※結婚話。男同士でも結婚できるように法律が変わっている設定です。


磨りガラスの窓から入り込んで来る光は、ぼんやりと薄暗かった。今日は外に出てないけど、きっと、荒野のような色のない空が広がっているんだろう。そういえば昨日見たニュースで「今週末はこの冬一番の寒さになるでしょう」とアナウンサーが言っていたことを思い出す。見ているだけで寒々とした色合いに、俺はビーズクッションを抱えたままストーブにもう一歩近づいた。

「兵助、近づきすぎ」

吹き出し口から排出される熱風を占領した俺を見て、ソファに座っていたハチが苦笑いを浮かべた。それから、たしなめるように「火事とか火傷とかになるぞ」と続ける。「だって、寒いし」と。前は一人暮らしだったから部屋も狭くて、暖房器具を付ければすぐに温まったけど、今は違う。ストーブはハチのアパートから持ってきたものだったけど、やっぱり6畳用じゃ火力が足りないのだろう。

「んじゃ、俺が温めてやろうか」
「えんりょしときます」

冷たく返すとハチが「えー、」と叫び、ショックだー、とわざと崩れ落ちるふりをした。それがあまりに面白くて「くっ付くだけじゃ、終わんないだろ」と追い打ちを掛けると、「まぁ、そうだけどさぁ」と、ぶつくさ言いながらも認めた。それから、ふ、と真顔になって「じゃぁ、何か温けぇ飲み物淹れよっか」と立ち上がった。キッチンの扉に吸い込まれていく背中に「サンキュ」と投げかける。部屋からハチの気配が消えた途端、コンポから流しっぱなしだった音楽の音が、大きくなったような気がした。空気にあまりに自然と溶け込んで馴染んでいてちっとも気付かなかったけど、メロディラインを辿るに、三周目のようだった。

***

「兵助、ココアでいいだろ?」

ぴったりと嵌り込むクッションに体を埋めながら柔らかい調べに耳を傾けていると、頭上から、確認というよりも念を押すような声音が降ってきた。顔を上げれば、おそろいのマグカップを両の手に握りしめ、ハチが立っていた。片方のマグは淹れたてなのか、盛んに湯気が棚引いている。俺はクッションを床に置いてもたれかかり、ハチから湯気の少ない方のカップを受け取った。

「ありがとな」
「おー」

落差の衝動で、たぷん、と水面が揺れ、ふわりと優しい匂いが上った。陶器越しに伝わってくる温もりが、冷えた指先を解いていく。クッションを挟んでハチが隣に肩を並べた。彼のマグには深みのある黒が並々と注がれていて、そこからはまだ冷めやらぬ湯気の白と共に酸味のある匂いが揺れていた。特に冷ますこともせずに、そのまま口に付けると、とろりとした、けれども控えめな甘さが体に満ちていく。幸せな、時間。

「あ、そうだ、年賀状、買ってきた」
「悪ぃな」

何となく、ぐるりと見まわした視界の隅に放り出したカバンを認め、すっかり忘れていた存在を思い出した。俺はカップをテーブルの真ん中に寄せ、鞄からシャカシャカとした袋に入ったままの真新しい年賀状を差し出した。ついでに、本屋で売っていた年賀状ソフト付きの雑誌も。仕事関係のは俺は会社で一括して出すけれど、ハチの方はそうもいかないらしい。「こんなもんかな」と葉書の山を切り崩し、ハチが仕事関係に出す分を取り分ければ、後に残されたのは友人に個人で出す分だった。

「デザイン、考えないとな。兵助、どんなのがいい?」

例年通り、雑誌から干支と祝詞のみの簡素な図面の選ぼうと勝手に頭の中で段取りを進めていた俺は、ハチの言葉に、一瞬戸惑った。え、と顔を上げた俺に「だから、年賀状の絵」とハチが言葉を重ね、雑誌をめくった。目が痛くなるようなカラフルな図柄の所でハチは指を止める。

(あ、そうか)

「俺はこういうの好きだけど、兵助はシンプルなのがいいんだろ」

右の指をその頁に挟んで栞代わりにし、左手で雑誌を繰ってフォーマルと括られた頁を開けた。俺好みの、というか、俺がハチにいつも出しているような、リアルな干支に達筆な謹賀の文字。さすが、毎年欠かさずに受け取っているだけあって、よく分かってる。

(けど、今年からは違うんだな。二人連名で出すんだ。竹谷 兵助、なんだ)

心の中で改めて「たけやへいすけ」と呟いてみるけど、公の場では旧姓を使ってることもあり、なんだか落ち着かない。それに、今年はもう出す必要がないのだ。今年、一年、よろしくお願いします、と、ハチに。毎年毎年、印刷したものだけだと味気がない気がして、親しい友人たちには手書きのメッセージを添えていた。日頃、面と向かっては言えない言葉も、なぜか素直に書くことができた。もちろん、ハチには、特別な言葉を。今年からそれが必要じゃなくなるのは、くすぐったいような、それでいて、淋しいような、不思議な感覚だった。

