※全体的に暗いというか鬱々しいです。ほんのり竹久々描写あり。

そこは、とても静かだった。目を閉じなくても耳を塞がなくても、何も変わらない。光は見えず音は聞こえず、そして温かくもなかった。けれど、そこを、独りを淋しいなどと思うこともなかった。光を、音を、温もりを、僕は知らなかったから。生まれてこのかた、僕は深海に棲む魚であり、彼は宙の星であった。


高い所にある窓の向こうで楡の木が大きく体を反らしていた。まだ残っていた葉は梢ごとガラスの部分に打ちつけられている。真っ黒の雲が目まぐるしいスピードで過っていく。直に雨が降りだすだろう。いつもは顔なじみが多くを占める図書館は、天気が悪いせいか普段は見かけない顔ぶれもそろっていて、なんとなく人の暖で温かいような気がした。それ自体は全然構わないのだけれど(一応、皆、静かにしているし)、人が出入りするたびに入り込んでくる外気は、もわりとしけっていて、さすがに参った。手元にある年季のある本の頁が、しなり、としてきたのは気のせいじゃないだろう。

(読むの止めようかな)

出入り口の近くのスペースで貸し出しの合間にずっと読んでいたけれど、しっとりと湿り気を帯びてきていて、本に影響を与えているのは明らかだった。もうちょっとで終わりなんだけど、でも、やっぱり止したほうがいいよね、なんて事を考えていると、ふ、とまた雨の気配が濃くなった。重たそうな扉を片手で押しながら入って来たのは、よく知ってる、けれど、滅多とこの場所には来ない人物で。「ハチ」と声を上げそうになり、寸での所で自分がいる場所を思い出し、生ぬるい空気を食んだ。寒さのせいだろうか、ハチは襟ぐりの所までジップを上げたジャンバーに顔を半分埋めていて。こっちに気付かないかな、と目だけで彼に向けて念じてると、それが通じたのか俯いていた彼が顔を上げた。こんな日とは正反対の、温かな笑みを僕のほうに向けて近づいてきた。

「ちょうどよかった」

距離を狭めながら潜めるように話しかけてきたハチの声は、それでも水を打ったかのように静寂を崩した。本人も思ったより響いた声にびっくりしたようで、「悪い」と辺りを見回しながら囁いた。

「ううん。どうしたの?」
「これ」

ハチがカウンターに置いたのは、黒革の表紙をした一冊の本。背の部分には図書館が所蔵をしていることを示す分類のラベリングがされていた。金で篆刻されたタイトルは、あまり見かけない字面だった。莫大なお金がつぎ込まれており、蔵書数では全国有数らしいと囁かれているこの図書館では、諸外国の本は当然置かれているのだけれど、

「ハチが園芸じゃない本を借りてたなんて、珍しいね」
「俺のじゃないんだ」

僕の感想にそう答えると、ハチは手早く僕に説明しだした。温室に来た人物が忘れていったのだ、と。そのまま預かろうとする僕に、持ち主に返したいから名前を教えてほしい、とハチが懇願してきた。普段だったら「個人情報だから」と突っぱねるけれど、ハチがあまりに必死に頼むものだから、データベースで検索して教えてあげた。サンキュ、と夏の花のように笑った彼は、それから、ふ、と僕の周りに視線を巡らし、呟いた。「今日は、三郎は一緒じゃないんだな」と。ハチに他意はないのだろう。ただ、疑問が口に突いただけだ。分かってる。なのに、心臓が耳の後ろにあるぐらい、ざわざわと煩く騒いだ。

「……別にいつも一緒にいるわけじゃないよ」

かすれた声の正体を、僕だけが知っていた。



***

僕はひそりと生きてきた。生きていくつもりだった。三郎が現れる、あの日まで。孤独に塗り込められた世界は穏やかで、光もなければ、けれども影もできなかった。まるで深い深い海の底のように、静かだった。僕はこの学園に棄てられた。(他の人が揶揄する言葉を使うならば屍の部類だ)けれども、そのことで親を恨むつもりは毛頭なかった。現世はあまりに騒音が多すぎた。入った当初は外と同じように詮索されたり噂が立てられたのが分かったけど、すぐに皆は飽きてしまった。自身の出自をスキャンダラスだと思っていたけれど、僕みたいな立場の人間はたくさんいることを僕は知った。ここであれば、僕は「雷蔵」でいられる。名字もなにもない、ただの「雷蔵」で。

とっくの昔に覚えた作り笑いをして、なんとなくやり過ごして、穏やかで静かな日々を僕は愛していた。そんな耳を塞がなくても何も聞こえない、凪いだ海は、けれども突如として嵐へと代わった。「三郎」という人物が。三郎は僕とは違い、花だった。芝居を極めるために、莫大なお金を積んでこの学園に入って来たのだという。転入生が入ってくるたびに飛び交う「……の隠し子」だの「親が……」だの、そういった憶測なんて僕は興味がなかったから、それまで気に留めもしなかった。けれど、三郎の時ばかりは嫌でも耳に入って来た。なぜなら、三郎は僕とそっくりだったから。

