※結婚話。男同士でも結婚できるように法律が変わっている設定です。


左手のを覆う分厚いジャケットの袖をめくると、ちらりと時計が見えた。滑らかな銀色の盤上を細い長針が音もなく滑るようにして動く。約束の時間を過ぎていた。は遅いなぁ、と胸内で呟き、代わりにため息を大きく吐き出す。目の前の世界が幽かに白く滲み、ふわふわと緩んで見えた。緑と赤と、それから白や金や銀。クリスマスカラーに彩られた街並みは、心なしか浮かれている。華やかなディスプレイも最初は眺めているのが楽しかったけれど、そろそろ、見るものがなくなってきた。

「遅いな」

今度は音にして、ポケットに冷えきって固まった手を突っ込む。基本的に待ち合わせの10分前にはその場所に来ているようにしている俺からすれば、かなりの時間待っていた。ハチが遅刻してくることは珍しくはないけれど、約束の時間はとうに過ぎていて、少しずつ苛立ちが増していく。ちらりと周囲を見渡せば、同じように人待ち顔で遠くに視線をさまよわせたり、携帯をいじっていたりしている人がたくさんいる。ハチから連絡が入ってないたろうか、と指先でポケットを探り、それが携帯らしき固いものに引っ掛かったその時、

「兵助っ!」

焦りに揺れるハチの声が雑踏の中を掻き分けて俺の耳に響いた。その方向に顔を向けると、ボサボサの髪を振り乱してハチが走ってくるのが分かった。肩で息をしている彼は喉を曳き付かせて「悪ぃ、…待っ…ただろ」と絶え絶えに話しかけてきたのを見て、仕方ないな、と心の中でため息を吐き、「後で、豆腐料理な」と今回はそれで赦すことにする。

「で、どっから回る?」
「家電は持ちよりでいいだろ?」
「あぁ。新しく買うと高いし、そんな機能を求めないしな」
「けど、テーブルなんかはほしいよな。せっかく広いダイニングがあるんだし」

結婚というか、一緒に住むことになった俺たちは、次の休みには不動産巡りをして、新居を決めた。2DKのそこは俺とハチの職場の中間点にあたり静かな住宅地にあった。近くには昔ながらのスーパーや商店街もあり、住み心地が良さそうだった。とはいっても、業者が他に提示してきたマンションも似たり寄ったりで。ここに決めたのは「ハチがいればどこでもいいよ」とした俺では当然なく、ハチだった。キッチンとリビングダイニングの広さが気に入ったらしい。ハチらしい、とこっそり笑ったのは記憶に新しい。

「兵助、何、笑ってんだよ」

新居を決めた時のことが浮かび、つい笑いだしそうになるのを隠そうとしたけれど、やっぱりハチに見咎められて。「いや、別に。なら家具を見るか」と平然を装って歩きだしたけれど、一度ほどけた唇を縫い合わすのは難しく、ついつい吹き出してしまう。いつまでも破顔している俺に呆れた面持ちでハチが話しかけてきた。

「なぁ兵助、知ってるか? 思い出し笑いをする奴って」
「知ってる。むっつり、って言うだろ」

そう答えると、なんだか自然と笑いが込み上げてきた。意味もないのに、つい、唇がにやけてしまう。馬鹿話すら楽しいのは、幸せすぎるからだろうか。



***

「なぁ、これは?」

若者向けのテナントが入っているそこは、北欧からの輸入家具がたくさん展示されていた。シンプルなラインは洗練されていて、機能的なんだけど、どことなく洒落た雰囲気を醸し出している。ブルーブラックの寝具が掛かったベッドは僅かに丸みの帯びたフォルムが美しく、ちょこんと乗せられた白と赤のクッションがアクセントとなって見栄えがする。普段なら、あまりデザインなんかを気にする方ではないのだけれど、簡素ながらも造り手のこだわりが感じられるベッドを気に入って、俺はハチに尋ねた。手触りを確かめるために、掌底をベットにぐっと当てると、程よいスプリングが効いていて押し返してきた。何度かギシギシ揺らし、ついでに座り心地も確かめようとそのまま腰を下ろす。硬すぎず、柔らかすぎず、ちょうどいい。心地よく眠れそうだ。

「ちょっと、大きくないか?」

そう言いながらハチも俺の隣に座った。途端に、ぎっ、と俺ら2人分の重みにベッドが軋む。「2人で寝るんだから、これくらいだろ」と返すと、ハチは黙り込んだ。その無言の意味が分からず「ハチ?」と視線を向けると、彼は口をパクパクさせていて、「ばっ…おまっ…」と言葉にならない言葉がそこから漏れでてくる。その表情に、ハチが何を考えているのかが手に取るように分かって、