「兵助? どうした?」
「ん、なんでもない。デザインはハチに任せた」

黙りこくっていた俺に、まだ訝しげな表情を見せていたけど、不意に指をパチンと鳴らした。

「なら、式の写真、使うか?」
「え?」
「結婚式の。よくあるだろ、年賀状にさ」

最近は個人の年賀状をもらうことも減ったが(だいたい、あけおめメールだ)、それでも、小学校や中学といった古くからの友人からは律儀に年賀状を寄こすことが、多い。この年齢ともなれば、たまに混じってるのが結婚報告を兼ねたもので、確かによくあることはあるけど、さすがに、ちょっと恥ずかしい。「えー、」と否定的な色を交えて反応したら、ハチはちょっと、むっとしたよう、眉を顰めた。

「何で? 一生に一度だろ?」
「や、だってさ……」

口ごもってしまった俺にハチは「いいけどさ」とそっぽを向いてしまった。



***

「それで、喧嘩?」

雷蔵の言葉に俺が頷くのを見て、三郎が「つーか、ノロケに来ただけだろ」と呆れたようにため息を吐いた。すぐさま雷蔵が「もぉ、三郎」と目だけで黙らせるように取り成す。それから俺の方に向き直った。

「ハチの気持ちも分からなくはないけど、何もあんなに怒ることないと思う」
「ハチは頑固だしね」
「私からしたら、どっちも、どっちだけどな」

混ぜっ返した三郎に雷蔵が「三郎っ!」と咎めると、彼は「悪かったな」と心にもなく悪びれた感じで頭を下げ、キッチンへと引っ込んだ。そんな三郎の様子に雷蔵が「ごめんね」と代わりに謝るのを見て、慌てて「雷蔵が謝ることないって」と告げる。ほ、っと口元をほころばせた雷蔵は、「でもさ、」と話題を切り換えた。

「なんで、そんな嫌なのさ、年賀状に写真を使うの」
「嫌、っていうわけじゃないんだけど、恥ずかしいというか」

元々、写真が好きじゃないのだ。何というか、カメラを前にすると妙に緊張してしまって、頬のあたりの筋肉が強張ってしまう。もちろん、普段だって写真を撮ってもらうことはあるから、その時は何も言わないけど、あまり見返さないようにしていた。自然に笑えてない気がして。

「それさ、ハチに言ったの?」
「それって?」
「写真が苦手だから、嫌だって」
「いや、言ってない。なんか、話掛けれる雰囲気じゃなかったし」

あの後、何を言っても無言を貫き通されて、ただただ、苛立ちのオーラだけを放つハチに耐えかねて、いてもたってもいられなくて。気がつけば、アパートを飛び出して、三郎と雷蔵の住む所まで来ていた。突然、尋ねてきた俺を雷蔵は快く、三郎は文句を言いながらも中に招き入れてくれて、話を聞いてくれた。

「それさ、勘違いされない?」
「勘違い?」

雷蔵の言いたい事が分からずに聞き返すと、彼は困ったような、あやふやな表情で何て言ったらいいのか迷っているようだった。えっとえっと、とその言葉を繰り返す雷蔵を割って入るかのように、「つまりだな」と仰々しい声が上から響いた。「三郎」と、ほっとした面持ちで雷蔵が顔を上げると、「雷蔵、熱いから気を付けて」と柔らかに微笑みながら三郎はマグを預ける。ぼんやりとその光景を見ていると、俺の方に向き直った三郎に、「兵助もココアでいいだろ」とマグを押しつけられた。カップから上り立つ甘ったるい匂いに、胸やけしているわけでもないのに、なんか苦しい。さっき淹れてくれたハチのココアを思い出すからだろうか。

「つまりって?」
「男同士で結婚したのを知られたくないから、嫌なんじゃないか、ってか思われたって事」

思わぬ事にすぐさま「そんな事、思ってない」と叫ぶと、「お前はそうかもしれねぇけどさ、可能性の話」と冷静に三郎が返してきた。傍らの雷蔵はマグカップを握りしめたまま、目を伏せている。同性同士の結婚が法律的に認められたものの、まだまだ、世間の目は厳しいものがある。俺らは、友人も家族も理解を示してくれたけれど、根強い反対や偏見に遭って隠し通しているカップルも多いのは事実だった。

「そりゃ、最初は、負い目もあったけど」

周りが温かく受け入れてくれた分だけ、不安になった。俺がハチを倖せにできるんだろうか、って。人並みの倖せをハチに与えることができない、俺はハチの当たり前の倖せを奪ってるんじゃないかって。その気持ちをハチにぶつけた事もあった。

「けど、今は、全然、思ってないのに」

傍にいることができるだけで、それだけで倖せなのだ、と。そう、教えてくれたのは、ハチだった。ハチの存在が俺を靭くした。もう迷わない、不安にならない。ハチがいたから俺は靭くなれたのに---------------それが、伝わってなかったのか、そう思うと、ぽかり、と心に穴が開いたようだった。どうしようもなく、苦しくて空しくて。死の淵に滑る込むような、暗澹とした淋しさが俺を包み込んだ。

