※結婚話。男同士でも結婚できるように法律が変わっている設定です。1002様へ寄稿。

久しぶりに訪ねてきた恋人の手には、スーパーの袋が下げられていた。夕日のせいだろうか、白いはずの袋は、稲穂のような温かな色に染まっていた。中に彼を招き入れるなり、「どうせろくなもの、食ってないんだろ」と言われ、見透かしたような視線を向けられた。だから、つい、「そんなことないって」と返したものの、部屋の床に栄養ドリンクの瓶が転がっているのを目敏く見つけて「やっぱり」と呆れたハチに、俺はそれ以上言い返せなかった。ため息を一つ吐きながら「お前、倒れるぞ」と眉をひそめたハチに、「そんなにお腹、空かないしさ」と、どうにかして上手いこと言い訳をしようと考え、冷蔵庫の中の物を思い出したけど、「豆腐は栄養あるけど、それだけじゃ偏るぞ」と先手を打たれてしまった。

「やっぱり買ってきて正解だった」

からっぽの(一応、ミネラルウォーターと豆腐は入ってる)冷蔵庫を覗いたハチが呟く。キャベツにじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、長ネギ、ブロッコリー。白いビニール袋から取り出されて、どうだ、と言わんばかりに、ずらりとシンク横に並べられた。鮮やかな色合いに、機能すら求めていない無機質な俺の家の台所が、とたんに華やかになる。「いいから、仕事してろよ」と持ち込んだエプロンを付けるハチに甘え、俺はリビングテーブルへと戻った。ハチの気配が満ちていく。ほわりとした安寧の気持ちを抱えながら、俺は書類を机に広げた。



「なぁ、兵助」

心地の良いリズムを刻んでいた包丁の音はいつの間にか途切れていた。台所から呼ばれ、俺は難解な字面と数字が並んでいた資料から顔を上げた。「何?」と尋ねると「やっぱいい」と言われて。ふ、とがっしりとした大きな背中に、いまにも解けそうなエプロンの紐が垂れさがっているのが目に止まった。どうやら縦結びになっているうえに、片方の輪っかがアンバランスなほど大きくて、辛うじて結ばれているようで。手先は器用なのになぁ、となぜか蝶結びだけが苦手な彼に、一人、笑いを噛みしめる。

「何、笑ってるんだ」
「んー、別に」

こっそり笑っていたつもりが、ハチにはばれていたらしい。怪訝そうに振り向いたハチに、きゅ、っと唇を引き締めて笑いを収めた顔を向けると「ふーん」とまだ納得のいってない声が戻ってきた。けど、それ以上は追及しないつもりらしい。くるり、と再び俺に背を見せた。不格好なリボンが揺れて、俺は心の中で小さく笑った。こっそりと。それから、俺はまた書類へと目を落とした。ことこと、と鍋が奏でる柔らかい音が耳に心地いい。今日はポトフだと言っていた。野菜たちが溶けだす、まったりとした匂いが、じんわりと俺をくるむ。きっと、さっき見た夕焼けみたいな、澄んだ黄金色のスープが出てくるのだろう。普段なら感じることのない空腹の虫が、一つ声を上げる。幸せな音だと思った。



「そろそろ、できるぞ。その辺、片付けてくれ」
「わかった」

どれくらい時間がたったのだろう、呼びかけられて顔を上げるとすっかりと日は暮れていてた。蛍光灯が反射して俺が映っている窓の向こうには、ビルの灯りやネオンがぴかぴかと光っている。外から丸見えになっていることに気づいて、俺は窓の傍まで近づき手を伸ばしてカーテンをしゃっと引いた。手早く机の上に広がった書類を片付け、その足でテーブルを拭く布巾を貰うために台所に向かうと、洗い物の水音に混じって、楽しそうなハチの鼻歌が聞こえてきた。こっちの心まで弾むような、明るいメロディ。コンロにかけられた鍋から、ほこほこ、と白い湯気が漏れ出ていて、あたりを優しい匂いに染めていた。

「台ふきあるか?」
「あー、ちょっと待って」

ハチは泡だらけの手で蛇口をひねり、ざっと水で洗い流すと、シンクの上に掛かっていた布巾を手にした。彼が台ふきを水にさらしているのを横目見ていると、おいしそうな匂いが腹の虫を呼び覚ました。思わず鳴ってしまったお腹の音にハチは小さく笑うと、濡らした布巾を横に置いて、「味見するか?」と鍋の蓋に手をかけた。それが開けられると、うっすらとした靄と甘い匂いが鍋から一気に周囲に広がる。おたまから小皿に注がれたスープは柔らかな金色をしていた。「ん、」とハチから手渡された皿に、猫舌な俺は、ふぅふぅと息を吹きかけて冷ます。細波立つそれからは陽だまりのような温もりのある匂いがして、なんとなくハチの笑顔を思い起こした。頃合いを見計らって、そっと、唇をお皿に寄せる。

