袖口にできたとした毛玉を、少し伸びてしまった爪で引っかけながら、ぽくぽくと歩く。手袋を忘れた、と気付いたのは家を出た直後だった。いつもの静電気の代わりに、焼けるような冷たさが指先を奔った。そのまま取りに戻ればよかったのだ。すぐ傍に玄関の扉があったのだから。けど、鍵につけた小さな鈴が手の中で軽やかな音を立てて、私の心を急きたてて。そのまま出てきてしまったのだった。しかたなく、寒さを誤魔化すためにセーターの袖裾を限界まで伸ばし、その中に指先を丸めて隠し、さらにコートのポケットに収めた。これで、ちょっとはましになるだろう。

-------真夜中に私は散歩に出かけることがあった。

街々が眠りこけている夜は柔らかな黒に包み込まれていて、遠くに見える高層ビルで誘導灯が赤の点滅を繰り返す。一定のリズムのそれは、ゆったりとした唄を歌い子どもを寝かしつける母親の手のようで、眠気をもようされ、ふぁぁぁ、と、つい、欠伸をしていた。自然と零れた涙が伝った頬がすうすうする。

目が急に冴えたのは、突然の人工灯に眩んだからだろうか。からりと乾いた明るさを放っているのは、コンビニだった。そこだけが、ぽっかり、異空間みたいに広がってる。宇宙船みたいですね、といつだったか言ったら、先輩に笑われたことを、ふ、と思い出した。どうしようもなく、先輩に会いたくなって、コンビニに飛び込んだ。何か口実がないと会いに行けないなんて、自分でも笑ってしまうけど、でも、手ぶらで会いに行けるほど勇気はなくて。やる気のない店員の空気が伝播したような、眠たそうな店内をぶらつく。

(差し入れ、何がいいだろうか)



***

偶然、先輩と出会ったのは、恒例の夜の散歩の最中だった。

「おやまぁ」

驚嘆を呑みこむなど得意なはずだったのに、するりと零れ落ちたそれに、目の前の人物が振り返った。深夜だというのに、いくつも掲げられた投光機のせいで、そこだけが昼みたいに明るくて。「綾部?」と先輩の見開いた目が揺れているのが、はっきりと分かった。その驚きは私の中にも同じようにあった。一緒の街に住んでいるのだから、先輩に出会うことは別にありえない事ではない。ただ、こんな場所で会うとは思ってもいなかったのだ。

「何やってるんだ、こんな時間に?」
「先輩こそ、何やってるんです?」
「何、って見た通り、道路工事のバイト」

今は休憩中だけど、と頬や鼻を寒さで赤くした先輩の言葉に辺りを見回す。そういえば、工事特有の道路を掘り返すような音も聞こえず、ちっともうるさくなかった。先輩の背後には、わたしたちよりもずっと年配のおっちゃん達が座り込み、寒そうに体を丸めながら小声で談笑している。私の視線に気づいたのか、先輩はそちらの方へ、ちらりとだけ顔を向け、それから私を隠すように体をずらした。なんとなく、む、としたけれど、何も言わずにいると、「兵助、なんだ、ダチか?」とだみ声が遠くからした。私の存在に気付いたのだろう、先輩が返事するよりも前に、「兵助に友達だって?」とわらわらと集まってきた先輩の仲間らしき人達に囲まれた。

「学校の?」
「えぇ、まぁ、」

先輩があやふやに頷くと、その視線が一気に私の方に凝縮されるのが分かった。まじまじと見られて居心地の悪さを覚えたけれど、一応、頭を下げる。顔を上げると、「すげ美人だな」「兵助の彼女かなんか?」「けど、男じゃねぇの」なんて、興味津津といった感じの、こっそりと声を落とした、けど、丸聞こえな会話に、私はまた足元に目線を落とした。顔を伏せがちにしていると「あの、まだ、休憩時間ありますよね」と頭上を先輩の声が飛び越えた。

「あぁ。あと10分くらいな」
「なら、ちょっと出てきます」

分厚い手袋をした先輩の掌が、私の腕を掴んだ。思わぬことに驚いて顔を上げると、「綾部、こっち」とそのまま引っ張られる。繋がれた力の強さになるがままに身を任せる。角を曲がり工事現場が見えなくなったところで先輩の足が止まった。くるり、と踵を返した先輩の顔は、申し訳なささでいっぱいだった。

「ごめん」

詮索されてびっくりしただろ、と心配そうに私を見つめる先輩に、いえ、と軽く首を振る。「いい人たちなんだけどな、ちょっと、」と見えぬ工事現場に向かって、一つ、ため息を零した。なんだか振り回されている先輩が新鮮で「先輩、兵助って呼ばれてましたものね」と私がからかうと、先輩の時間が一瞬だけ止まったような気がした。

