入った途端、ベタベタと油の膜を張ったかのような空気に纏わりつかれて、思わず顔を顰めた。毎日入り浸ってた頃は、何とも思わなかったのに、一度離れると、結構、そういう所に意識が向いてしまう。時間が時間なせいか、それとも日付のせいか、人入りも多くなく、俺たちはカウンターじゃなく奥の席に通された。履き潰れかけのスニーカーを足で抑えて脱ぎながら、染みが点々とした畳もどきが張られた板間に上がる。もわりとした空気に、着こんだダウンジャケットをかなぐり捨てると、コートを片手に洒落たブーツの紐に苦戦している三郎が視界の隅に入った。

「お前、相変わらず、面倒な靴履いてんだな」
「うるせぇ。身だしなみだ」

ようやく席に着いた三郎は、座りざまに煤けたアルミの灰皿を引き寄せると、メニューに目をくれることもなく「ラーチャセットとビール」と告げた。その投げやりな態度に既視感を覚えた。いや、既視とは言わないか。半年前まで、よく見た光景だった。まるで、昨日の事のように覚えている自分に苦笑した。違うのは服装だけだ。あの頃は、奇抜な色合いのデザインTシャツだった。「何?」と銜えた煙草の隙間から不機嫌そうな声が漏れた。懐かしさのあまり、不遠慮に視線を這わしていたらしい、慌てて視線をメニューに落とす。

「や、何でもねぇ」
「早く決めろよ。腹減ってんだ」

手書きの二重線や上から似た色の紙が貼られて訂正されたメニューをざっと眺めたけど、前とどう変わったのか分からなくて。結局、ぱっと目に入ったのは、あの頃によく食べてたものばかりだった。「ん、決まった」と告げると、三郎は指先で巻紙を叩いて分厚くなった煙草の灰をパタリと灰皿に落とし、それから呼び鈴を鳴らした。錆びついたような、変な音が狭い店に響き渡るが、返答はなかった。周囲のざわめきにかき消されてるのか、それとも、返事をしてないのか分からねぇけど、それは、前から変わらない事だった。

「ん、水」
「サンキュ」

胡椒やらラー油やら調味料や箸が置かれた一角に積まれたコップに水を汲んで三郎の方に寄こす。埃っぽい気もするが、今更だ。顔も上げない三郎の手元を見ると、店に入ってくる時に持ってきたのだろう、漫画雑誌が広げられてた。何か話さなきゃ、という思いと妙に緊張していて張りつめていた心が一気に萎えて、俺はぼんやりと視線を店内に飛ばした。天井から吊り下げられた棚に収まったテレビでは、周りの喧騒に何を言ってるのか分からねぇけど、体当たり芸人が馬鹿騒ぎしてんだろう。中で映ってる司会らしき芸人が口を大きく開けて笑ってた。クリスマススペシャル、ってあおりのテロップに、改めて今日がそんな日だったと思い出す。

「おまたせしました」

愛想のない店員はお絞りを乱暴に置くと、「ご注文は?」と抑揚のない声で尋ねてきた。「唐揚げと醤油ラーメン。チャーシュー追加で。あと餃子」と言いきって三郎の方を見遣ったけど、奴は視線を漫画雑誌に落としたままで、代わりに「……とラーチャセット。それから、ビール、2つ。以上で」と続ける。機械的に注文を繰り返した店員が俺たちの前から去ると、ようやく三郎は顔を上げた。

「相変わらず、がっつり食うな、お前」
「ふつー、あれくらい食べるだろ」
「胸やけ、起こしそうだ。お前、メタボになるぞ」
「三郎こそ、もうちょい食えよ」

骨と皮で抱き心地が悪い、と口から滑り落ちそうになる言葉を何とか回収する。もごもごとしてしまった俺に怪訝そうな視線を三郎は飛ばした。問われる前に「何でも、ねぇ」と誤魔化すと、それ以上追及する気がねぇのか、「ふーん」と興味なさそうに相槌だけ打ち、また視線を漫画雑誌に戻した。

(三郎と、どんな会話をしてたっけな)

取り残されて、ふ、とそんな疑問が頭を過る。馬鹿みたいに毎日一緒にいたくせに、その実、ちっとも何を話していたのか覚えていない。たぶん、くだらないことしか言ってなかったんだろう。必死に思い出せば思い出そうとするほど、最初と最後の時のことしか、浮かばなくなる。