「おいしい」
「なら、よかった」

俺を見つめるハチの眼尻が緩み、それから、ふわり、と幸せな空気が俺たちを包み込んだ。

「一緒に住むか?」
「え?」
「だからさ、同棲しないか? ちょっとでも長く一緒にいられるし」

思いもよらない事に頭の中でハチの台詞を反復するけど、それでも、なんだか現実味がなくて。驚きのあまり声を失ってしまっていた。すごく嬉しいのに、言葉にならなくて。そんな風に黙ったまま固まっている俺を見てハチは小さく笑って、ぽん、と頭を軽く叩いた。

「ほら、兵助も食いっぱぐれる心配もないし。今すぐじゃなくてもいいんだけど、考えといて」






***

うっすらと空調が効いた書店は少し埃っぽく、紙とインクの落ち着いた匂いが佇んでいた。週明けからずっと寄りたくて、けど、仕事が忙しくてなかなかまとまった時間が取れずにいて。ようやく休日となった今日、行こうと思ったら、出掛けに家に遊びに来た三郎と雷蔵に捕まった。(ちなみに、ハチは用事があるとかで、夜に会うことになっている)一人で行く気だったけど、「どこに行くの?」という問を振り払うことができず、結局、一緒に近くの一番大きな本屋に来て、店内で見たいフロアへどそれぞれ別れたわけだけど…。

「へーすけ、何、読んでるの?」

後ろから近づいてきた声に慌ててラックに戻したけど間に合わず、雑誌のタイトルを見遣った雷蔵は不思議そうな表情を浮かべた。背後には注意していたはずなのに、いつの間にか雑誌に夢中になっていて、友人らの気配を感じ取ることができなかったらしい。己の迂闊さに舌打ちしたくなる。

「住宅情報誌? あのマンション引っ越すの?」

便利で住み心地がいいって言ってたのに、と雷蔵の呟きに、どうやって事訳すればいいか分からずにいると「そりゃ、ハチと一緒に住むために決まってるだろ」と口笛を吹くような、楽しげな三郎の声が俺たちの間を割り込んだ。雷蔵の目が丸く見開かれ「え、そうなの?」と真面目に問いかけられ、「たぶん」と頷く。

「これなら、大丈夫だな」
「何が?」
「ハチのやつ『兵助に返事もらえなかった』ってしょげかえってたからさ」

にやにやとした笑みを三郎に向けられて、頬に熱が集まるのが分かった。きっと、馬鹿みたいに顔が赤くなっているに違いない。隣にいた雷蔵が「もぅ、からかうのよしなよ」と、にやけている三郎を取りなし、それから俺に満面の笑みを向けた。

「でも、よかったね。会える時間が増えるし」
「あぁ。……あのさ、」
「ん?」
「一緒に住むって、どんな感じ?」

あの日からずっと考えていたことを訊ねると、三郎と雷蔵はきょとんと顔を見合せて、それから二人して、ぷっ、と吹き出した。堪え切れないというばかりに、笑いに喉を引きつらせながら、「何、そんな事、悩んでるのか?」と三郎が訊ねてくる。こっちは真剣だってのに、と不貞腐れると慌てて雷蔵がフォローに入った。

「ごめん、ごめん。そんなに悩んでると思わなくて」
「悩んでるっていうか、…なんか、実感わかなくて、よく分からなくてさ」

夢だったんじゃないか、って頬を何度も抓ってみたけど、ハチに言われたのはどうやら現実で。でも、ふわふわと地に足がつかない感覚だけが残るだけだった。呆れたような声音で「それで返事しなかったのか?」と三郎は腕にあった雑誌を抱え直しながら俺に問を投げかけてきた。一度、機会を逸すると、なかなか話をするタイミングが見つからなくて、そのままズルズルと時間だけが過ぎていた。俺が頷くと、「はぁ」と盛大なため息をワザとらしく零した。三郎の言いたい事は分かったけど、一応、こっちにも言い分があるわけで。

「いや。びっくりしたってのが本当の所でさ、すぐに答えられなくて。……すっごく嬉しかったんだ。だからすぐに『いいよ』って言うつもりだったんだけどさ、けど、俺、自分で言うのもなんだけど、家事能力あんまりないし。ハチの負担にならないかなぁ、って」
「まぁ、分担は大切だよな」
「うん。だから、二人がどんな感じで暮らしてるのかなぁ、って思って」

長いこと一緒に住んでいる二人は、また、困惑したように視線を交わした。改めて質問されるとは思っていなかったのだろう。「どんな感じって言われてもなぁ」と三郎は独りごち、空を仰ぐ。うーん、と顎に手を当てて考え込んでいた雷蔵が顔を上げた。

「まぁ、一緒にいる時間が必然的に増えるから相手の色んな面が見えるよね。悪いところも」
「悪い所って、雷蔵、私に何か不満でもあるのか!? もし、そうだったら言ってくれっ」
「なんで三郎はそう飛躍するかなぁ……。ねぇ、兵助、これからもハチと一緒にいたいと思う?」

