泣いているだろうか。




L o v e s i c k n e s s
〜恋をすると、死んでしまう〜


『兵助』

その名ばっか、ディスプレイに並んでいた。受信メールボックス、着信履歴、留守録の声。全部全部、兵助で埋められていた。それを見るたびに、ぐ、っと胸が軋んで、短縮の1番に、何度も手を伸ばす。けど、発信のボタンを押すことはできなかった。手の中に納まっとる携帯を、きつく握りしめた。壊れるほどきつく。漏れ出でそうなため息を、俺は深く深く吸い込んで。ベッドへとダイブして、背中から伝うスプリングに身を任す。腕で目を覆って別のことを考えようとしても、想いの行き着く先は兵助ばかりで。

(兵助、泣いているだろうか?)

一度も見たことがない兵助の泣き顔が、やけにリアルに、瞼裏に映った。



Thrurururu

手の中で、また、携帯が震えた。サブディスプレイが、鮮やかに色を変える。映し出された『兵助』の文字が、鳴り続けるコール音が、俺を責め立てとるように思えた。電源を切ってしまえばいい、そう分かっていても、行動に移すことはできなかった。この小さな機械が、俺と兵助を辛うじて繋げているのだから。通話ボタンを押すこともせず、ただ、受話口に耳を押し付けた。留守録へと切り替わった途端、ふっと、向こうの空気が流れ込んできた。沈黙の向こうから、言葉を捜している気配が伝わってくる。どうして、こんなにも電話だと生々しく感じるのだろう。まるで、すぐ傍に兵助がいるみたいに、躊躇うような兵助の息遣いがはっきりと届いた。今すぐ通話ボタンを押したら、そしたら、話せる。分かっていたけれど、手が固まって全く動かなかった。自分の指なのに、鉛みたいに重たい。

「……はち、逢いたい……」

ぽつり、とその一言だけが、留守録に残される。空気にそのまま消えてしまいそうな、弱々しい声。そのまま兵助の声は途切れた。ラインが切断されて、冷たい機械音が耳を縛る。残響が胸を穿つ。目を瞑っても、泣き顔がまざまざと思い浮かぶ。くりかえし、くりかえし。

(電話の向こうで、泣いてるんだろうか?)

「……もう、限界だなぁ……」

喉にせりあがってくるものは熱く、苦しい。天井がぼんやりと滲んで端っこから崩れて行くのを必死に堪える。これから、どれだけ兵助に辛い思いをさせるのか、そう思えば、俺が泣く資格なんてねぇのに。瞼をぎゅ、っと両の手で押さえ付け、胸の底まで息を吸い込む。爪を皮膚に突きたて、呻くような痛みで誤魔化す。兵助の声が、泣いているように聞こえた。

(…これ以上、泣かせたくはない。けど、このままだったら、不幸にするだけだ)









***



短縮の1番、着信履歴、リダイアル、メモリ検索。いつも使う兵助へのコールの手段。最短距離。けれど、俺が選んだのは11桁の番号だった。何度も何度も繰り返しして、空で言えるくらい頭に刻みついているそれを、ゆっくりゆっくり噛みしめるように押す。自分でも馬鹿だと思う。ほんの少しだけ引き伸ばしたって、何にも変わらないというのに。これから、その言葉を告げることは。じわりじわりと速くなるなる鼓動。彼を呼び出すコールが耳に痛い。永遠にも感じられるほど気が遠くなる時間が経って、

『只今電話に出ることができません。御用のある方はピーっという発信音の……』

冷たい合成音が耳を滑って行く。温もりのないその声に、安堵している自分がいるのに気がつく。もし、ここで兵助が電話に出たら、決心が鈍ってきっと言えないだろうから。唾を嚥下しても、カラカラに乾く喉。このまま切ってしまいたい衝動を、乾いた発信音が断ち切った。

「兵助……」

まるで、電話口に兵助がいるみたいで、その名前を呼んだ途端、胸に昇りつめる愛しさ。できるだけ冷たく言おうとするのに、唇の端に言葉が引っかかって、上ずりそうになる。俺は兵助の泣き顔を頭から振り払った。唇の端に言葉が引っかかる。涙声にならないように、声が震えるのを必死に押さえる。ぎゅっと、おそろいのストラップを握りしめる。心の中で唱える。泣くな、泣くな、泣くな。まるで、その言葉しか知らない幼子みたいに、必死にその言葉を繰り返す。泣くな。

(泣いたら、感づいてしまう。酷い男だ、って終わるんだ。だから、泣くな)



「……もう、兵助に逢えない。別れてほしい。……俺のことは、忘れてくれ」

少しでも残忍に聞こえるよう、腹の底にあらん限りの力を入れて、ぐ、っと低い声で吐き出すように呟く。録音時間が終わって、通話が途絶えた瞬間、俺はずるずるとその場に座り込んでいた。ぷつり、と消えたんは俺と兵助を繋いでいたラインだけじゃなかった。ずっと張り詰めとった俺の中の何かが、切り崩れて。世界が膨らんだと思った瞬間、構成している全てが一気に瓦解した。

「兵助……」

涙が、零れていた。

「怒ってるか? ……それとも…… 泣いているか?」

できれば、前者であってほしい。きちんと連絡を取らずに終わらせた自分勝手な男だって、俺のことなんか大嫌いになってくれれば、それでいい。三郎や雷蔵と一緒に俺のことを怒って罵って、絶縁してくれれば。------------それで、俺のことなんか忘れて、倖せになってくれればいい。俺は、ずっと握りしめていた携帯を、ようやく手の中から解放させた。ストラップの痕が、くっくり、手のひらに残っていて。そこだけ血流が止まってしまったかのように、どす黒くなっていた。俺の中に流れる血。すべてはそこから始まって、いや、そこで終わるのか。

「……これでよかったんだ」

口を突いた言葉をもう一度、胸の中で反芻する。そう。これでよかったんだ。俺は兵助を倖せにすることは、できない。だから、これでよかったんだ。瞼の奥に浮かぶのは、兵助の笑顔。誰よりも倖せになってほしい、そして、俺が倖せにしたかった、その笑顔。

「っ……兵助……」

つん、と潮の匂いが胸底から喉元まで逆流し、嗚咽に代わる。俺が泣くなんて赦されるはずがないのに、溢れだす脆弱さを抑えるすべがない。これでいいはずなのに。これで、兵助は倖せになれるのに、

(それなのに、なぁ、何で涙が止まらないんだ)





 


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