「お待たせしました、ビールです」

やっぱり同じトーンで店員がジョッキを二つ運んできた。どん、と置かれたせいか、一瞬、泡が縮こまったような感じがした。一つの取っ手に指をくぐらすと三郎は「んじゃ、まぁ、乾杯といこうか」と掲げた。俺も慌てて寄せる。ひやり、と指先に冷気が伝わってきたけど、暖房がガンガンに焚かれた店内には丁度いい。とりあえず同じ高さに持ち上げて「何に?」と問うと、三郎は少し唇を歪めた。

「再会を祝って、でいいんじゃないか」
「そうだな」

再会に、とグラスを突き合わせる。カチンと甲高い音が俺達の間で鳴った。

***

俺と三郎は、半年前まで付き合っていた。元々は大学の友人で、なんとなく、馬が合ってよく遊びに行った。俺がガチだということは、別段、隠しだてをするつもりは無かったけど、三郎に直接言った事はなかった。あの当時は、三郎にカノジョがいたせいかもしれねぇし、俺にも付き合っていた人物がいたからかもしれない。もしかしたら、三郎は感づいていたのかもしれねぇけど、ヤツの方からそれを口にすることはなかった。卒業後は慣れない仕事が忙しく、一時期、疎遠になっていた。本当なら、それで終わるはずだったのだ。青春を謳歌した仲の良い友人として、記憶という聖域に美しく残されるべきだったのだ。標本にされた蝶みたいに、一生。けど、たった一夜のことが、全てを塗り替えてしまった。


「三郎だろ?」
「お、久しぶりだな」


出会った瞬間、悟ってしまった。俺とこいつの道が重なったのを。別に俺は運命論者でもねぇし、占いなんて朝のテレビ番組でなんとなく見るだけだ。けど、俺は俺の直観を信じていた。------三郎と、俺は寝るだろう、と。その予感通り、その夜、俺は三郎と体を繋げた。どちらが先にけしかけたんだったか覚えてねぇくらい、べろんべろんに酔っ払っていたが、合意の上だった。玄関に入るなり、吸い取られそうな酸素を必死に取り戻すかのように奴を引き寄せて口づけをし、俺たちはそのままその場に雪崩れ込んで、灼かれそうな夜に蕩けた。

***

「お前、全然、飲んでないな」
「え?」

急に三郎が顔を上げたもんだから、奴の手元にはすでに空になったジョッキ。飲み口に合わせた泡の輪が、つぅ、と底に垂れさがっていくところだった。まさかお前と寝た時のこと思い出してた、なんて言えず、「ちょっと控えてんだ」と誤魔化すと「やっぱりメタボか」と三郎は皓い八重歯を見せて笑った。

「ちげぇし」
「や、絶対、そうだろ」
「勝手にしろ」

むくれる俺を見て三郎はケタケタと笑った。ビール一杯で酔っ払う奴だったか、とそのテンションの高さに変に思ってる俺の頭を「餃子になります」って店員が遮った。すかさず三郎が「あ、ビール、もう一つ」と追加注文する。止めるのも面倒でそのまま店員が下がっていくのを見送り、俺は調味料なんかとまとめて置いてあった小皿にタレを入れた。それからラー油を一たらし。歯噛みして二つに分けた割り箸で、軽く混ぜる。透いた赤さが、食欲をそそる。まだ湯気の上る餃子を箸で掴もうとして、ひょい、と目の前でかっさらわれた。

「おま、それ、俺の」
「だから、メタボなんだろ。手伝ってやるって」

三郎はタレに付けると俺の制止も聞かずに、ぱくり、と口の中に餃子を放り込んだ。「うま、ハチも食えよ」って、それ、俺のなんだけど。こっちの気もしらず、餃子とビールと交互に食していく三郎の表情は楽しそうで。相変わらず自分勝手な三郎に腹が立つのが半分、あとの半分は----------。

「唐揚げと醤油ラーメン、ラーチャセットです。あと生ビール」

タイミングがいいのか悪いのか、よく分からないが、絶妙とだけ言っておこう。注文した品が一気に運ばれてきた。ビールが呼ばれた時だけ主張するように手を上げた三郎に、店員はさっと彼の前に新たなジョッキを置いた。醤油ラーメンとセットで迷う様子に「あ、俺、ラーメンだけ」と示す。唐揚げは当然、って感じでテーブルの真ん中にされた。

