「悪いな、田村」

本日何度目かの謝罪に、算盤を爪弾く手を休めることなく答える。

「いえ。ちょうど暇をしてましたから」
「一応、こんな呼び出しをするのは、これで最後だと思うが」

私を気遣ったのだろう、そう告げる先輩の声は申し訳なさそうに沈んでいた。
これで、最後。
口の中で、こっそりと呟いてみるけれど、何の実感も沸かなくて、そっと隣を忍び見る。
私に視線でなぞられていることなど露とも知らない先輩は、いつもと変わらない。
鬼のような形相をして帳簿に向かっている。



***

干上がってしまう池とも、呑み込んでしまうような海とも違っていた。
それは、地中より湧き続ける泉のようだった。
先輩への想いは、いつも静かに私の心からあふれ出ていた。

私はそれを、ずっと隠し通すつもりだった。

なぜなら、決して伝わることのない、叶うことのない想いだから。
私が先輩を見ているように、私には先輩しかいないように、先輩には大切な人がいる。
いつも思う。もし、私があと二年早く生まれてきたら、と。同じ歳であったら、と。

(そうすれば先輩は私のことを見てくれただろうか)

不毛すぎる考えだと分かっていても、ずぶりずぶりと引き込まれる。
けれど、その弱さを、私は赦したいと思った。そうじゃなきゃ、自分が可哀想だ。
なぜなら、その想像の中でも、やっぱり先輩はあの人のことを見つめていたから。

断ち切ろうとして、塞ごうとして、埋めてしまおうとして、何度も何度も足掻いてみたけれど、結局、いつも思い知らされて終わった。

どれほど先輩のことを自分が想っているか、ということを。
そして、この想いをこの手で終わらせることはできないと。
この想いを終わらせることができるのは先輩だけだと。

だから、先輩に伝えれることのできないこの恋は、終わることもないのだろう。

それは、朝焼けに取り残された星の光を見つけた時のような。
それは、真昼の青空に隠された白い月を見つけた時のような。
それは、夜闇に塗り込まれていた残照を見つけた時のような。

どうしてだか泣きたくなるような、哀しく、そして優しい光景だった。

命果てるまで抱えていくであろう感情は、そのまま深い地中へと私の骸と共に葬り去るはずだった。



***

そう、はずだったのだ。



「ご苦労だった、な」

ぱちり、と弾き切った算盤が、活動の終わりを告げた。
帳簿から顔を上げた先輩は、泥沼に潜ったような疲弊した表情を浮かべていた。
夕刻に灯した蝋燭は、その身を削りながら燃え続け、芯がすっかりと短くなっている。

「いえ。計算、大丈夫でしたか」
「あぁ。これで、なんとか学年末の決算には間に合う」

薄闇に溶け出た先輩の柔らかい声は、どことなく安堵のため息に似ていた。
その穏やかさに、気の張っていた背中から力が抜け、肩が落ちる。
そんな私を見た先輩は、小さく笑った。

「あぁ。お前のお陰だな」

わしっ、と私の頭を掴むと、勢いのままにくしゃくしゃと撫で出した。
先輩からする寝不足の高揚感と墨の匂いが私を包み込んだ。
いつも、団蔵達にするようなそれだと分かっていても、心臓が飛び跳ねる。

「先輩、早く安藤先生に出しに行かないと」

首筋から昇ってくる熱と震える胸に耐えかねて、慌ててその手を押し戻す。

「あぁ、そうだった。今から行ってくるから、田村はもう戻れ」
「ありがとうございます。じゃぁ、私はこれで」
「本当に、ありがとうな」

腰を浮かした私を見送るために、先輩も立ち上がり、手前の障子戸を開けた。
するり、と入り込んできた夜風は蒼く春の匂いがした。
出て行こうとした私の名を、先輩が呼んだ。

「田村」
「はい」
「お前がいてくれて、よかった」

振り向いた先にある、先輩のその笑顔が「はず」を呑み込んで、遠い彼方へと追いやってしまった。

「抱いてください」

先輩は目を見張った。まるで信じられないものを見るかのように、私を見つめていた。
ざらりと乾いた影が隈取った目は、瞬き一つなく、凝視していた。
まるで、そうすれば夢になるんじゃないか、ってように。

どうしてこの言葉だったのか、自分でもわからない。
好き、だとか、愛しています、とかそういうのを、すっ飛ばして、直情な言葉だったのが、自分でも笑えてきた。
腹がねじれそうなほど、くつくつと、可笑しさが沸きあがってきた。
けれど、それはずっと隠し通してきた自分にふさわしいような気がして、そう思ったら急に淋しくなった。
ぞっと冷えていく心に、さっきまで沸点まで達していた可笑しさは凍りついてしまった。

「愛なんてなくていいです。好いてなくていいです。抱いてください」

ほんの少しだけ震えた先輩の唇が、躊躇いながらも開きかけて、そして、また閉ざされた。
先輩は、酷く傷ついているようだった。
それは私が言った言葉にではなく、これから自分が言う言葉に傷ついているのだと、分かった。

(ごめんなさい)

先輩を傷つけて。
最後の最後に隠し通せなくて。
先輩に、終わらせるなんて、嫌な役を押し付けて。

いくつもの謝罪が胸を過るけれど、謝る資格なんてないことを私は痛いほど知っている。

「すまん」

蛸ができた固そうな指先は、私の指も背中も唇も頬も耳も素通りした。
たどたどしく私の頭をあやすように撫でる先輩の手は、さっきと同じように、温かった。
誤魔化すことも嘘をつくこともできない、その、ばかばかしいくらい真っ直ぐな温もりが好きだった。

ずっと、好きだった。

「……いいんです、分かっていましたから」

するりと零れた言葉は、強がりでも何でもなく、心からの言葉だった。

「卒業、おめでとうございます」

私の言葉に、先輩の手が、感じていた重みと温かさが、ひっそりと離れた。
たぶん、二度と触れることのない、その温もりを心に刻みつけて。
それから、ゆっくりと、口の端を上げた。

(私が先輩を好きになったことを一度だって後悔してないことが、ちゃんと伝わりますように)

ほんの少しだけ目を瞑って、神様に祈るような気持ちで、そんなことを思った。



title by Ultramarine/∞=


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