「先輩?」
「あ、何でもない。それにしても、本当に、どうしたんだ?」
「ちょっと夜の散歩に。先輩こそ、こんな所でバイトしてるなんて」

ちっとも知らなかったです、と、どうして教えてくれなかったんです?という非難も込めて軽く睨みながら呟く。結構、親しいと思っていた分、ショックだったのかもしれない。先輩は「あー、ちょっと入用でな」と頭を掻きながら、困ったように笑った。

「何か欲しい物があるんですか?」
「んー欲しい物っていうか、まぁ、自分で買いたいものがあるというか」

あからさまに表情を曇らせて、むにゃむにゃと尻すぼみになっていく言葉。珍しく歯切れの悪い先輩にそれ以上突っ込むのもあれかと思い、「でも意外でした。先輩が工事現場なんて。バイトするなら家庭教師とかってイメージがあったので」と話題を変えると、先輩は苦笑した。さっきとは違い、すぐさま「短期で時給もいいからな」と反応が返ってきた。

「へぇ。先輩も穴、掘ったりするんですか?」
「いや、学生だからな。俺は車の迂回してる」

腰に吊り下げていた赤色の警備棒を抜いて見せた。某映画に出てくる光の剣みたいなそれが触ってみたくて手を伸ばしたら、「駄目。おもちゃじゃないんだからな」とあやすように言われてしまった。子ども扱いされた気がして、頬を膨らましたら、指で突っつかれた。ごわごわした手袋の感触がくすぐったくて吹き出したら、先輩もゆるゆると笑った。

(もっと、会いたい)

その日以来、私の真夜中の散歩コースは、思いついた所を適当に曲がってふらふらと歩くのではなく、コンビニと先輩の工事現場を含めたものに変わった。



***

結局、コンビニで缶のコーヒーとココアをいつものように買った。「レジ袋付けますかー」なんて間延びした言葉をぶった切るように断って、コートの左ポケットに突っ込む。同じ所に二本も入れたせいか、重みに布が伸びるような感覚がしたけど、まぁ、いいや。自分の手もそこに収め、ぬくぬくと指先を温めながら自動ドアをくぐり、夜に耳を澄ます。穏やかな夜を壊すのを遠慮するかのような僅かな音は、けれども静寂な空気を揺らしていた。その振動から今晩の現場の方向の見当を付け、歩き出す。三つ目の角を曲がると、眩しいばかりのライトが見えた。ここまでくると、工具や機械の音が響き渡っていて、結構、うるさい。

缶を入れたのとは反対のポケットに指を這わせると、ひやり、とした感覚が走った。左側のそことは対照的にすっかり冷え切った携帯を取り出すと、ぱ、っと闇に液晶の光が鮮やかに浮かんだ。小さく表示された数字は、もうすぐ先輩達が休憩を取る時刻に近い。時間通り。ほぼ毎晩というほど通っているおかげで、すっかり先輩たちのシフトに詳しくなってしまった。

「お、綾ちゃん」
「こんばんは」

すっかり顔見知りになったおっちゃんに挨拶をすると、「もうちょっとで休憩だから」と教えてくれた。知ってます、とは口に出さずに「ありがとうございます」と頭を下げる。するとおっちゃんは「毎晩、毎晩、続くね」とからかうように私を見た。それから「まぁ、綾ちゃんもだけど、兵助も毎日すげぇよな」と遠くに視線を投げる。最近、先輩は迂回誘導だけじゃなく中にも入っているらしい。そこに先輩がいるのだろうか、と見遣ったけど、いまいちどれが先輩か分からなかった。

「好きな子にクリスマスプレゼントを買うために肉体労働って」

心臓が口から飛び出ちゃうんじゃないかってくらいドキリと跳ねて、若けぇのに感心するよ、なんて続けるおっちゃんの声が耳の上辺だけを通り抜けていく。ざわめく鼓動を抑えつけ、もう少し詳しい事を聞き出そうとしたら、辺りに轟いていた穿つような音が不意に止んだ。機械の周りに集まっていた人達がその場を三々五々に後にする。休憩時間だった。もう少し知りたかったけど、短い休憩時間だ。ちょっとでも先輩と話したい。おっちゃんに「じゃぁ」と声をかけ、工事現場に一歩近づく。似たような(というか同じような恰好の)服の群れに、きょろきょろと先輩を探していると、向こうが見つけてくれた。

「綾部」
「また、来ちゃいました」

私の方に近づいてきた先輩にコーヒー缶を手渡すと、サンキュ、と柔らかく微笑んだ。工事現場用なのか、闇に溶け込みそうな色合いの(先輩は紺色だと言っていた)分厚い手袋を外し、その下にさらにもう一枚はめていた手袋も脱ぎ取る。それから、缶を開けると口を付けた。一口、二口。ゆっくりと堪能するように飲むと「あー生き返る」と幸せそうな吐息が先輩から洩れた。そんな先輩を横目に、私もプルトップを引き開け、ココア缶の縁を唇で食む。じんわりと広がっていく温もりは、痺れるように僅かに痛くて。思っていたより自分の体が冷え込んでいるのが分かった。