「いただきます」

変に律義な所があると思う。さっきは勝手に俺の餃子をつまんだくせに、三郎はレンゲを両の手で挟み、きちんと頭を下げた。三郎の行動に、変わってないことが多すぎて、戸惑う。周りが代わりすぎているだけに。年季の入った茶色がこびりいた壁には、夏前からあるビールのポスター。正反対の季節をした水着姿のキャンギャルには、ちっともそそられねぇ。前に見たのは貼られたばかりの頃で、太陽光に照らされたむちむちとした足は眩い感じがしたが、今となってはすっかり色褪せて、不健康そうな青白さへと退化していた。時間は経ってるのに、目の前にいるのは、あの頃の三郎じゃねぇのに。

「ハチ、食わねぇの? もらうけど」

俺の返事も待たずに、タレに浸かって染まった箸が唐揚げに伸びる。そうだった。三郎は細いくせに、外に出ると、結構、食うんだった。家では何食飯を抜いても平気なくせに、外に出ると見栄なのかそこで命を繋いでんのか、胃に詰め込んでく。---------あまりに変わらなすぎて、俺は泣きそうになった。何となく窓ガラスから見える外がぼんやりと霞んで見えるのは、タバコの脂かそれとも油を使う厨房と繋がっているせいか、それとも店が温かいせいか。とにかく、そのどれかのせいにしておこうと思った。馬鹿みたいに目頭が熱いのも、きっと、ビールを呑んだせいだ。断じて、三郎のせいじゃねぇ。

「ぜってぇ、違う」
「あ”?」
「何でもねぇ」

恨みつらみをぶつけるかのように俺は唐揚げを割りばしでぶっさすと、口の中に突っ込んだ。親の敵みたいな勢いで、ゴムみたいなぐにぐにした塊を噛みしめる。この店で一番美味いってそれは、てんで、ちっとも、さっぱり、味が分からなかった。

(ホント、いつまで、引きずってんだ)

***

「なぁ、ハチ、今からどうすんだ?」

一人ばかすかビールを呑んだ三郎は上気に頬を染めて、寒さもものともせず、ステップを踏んでいた。ピリピリと裂けそうな耳の痛みに、ダウンジャケットの襟ぐり、ぎりぎりまで顔を埋める。三郎はふわふわとしながら、歌を歌うかのような口調でそう尋ねてきた。もう遅い時間だってのに周りは随分と賑やかで、何でだって頭を働かして、ふ、と思い出す。今日がイブだってことに。

「つーか、三郎、カノジョは? いいのかよ、こんな日に俺なんかと会ってて」

有り余る体力をそこにつぎ込む学生でもねぇのに、それこそ、この夏の記憶は三郎と寝てばっかだった。初めと終わりと、間も。ガムを食べたみたいな甘ったるい汗の匂いに塗れた日々は、唐突に終わりを告げた。夏の終わりだった。「カノジョができた」っていう三郎の一言で。

「あー、あいつとは別れた。お前は、いねぇの? 新しい奴」
「つーか、その話題、お前が振るか?」

お前が俺をふったんだろうが、って意味を込めて軽く睨むけど、三郎は相変わらず、ケタケタと呑んだくれの笑いを俺に見せて。それから「あ、」と随分、間抜けな声を出した。緩む三郎の目尻に視線の先を追う。

「ん?」
「雪」
「おぉ、すげ」
「ホワイトクリスマスだな」

ずん、と重たそうな色をした雲が空一面に広がっていて、普段はある凍てついた闇とは違って、夜がやけに近くまで迫って見えた。そこから、ふわふわと、舞い降りてくる白。たゆたうそれは、まるで、さっきの三郎みたいにどこか楽しそうで。

「なぁ、ハチ、今から俺の家、来ねぇ?」

不意打ち過ぎて、俺は呆然と三郎を見つめていた。穴があくほどの俺の視線をものともせず、三郎はもう一度、「俺の家」と端的に告げた。ひとひらの雪が、彼の髪に落ち着く。息をする間もなく、す、っと溶け消えて、残された水滴がきらきらと輝いた。

「……三郎、酔ってんだろ」
「おぉ、盛大に酔ってるさ。だから、誘ってる」
「そんな事言われたら、間違い、期待しちまうんだけど」

冗談だと思った。冗談に、してしまいたかった。

「間違い、期待してんだけど」
「さぶ、ろ」
「やっぱ、俺、お前じゃねぇと駄目だ」

俺は三郎を手繰り寄せ、力の限り抱きしめた。この雪みたいに溶けない様に、もう離さないように。



空飛ぶアイスフラワー


title by カカリア

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