「…絶対、ハチの方がむっつりだ」
「…う、うるせぇ。ベッドはこれで決まりだろ。ほら、次行くぞ、次」

ぷい、と背けられたハチ顔は耳まで真っ赤に染まっていた。そんな瞬間ですら愛しさを覚える。あまりに幸せで  -------幸せすぎて、少しだけ、怖かった。



***

「あとは、テーブルだな」

カーテンやらカーペットやら色々見て回ったせいか、そろそろ足が痛くなってきた。靴と踵との隙間に指を突っ込んでズレを直し、今度はトントンと爪先を叩いて整え、ハチの背中を追う。ゴミ箱やランドリーボックスといった小物のコーナーを曲がると、目当てであるダイニングテーブルが視界に飛び込んできた。ずらりと並べられたそれは、大小さまざまだった。俺たちみたいな二人用から大家族が使うためのだろうか畳のようなサイズのものまで。どれも、美しい木目が刻まれた天板に思わずため息が零れる。

「二人だと、あの辺かな」

少し奥まったところにある小型のテーブルに向けて目配せすると、ハチが「や、そっちじゃなくてさ、この辺りは」とすぐ手前にある大きなそれに手を付いた。

「え?」
「何かさ、テーブルが大きくないと、落ち着かないんだよな」

ほら実家がそうだったからさ、と続けるハチに彼の家族構成を思い出す。八左衛門という名の通り、彼はたくさんの兄弟の中で育った。「俺の家、賑やかなのが取り柄だからなぁ」と、ハチの家に遊びに行った時も結婚を決めた時も、家族総出で温かく迎えてくれた。反対されるんじゃないか、と危惧していただけに、あっさりと「おめでとう」と祝福されて、なんとなく分かったような気がした。ハチが、のびやかで明るく誰にでも優しく育ったのが。

「なんつうかさ、テーブルいっぱいに料理を並べたいんだよな」

ハチの家でご馳走になった時、驚いたのが、ダイニングテーブルの大きさとそこに乗せられた大量の料理だった。あれは、まだ付き合う前で一友人としてハチの家に偶々遊びにいったら夕食時で。端から端まで、皿、皿、皿。消費する人数が多いから当たり前なんだろうけど、初めて見たときは圧倒された。「いっつも、こんなに出るのか」と後で聞いたらハチは「おー。うちはご飯を食べる時は全員なんだよ。いないと飯抜きだからさ」と当たり前のように答えていて。核家族の俺としては、たくさんの喜びに囲まれているハチへの羨ましさと、それから、それがハチの日常なんだ、と思わなかった。きっと、そうやって真っすぐ歩んできたハチの道はこれからも続いて行くのだろうと。けど、

「賑やかに、楽しく料理を囲んで」

目をキラキラと輝かせて唇に幸せを浮かべて語られるハチの言葉は、けれど、俺の心にぽかりと穴を開けた。瘡蓋の下にある傷口を、まだ乾かぬそれを抉られた時のような、じくじくとした痛みが胸を蝕んでいく。喉の奥がひりひりとして、つん、と潮の匂いが鼻を抜けた。暗澹たるその正体を俺は知っていた。

(ハチの、その未来を俺は叶えてやれない)

ハチが幼い頃から過ごしてきたような温かな家族を。たくさんの息子や娘や孫テーブルを囲む光景を。ハチがこれまで歩んできた世界を、これから生きるはずだった未来を。俺はハチに与えることはできないのだ。-----------だって、俺は、男だから。

「兵助?」

問いかけるハチの眼差しは酷く優しかった。その瞳に映る俺はぐらぐら揺れていて、泣き出しそうな、そんな表情をしていた。絶望の淵をのぞきこんでいるような、そんな顔。ハチに気取られないよう、すぐさま唇を引き上げて笑みを繕う。ハチに悟られる前に、拭い去らなければ、と。

「ん、いいよ、それにしよう」

明るく振る舞うために、意識的に1オクターブぐらい高い声を張り上げる。訝しがるハチが「兵助、」と低い声で呼び掛けてきたのを「じゃあ、店員、呼んでくる」と中途で打ち切り、俺はハチの傍から逃げ出した。ハチの顔が、見れなかった。

(なぁ、ハチ。いつかさ、お前、後悔するんじゃないか? 俺と結婚して)