好奇な目は僕を穿つように見続けた。普段ならば、「三郎」の噂だけが流れるはずなのに、僕と絡めて推測する人は一向に減らなかった。なぜなら、噂を否定する材料も肯定する材料が僕にも三郎にもなかったから。真相を確かめるために血縁と連絡を取ろうか、とそんな考えが一瞬過ったが、それがどれほど煩わしい事になるか、僕は嫌というほど分かっていた。それにもう、僕はあの家の人間じゃないのだ。「雷蔵」なのだから。けれど、真相はどうなんだろう。そうこうして迷っているうちに、三郎が僕に懐いてしまった。好きなように生きる三郎は、周りの注視を面白がっているようだった。けれど、僕は目も耳もない深海魚になりたかった。光も音も届かないようなところで、独り、ひそりと生きていきたかった。そう思っていたはずなのに、



***

図書館の当番を終えるころには、すっかりと辺りは暗くなっていた。吹きすさぶ北風を正面に受けながら、早く帰ろう、と心の中で呟く。毎週、同じ曜日に当番をしていると、やっぱり季節の移ろいを強く感じる。転がるように深まってきた秋の夜空は淋しい。南の低い所に、ぽつん、と一つだけ明るい星。ひしめく闇に呑みこまれそうな、広大な黒。先週の嵐で葉をはぎ取られた梢から、そんな宙がぽっかりと覗いていた。

「ただいま」

いつもなら迎える声が、今日はなかった。まだ外にいるみたいな、真っ暗な部屋だけがそこにあった。顔の高さの辺りの壁に手を這わせる。爪先が突起に引っ掛かって、それを反対側に押し込んだ。ぱちん、と乾いた音と共に電気が灯り視界が明るくなる。部屋の左右対称に設えられた机の一方には、がさがさと紙やペンが広がっていた。その向こうに見えるベットの上には、人の抜け殻のような丸まったケット。朝、出かけた時のまま。いつもと変わらない。何も、変わらない。けれど、からっぽの部屋は、ひどく落ち着かない。



蜂蜜みたいな髪。普段は感じさせない華奢な背中。ほっそりと折れそうな手は何かを掴もうというかのように宙に伸びて。

「やっ、ぱり、ここ、に、いた」

尖塔の天辺まで何段あるのか分からない階段を登りきった足はガクガクと痛みを訴えていた。上がる息が胸を抑えつけて、上手く言葉にならない。途切れ途切れになった僕の言葉に「やっぱり、来るだろうと思ってた」と三郎は飄々とした顔で迎えた。その表情が癪に障って「何やってるのさ」と棘を含んだ声で問い詰めると、三郎は柔らかく笑った。いつもそうだ。急に消えたかと思うと、ここに彼はいる。

「雷蔵を待ってた」
「部屋で待ってればいいだろ」
「雷蔵は見つけてくれるだろう、わたしのことを」

断定する物言いは、苦しいくらい僕の心に響いた。どうしてか、泣きたい。三郎は星なのに。皆に慕われ、才能に愛され、好きなことをして幸せに生きているはずなのに。なのに、どうしてそんな表情をしてるのだろう。どうして、一身に孤独を抱えるのだろう。どうして、ここで僕を待つのだろう。

「三郎は僕の事を買いかぶりすぎているよ」
「そんなことないさ。雷蔵は何があってもわたしを見つけてくれる」

いつの間にか、三郎がすぐそこにいた。さっき宙を掴もうとしていた指先が僕の頬にに触れる。冷たい。いったい、どれだけ彼はここにいたのだろう。ぎゅ、っと闇が凝縮された瞳に映り込むのは僕。けれど、そこに潜む彼の感情を僕は理解できない。知るすべがない。

「三郎、帰ろう」

分け与える熱がなくなった時、ようやく彼が僕から離れた。


部屋に戻ってきた三郎は、さっきとは打って変わってやけにご機嫌だった。ごそごそとクローゼットを探っては、楽しそうなハミングを口ずさんでいる。掠れたアルト。出鱈目なメロディ。知らない言葉。こうなれば、いつもと変わらない三郎で。さっきまでの彼が嘘みたいだ。

「雷蔵、これは、どうだ?」
「いいんじゃない」

嬉々とした声の理由は分かっていたから、視線を本に注いだまま答えると、それまで寝転がっていた三郎が起き上がる気配を背後に感じた。「らいぞー」と駄々っ子みたいな声を無視していると、どたん、どたん、と物に当たるような音がして。しかたなく振り向くと、頬をぷくりと膨らませながら、三郎は投げ出した足をベッドサイドにぶつけている所だった。

