていた。

「文次郎」
「だから、何だよ」
「ネクタイが曲がっているぞ」
「んなの、今、気にしてる暇がねぇ。向こうで直す」
「あほ。ちょっと来い」

手招きするままに近づくと、首元にするりと仙蔵の白い指が伸びてきた。適当に括りつけた俺のネクタイを緩めると、手早く結び始めた。見下ろす格好となった仙蔵の頬に、睫毛の影が落ちる。その光景は全く見たことがないものでもないのに、何となく俺は緊張してしまい、天井を見上げていると、

「お前、その時計をしていく気か?」

わざとらしい仙蔵のため息に、思わず俺は見下ろした。俺の手首にはまっているのは、安物のスポーツウォッチだった。色ははげ落ち、革ではないベルトはくたくたになってひび割れている。

(我ながら、これはみっともねぇな。けど、)

「これしか持ってないからな」
「なら、私のを貸してやろう」

思わぬ申し出に、俺は「いいのか?」と驚きを隠せなかった。仙蔵が祖父から受け取ったという、懐古な時計はオートマティックのものだった。いつだったか、腕に付けていれば自然とぜんまいが巻き上がる、と大切そうに話していたのを覚えている。

「あぁ。今日は特別だからな」

仙蔵から手渡された時計を、さっそく腕に巻きつけてみる。珍しく金属製でない、煮込まれた飴のような柔らかな色のベルトが、しっとりと、俺の肌になじむ。時を刻み続ける秒針の僅かな振動が俺の脈動とずれているのにアナログらしさを発見したような気がして、どことなく浮かれた気持ちになった。

「悪いな」
「あんな格好で代表挨拶なんぞしたら、末代までの恥だからな」
「……悪かったな。にしても、お前のベルトの穴に合わせるときついんだけど」
「なら、大きい所で留めればいい」

普段、そこしか使わないのだろう。一か所だけ、ベルトの穴が大きくなって、革は金具が当たるであろう部分が僅かに擦り切れていた。その隣にはめ込んだけれど、仙蔵の所が膨らんでしまっていて、そのせいか、妙な違和感が手首に残った。

「文次郎、本当に遅刻するぞ」
「げっ、もうこんな時間かよ。じゃあ、またな」
「あぁ」

卒業式の会場で、という意味で俺は背中越しに仙蔵に声を掛け、靴を履くのもそこそこに部屋を飛び出した。

***

あの時、仙蔵がどんな顔をしていたのか、俺は知らない。笑っていただろうか、それとも、泣きそうだったのか、俺には分からない。ただ俺が分かるのは、あの時にはすでに仙蔵は決めていたのだろう、ということだけだ。

***

仙蔵が式に出てないと知ったのは謝恩会でのことだった。式の壇上は煌々と俺に向けられたライトの逆光で仙蔵を探すことなど不可能だった。式後はサークルの仲間と共に、後輩に囲まれて花を貰ったりしていて、奴の不在に気づかなかった。

謝恩会でその話を聞いても、面倒なことが嫌いな仙蔵のことだ、どうせサボりだろうと気にも留めず、華やかな袴やまだ見慣れぬスーツに身を包んだ同級生と話すことを選んだ。

蒼い夜だった。確かに夜のはずなのに、昼の青空が闇に透けて見えているような、そんな空。春の、何もかもが包まれてしまって、何もかもが赦されるような、そんな優しい夜だった。俺は研究室のメンバー何軒か飲み屋を梯子して馬鹿みたいに呑んで騒いで笑って、上機嫌のまま鼻歌まじりに仙蔵のアパートのドアを開けた。

もぬけの殻、だった。

一瞬、部屋を間違えたかと思った。そう思うくらい、元から誰もいないかのように綺麗さっぱりと、そこから仙蔵は消えていた。仙蔵の気配が、世界から消えた。-------------ただ一つ、この腕に時計だけを残して。

***

「3年か」

あれから、3年。3年。たった3年だ。俺と仙蔵と離れていたのは。奴と過ごした日々よりも、はるかに短い時間。なのに、仙蔵が遠い。俺のサイズに合わせたベルトの穴は、すっかりと定着していて、あの日覚えた違和感はなくなっていた。毎日毎日、付け外しを繰り返しているせいだろう。革のベルトは金具の部分で擦り切れていて、仙蔵のとは違う所でボロボロになっていた。

仙蔵の痕跡が薄れていく一方で、仙蔵との思い出は鮮明に俺に刻みついている。表情も声も温もりも、全部、手に取るように浮かべることができる。けれど、それは死んだ人を思い出すのに似ていた。流されゆく日々の中で、いつしか過去は、綺麗過ぎて触れちゃいけない聖域のような存在になっていた。

チッチッチッ

空気を震わす微かなそれに、ふ、と思考が打ち破られ、音の正体を探す。過去を偲びながらも、手はぜんまいを巻き上げていたらしい。いつの間にか、秒針が息を吹き返していた。また、時を刻みだしていた。俺の、この掌の中で。

「あぁ、」

その振動に、俺は知った。過去を聖域にしている自分にさようならを告げなければ今を生きていけないと。仙蔵が俺の前に現われても現れなくても、俺は俺の時を進めていかねばならない時が来たのだと。俺はゴミ箱に捨てた葉書を取り出し、出席の○を付けようと、ペンを探すために立ち上がった。



さようなら、いとしいサンクチュアリ


title by 酸性キャンディー

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