「あのな、兵助。結構、伝わらないものだぞ」
「え?」
「自分が思ってること、ちゃんと口にしないと」
「そうだね。結局は、他人だもの。どうしたって、相手の事、100パーセントは分からないし。長い間の付き合いになればなるほど、お互いに察したり汲み取るようになるけど。何を考えて、何を思ってるのか。でも、本当の事は、口にしないとさ、ちゃんと相手に伝わらないと思う」

三郎や雷蔵の言いたいことは痛いほど分かって。痛いほど分かりすぎて、でも、どうしようもできなくて。俺は、穿つような胸の疼きを誤魔化すようにマグカップに口を付けた。

「熱っ」

思わず舌を出して、引っ込めた。感じた瞬間には、もう、遅かった。軽い火傷と頭では思っていても、対処ができず、一瞬、動きが止まった。ピリピリとした痛みが疾走し、ようやく戻ってきた感覚に、口内の熱さがぶり返す。「大丈夫? 兵助」と雷蔵が慌てふためき、「悪ぃ、お前、猫舌だったっけ」と三郎が謝って来た。何度も尋ねてくる雷蔵に微笑みをなんとか浮かべる。

「や、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」

久しぶりに、火傷したような気がした。いつも何にも考えずにハチが出してくれたココアを飲んでいた。けど、よく考えれば、一度もハチのココアで火傷したことがない。いつだって、俺がちゃんと飲めるくらい温くて、味だって甘すぎずに飲みやすくて。当たり前だと思ってたけど、けど、全然、当たり前じゃなかった。

(----------こんなにも、ハチは俺の事を汲みとってくれていたんだ)



***

いざ、アパートの前の扉に立つと、さっきまでの勢いが一気に萎んだ。走ってきたせいか体に篭っていた、熱は迷いのせいで急激に削がれてノブを掴む指が震える。手が言うことを聞かないのは、締め出されてないだろうか、なんて不安があるかもしれない。恐る恐る力を込めると、すんなりと押しあけることができなかった。暗がりの玄関とは対照的に穏やかな橙色の室内灯が点いている部屋の奥に向かって「ただいま」と帰宅を告げる。返事は、なかった。

(まだ、怒ってるのか?)

そっと足を忍ばせて部屋に近づくと、パソコンに向かっているハチの背中が視界に入った。心が折れそうになるのを耐えて、もう一度「ただいま」と声を掛ける。振り向いた彼は、何とも言いようのない相貌でゆっくりと視線を上下させ、俺を見つめていた。

「おかえり。……勝手に怒って、ごめんな」
「こっちこそ、ごめん」

ふ、とハチの背後にあるパソコン画面には、俺好みのシンプルな干支が取り込まれていた。テンプレートをいじって文面を作成中なのか、左端の隅っこに、この新居の住所を入れた所でカーソルが点滅している。

「これ、年賀状?」
「あぁ」
「あのさ、結婚式の写真のことなんだけど」

俺が切り出したのを、聞きたくない、とでも言うかのように、「分かってるって」とハチが遮った。その鋭さに、一瞬、たじろぐ。けど、このままじゃ、きっとハチに誤解されたままだ。それだけは、嫌だった。パソコンの方に体を反転させようとした彼を「ハチ、」と、慌てて引きとめる。

「周りに知られたくない、とか、そんなんじゃないから」

マウスを触りかけたハチの手が止まった。俺の方を向きなおしたハチの目が揺れていた。上手く言葉を紡ぐことができず、「俺、ハチと結婚してよかったって思ってる。倖せだって、胸を張って言える。ハチには上手く伝わってないかも、だけど、けど、」と感情が迸る。ぐちゃぐちゃになった胸内に、これ以上、何と言えばいいのか分からなくて。馬鹿みたいに泣きたくなって、けど、泣くわけにもいかなくて。自然と頭が垂れた俺を、柔らかい声が包み込んだ。「兵助」と。

「も、いい」
「けど、」
「ちゃんと、伝わったからさ」

ハチが泣きだしそうに見えるのは俺の涙腺が緩んでいるからだろうか。手招きされて近づき、その胸に顔を押しつけた。俺の体をハチの大きな掌が包み込むのが分かった。俺もハチの背中に手を回し、その温もりを抱きしめるように指を組む。

「本当に、ごめんな」
「俺、ハチと結婚でできて、本当に倖せだから」
「俺も、倖せだ」

お互いの言葉に俺たちは小さく笑いあって、それから、二人、馬鹿みたいに泣いた。

***

「なんか、泣いたらすっきりした」
「喉、乾いたな。ココアでも淹れてくるからさ、そこに名前、入れといて」
「あぁ」

チカチカと瞬くカーソルの先に現れる、竹谷八左ヱ門の文字。その隣に並べて、俺は自分の名前を打った。




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