「ちょっとは真剣に考えてくれよ。ハロウィンパーティーで雷蔵も着るんだぞ」
「だって、僕はそういうこと苦手だもの。考え出したら、きりがないし」

三郎に任せるよ、と投げ打ち、また本に意識を向ける。散りばめられた活字の向こうに広がる、力強く美しく、そして虚無な世界。一気にのめり込んでいきそうになり---------ふ、と生温かい闇に遮られた。いつもの悪戯かと「三郎っ!」と怒気を上げてみたけれど、目を覆う三郎の掌が離れることはなくて。今度は不安に駆られ、「三郎」とそっと読んだ。瞼の裏がうっすらと赤い。感じる自身の血潮。よく知った、暗がり。三郎が現れるまで、いつも僕はそこにいた。安寧するはずのその闇が、どうしてだかひどく怖い。どくり、とこめかみが脈打った。

「雷蔵、賭けをしよう」
「何を?」
「パーティーの日、わたしを見つけておくれ」



***

角灯から漂う西洋カボチャの色した光がパーティー会場への道しるべのように点々と足元を照らしだしていた。ふわふわとした浮かれた熱を零しながら歩いている生徒たちを横目に、僕は図書館の前でたたらを踏んでいた。『今日は早めにしまいなさい』と達しが来た、と言う委員長の言葉通り、古く大きな建物は沈黙に付している。逃げ場所は、どこにもなかった。ため息を一つ、それから空を見上げる。微かに残された夕方に染められた紫色のくすんだ雲がぼてりと転がっている。

「雷蔵」
「あぁ、兵助」
「どうしたんだ、そんな所で。行かないのか?」

んー、と返答に困って言葉を濁していると、真面目な兵助が「全員参加なんだろ」と断じるように言ってきた。その勢いに「行くよ、行く」と、とりあえず言ったものの、暗澹としたものが僕の心に圧し掛かったままだった。一緒に行くだろう、とふんでいる兵助に「忘れ物をしたから取りに帰る」と告げると「そうか」と納得したような面持ちで兵助が頷いた。それに安堵し、ふ、と彼の出で立ちが改めて目に入る。外套ではっきりとは分からないけれど、その古めかしさでさえも今夜にはぴったりで、品の良さが彼にはまっていた。

「よく似合ってるね。その恰好」
「あー俺にはよく分からないんだけど、一応、三郎が見立ててくれたからな」
「三郎を、」
「え?」

思わず漏れ出そうになった言葉に反応されて、立ち回ることができずに黙り込んでしまった。如才なく笑ってやり過ごすことなんて得意なはずなのに。唇を上げろ、微笑め。頭からそうやって命令しているのに、うまく取り繕えなかった。「ごめん。忘れ物、取りに行ってくる」と口走り、呆気にとられている兵助を残して、僕はその場を立ち去った。後で勘ぐられてもいい、とにかく、離れたかった。独りになりたかった。


どこか、どこか、独りになれる場所。誰もこない場所。右を見ても左を見ても、地に足のついてない生徒たちばかり。仮装して楽しげに談笑している。ランタンの灯り、オレンジの光。まるで夢の世界みたいに、きらきらと光っている。非日常。いつもと全く違う、僕の知らない、温かな闇。

「っ、」

続かなくなる息に、ようやく足を止める。顔を上げると、夜を切り裂くにして高くまで聳える影。気がつけば、あの尖塔のたもとまで来ていた。何かの番人のように、空を塞ぐようにして立つ双つの塔。このあたりは飾り付けもしてないらしく、灯りの一つもなかった。すぐ傍の草叢で弱々しげな虫の声がひっそりと息づいている。いつもと変わらない暗がりが潜んでいる。そこだけが、非日常から取りこぼされていた。自然と階段に足が向かっていた。

(この場所から、三郎は何を見ているのだろう)

一人分の足音が、耳をこだまする。上がっていく自分の息。心臓。最上部に待ち受けていたのは暗闇。ここなら、思い出せるだろうか。耳の塞ぎ方を目の瞑り方を、心の凍らせ方を。あの頃みたいに、三郎を知らなかった時みたいに、何も聞かず、何も見ず、温もりを感じずに過ごす方法を。深海魚みたいに、独りで生きていく術を。



***

「雷蔵っ」

振りかえると、三郎がそこにいた。きれいに整えられてあっただろう髪はぼさぼさに見だされていて、仮面は取れかけていて、いつもだったら絶対に見せないような、切羽詰まった顔。それを見たとたん、なんてバカなことをしてしまったのだろう、と息をするのも痛い。うまく三郎の顔が見れなくて、僕は彼が落とした長い影に視線を据える。

「パーティー会場にいないから、どっかに行ったかと思った」
「ごめん、」

今なら、まだ、戻れる。そう誤魔化すように明るく答えて続きを言おうとした途端、「謝ってほしいわけじゃない」と鋭い声が僕の言い訳を遮った。沈黙が佇む。どうして、こんなにも静寂が煩いのだろう。どうして、こんなにも闇の色が見えてしまうのだろう。どうして、温もりを求めてしまうのだろう。どうして、

「わたしは、雷蔵がいないと駄目なんだ」

三郎は泣きそうな目をしていた。もしかしたら、それは彼の目に映り込んだ僕なのかもしれない。あぁ、もう、深海の底には戻れない。僕の方に伸ばされた三郎の手に指を絡める。温もりが混じりあう。降りてきた瞼の向こうで、星が一つ、瞬いた。



星と深海魚

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