当たり前のように女の人と結婚して夫婦になって、当たり前のように子どもを産んで。それで、子どもを育てて、気が付けばおじいちゃんになって。それで、娘や息子が孫たちを連れて遊びに来て、食卓を囲む。あの大きなテーブルをそんな当たり前の喜びでいっぱいにできないのだ。そんな当たり前の幸せを、俺はハチにあげれない。俺は、あげれない。



***

買い物を終えて、「飯、食ってくだろ」といつもの調子で聞かれたから、俺はハチのアパートに寄った。簡単なものしか作れなくて悪いけど、とキッチンに立つハチの背中をぼんやりと眺める。ほどけかけたエプロンの紐。いつもなら指摘して、からかって、それで俺が結び直すのだろうけど、今はそれをする気になれなかった。以前、三郎や雷蔵が『好きな人とずっと一緒にいるって、すごく幸せなことだからな』と言ってくれたことを思い出す。

(けど、ハチは俺といて幸せなんだろうか)

一度生まれたの感情はは胸内にとぐろを巻いてのたうちまわっていた。どうしようもできない事だ、と振り払っても振り払っても、鈍い痛みだけが俺を貪り続けていた。それと闘っていると「ん、今、豚のしょうが焼持ってくるからな」と俺の前にご飯が盛られた器と柔らかな湯気を上せた汁椀が置かれた。ほかりほかりと甘く懐かしい匂いが沁み入るように広がった。その匂いを感じた途端、堪えていたものが崩れ落ちそうになって、慌ててそっぽを向く。「兵助?」とハチが心配そうに俺を見ているのが伝わってきた。

「何でも「何でもねぇ、って顔じゃねぇし」

俺の言葉を途中で奪ったハチは「何でもかんでも一人で抱え込むの、兵助の悪い所だ」と続けた。隣に腰を下ろすと、くしゃり、と掌の底でハチは優しく俺の頭を撫でた。ほら、と温かく促されて、俺は胸中を巣食っていた膿を吐き出す。

「…ハチ、後悔しないか?」
「何を?」
「俺と結婚すること」
「はぁ? 何で」

絶対しねぇよ、何でそんなこと考えるんだよ、とすごい剣幕で問い詰めてきたハチに、「だって、俺とじゃハチの夢は叶わないだろ」と零すと彼は「夢?」と呟いた。

「そう。夢。あのテーブルを家族で囲む、そんな未来」
「……あぁ。あのさ、そりゃ、自分に子どもができたら、とか思わないといえば、嘘になると思う」

分かっていたことなのに、改めてハチの口から聞かされると、軋むように胸が痛んだ。ぐらり、と冥い闇が瞼を包み込み、眼窩の奥の熱が気持ち悪い。息をするのも苦しくて、けれど、ここで泣くわけにはいかなかった。これ以上、ハチを困らせたくない。ぐ、っと拳の中で爪を立てて痛覚を誤魔化し「だったら、」と言い募ろうとすると、今度は視線で遮って来た。

「けど、俺は兵助と共に生きたい。兵助と、あのテーブルを囲みたい。あのさ、覚えてるか? お前がさ、初めてうちに来て、実家の食卓を見て言った言葉」
「え?」
「喜びって漢字は神様に食べ物を捧げたのを元にしてできてるんだって。
 だから、お前の家のテーブルには、きっと喜びがいっぱいあるんだなって」
「…あぁ」
「俺はさ、あの頃、ちょっと家族のことで、ぶつかっていたんだ。部屋は兄弟と一緒だし、プライバシーもへったくれもないし、食事は皆が揃ってないといけないし。大家族なんて、マジ面倒だし、兵助みたいな家に生まれてこればな、って。大家族じゃなければな、って」

悩んでいたなんて知らなかったと呟けば、「まぁ、そんな深刻って訳じゃないんだけどな」と照れたように頭を掻きながらハチが答えた。それから、「けど、兵助の言葉を聞いて、この家に生まれてきてよかったな、って考えれるようになったんだ」と柔らかく微笑んだ。

「子どもや孫じゃなくてもさ、いつか大切な人たちであのテーブルが囲めたならばいいと思う。それは家族かもしれないし、友達かもしれないし、会社の人とか近所の人かもしれない。赤の他人かも」

そこで改めて区切るとハチは俺の手にその手を重ねてきた。伝う温もりが、とても愛おしい。

「けど、その時に兵助、お前が隣にいてくれたなら、それが俺の一番の喜びなんだ」




いちばんのよろこび

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