「今夜は冷えますね」
「そうだな。綾部、手袋は?」
「あー、忘れてきちゃいました」

こっそり心の中で「取りに戻る時間が惜しくて」と呟く。先輩は私をまじまじと眺めると「これ、貸してやるよ」と内側にしていた手袋を渡してきた。

「え?」
「中のやつだから、そんな汚れてないし」
「けど、そしたら、先輩が寒くないですか?」

自分はこれから家に帰って布団に潜り込むだけだけど、先輩はまだ朝までここに立つのだろう。空を見上げれば、冴えわたった闇に星が忙しそうに瞬いていて、今の時間からどんどんと冷え込んでいくのが見て取れた。そんな私の心配に、綾部、寒がりだろ、なんて言われて。それでも「けど」と言い募ると、「これのお礼」と先輩は持っていた缶を掲げた。そこまで言われたら、と手袋をはめる。先輩の温もりが残っていて、温かいようなくすぐったいような、なんだか不思議な感じがした。幸せ、だった。と、遠くで「そろそろ始めるぞ」と声が掛った。

「あ、そろそろ行かないとな。気を付けて帰れよ」
「はい」
「本当は俺が送っていければいいんだけど」
「いえ、大丈夫ですよ」

これもありますし、と手袋をした手をひらひらと振ると先輩の眦が優しくほころんだ。それから、ふ、と思い出したように、瞳がきゅっと引き締まった。

「あ、そうだ。綾部、あのさ、俺、今日でこのバイト辞めるから」

思わぬ事に、唇が固まってしまった。会えなくなる、と思ったら言葉が出てこなくなってしまって。ぎゅ、っと拳を、手袋の中に残る先輩の温もりを握りしめることしかできなかった。私たちの間に空隙が落ちる。体が温まったせいなのか、先輩や私の唇から紡がれる白さがはっきりと濃くなった。言葉はなくても呼吸の度に、くるくると。ようやく「辞めるんですか?」と問い返すと「あぁ。目標金額も貯まったし」と先輩が答えた。そういえば、何か買いたいものがあるって言ってたっけ、と初めて会った夜のことを思い出す。

(そっか、それってプレゼントのこと、か)

さっきのおっちゃんの言葉と繋がって、馬鹿みたいに哀しくなった。先輩に好きな人がいるのは知らなかったけど、先輩らしかった。きっと親のお金とかじゃなくて、自分で汗水たらして働いた対価で相手にプレゼントするなんて。先輩らしくて、普段なら、こっそり笑ってしまう所なのに、ちっとも笑えなかった。笑うことなんてできなかった。胸のあたりが、すうすうとして、寒い。凍えそうだ。必死だった。泣かないように。泣いたら、先輩を困らしてしまう。なんとか口角を上げて表情を繕って「そうですか」とだけ返答する。けど、自然と視線は足元をうろうろとしてしまう。先輩に変に思われてないだろうか。

「でさ、明日、会えないか?」
「え?」
「こんな真夜中じゃなくて、昼に。あ、夕方からでもいいんだけど」

どんどんと進んでいく事態に、何が何だか分からなくなってしまっている私は、とにかく顔を上げて先輩の言葉を待った。じわじわと速くなっていく拍動は、工事現場のドリルの音よりもずっとうるさい。

「綾部にプレゼントがあるんだ」

先輩の顔が赤いのは寒さのせいだけじゃない、って思ってもいいんだろうか。

「先輩…」
「ん?」
「期待しちゃって、いいんですか?」
「え、えっと…綾部が気に入るかって言われると」

小声になった先輩を「違います」と勢いのまま遮って。きょとん、と先輩はしているけど、もう、もどかしくなって。「物じゃなくて、気持ちです。先輩の、気持ち」と言葉を重ねた。勘違いかもしれない。勝手に、おっちゃんの言葉と繋げて、自分の都合のいいように受け取ってるだけかもしれない。けど、走り出した心は止まらなかった。--------止めることなんて、できなかった。

「私は、先輩が、好きです」

言いきってから、はた、と告白したことに気づいてしまった。慌てて、先輩から視線を逸らす。足元の自分の靴紐の結び目だけを目でなぞるけど、だんだんと頭がくらくらして。痛いほどの心蔵の音に耳が塞ぎたくなるぐらいの沈黙に、そっと、顔を上げた。

「先、越されちゃったな」

それから、耳元でささやかれた言葉は、この冬一番の温かな言葉だった。



君の棲む温かい冬

title by カカリア


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