問いかけてきた雷蔵の円らな目には真摯な光が宿っていて、俺は「あぁ」と素直に頷いた。きゅっと張りつめていた光が緩み、雷蔵の口元がほころんだ。その隣で、いつもの皮肉めいたものとは違う、柔らかな笑みを三郎が浮かべる。

「なら、いいんじゃないかな。もっと相手のことを知る機会になるし」
「うん」
「家事が苦手って気にすることないよ。ハチが苦手な事を兵助がすればいいんだし」
「蝶結びとか手伝ってやれよ。ネクタイも下手と見た」
「もう、三郎、冗談言うのやめてよ」
「すまん、すまん」
「……とにかく、あんまり、深く考えずに一緒に住んでみたら?」
「あぁ。好きな人とずっと一緒にいるって、すごく幸せなことだからな」

想像してみる。ずっとハチと一緒にいる所を。目を開けると、ほわりとした幸せな気持ちが胸に残った。

(朝も昼も夜も、ハチと一緒か……)

棚に突っ込んだ住宅情報誌を、もう一度手にすると、俺は会計を済ませるためにレジへと足を向けた。






***

玄関の所に柔らかな橙の光が灯っているのを確かめて、チャイムを一つ鳴らす。「へーい」と外側にいてもよく聞こえるハチの声。どたどた、と慌てたような物音が続き、しばらくして床を踏みしめる音が近づいてきた。ハチの家に来るのなんて初めてでも何でもないのに、いつだって、ハチと顔を合わせるまで心臓が煩いぐらいに騒ぐ。

(一緒に暮らしたら、こういうのも、なくなるんだな)

ガチャガチャとチェーンを外す音を聞きながら、それはそれで淋しいような、けれど嬉しいような、不思議な感情に俺は囚われていた。

「おー、来た来た」
「これ、大したものじゃないけど」

半開きのドアから、エプロン姿のハチと共に食欲をそそるオリーブオイルの香りが溢れ出てくる。手土産に持ってきたケーキの小箱をハチは嬉しそうに受け取ると、扉を抑えていた腕に力を入れ扉を外側に押し出し、スペースを広げてくれた。そこをくぐり抜けるように入り込むと、美味しそうな匂いがいっそう増した。

「悪かったな、せっかくの休みだったのに、遊びに行けなくて」
「や、昼間は雷蔵と三郎と遊んだからさ。ハチこそ用事、よかったのか?」
「あぁ。けっこう早くに終わったから」

三郎に見立ててもらった、編上げのブーツをもたつきつつ脱ぎながらそんな会話を紡ぐ。飯を食べる方の部屋に俺を通すと、ハチはすぐにキッチンへと戻っていこうとした。何かすることがないか、とハチの隣に立とうとしたけれど、「いいって座ってて」と断られて。大きなビーズクッションに体を埋めたはいいものの、テレビを付ける気にもならなくて。鞄と一緒に床に置いた本屋のビニール袋から、ちらり、と覗いた住宅情報誌の大きなタイトルロゴ。

(どうやって切り出そう)

とりあえず袋から取り出してみたものの、考えても考えても思いつかなくて。リズミカルに聞こえてくる包丁の刻む音と誘われて、雑誌を後ろ手で隠しながら部屋を隔てているのれんをくぐると、ハチは慣れた手つきで鼻歌を歌いながら赤唐辛子を細かくしているところだった。一から手作りするなんてまめだよなぁ、と思いながら横顔を眺める。気持ちよさそうに口ずさんでいたメロディが、ふ、と途切れ「俺の顔、何か付いてる?」とハチが不思議そうな面持ちで訪ねてきた。あ、見過ぎた、と慌てて「いや」と否定し、辺りを見渡すと房分けされたシメジやエリンギが目に入った。

「きのこのパスタ?」
「ピンポーン。あとパルメザンチキン、ラタトゥイユ、あ、豆腐はサラダな」
「なんか、誕生日とかクリスマスとか記念日みたいだ」

豪勢さにそう呟くと、ハチは「あー、確かに」と笑い、それから「そこからパスタ皿出してくれるか?」と食器が収まっている棚を指さした。ハチの人柄のせいなんだろう、大勢が入り浸るハチの家には独り暮らしとは思えない量の器がある。バラバラとしたそれらはジェンカのように危ういバランス積み上がっていて、ハチの言っていた物を取り出すには手間がかかりそうだ。手にしていた雑誌をハチにばれないように裏面を向け、出入り口付近の床に置く。それから、ガラス越しにどうやって取り出そうか考えていると、再び聞こえてきた楽しそうなハミングに混じって「なぁ、兵助」と呼ばれた。食器扉のノブに指を掛けながら「んー?」と間延びした返事を返す。

「前さ、『一緒に住もう』って言っただろ」

言おうとしていた話がハチの口を突いたことに動転して、食器へと伸ばしかけた手を止めていた。足もとの雑誌に目が吸い寄せられる。返事しないと、と頭では分かっていても、いざ言葉にしようと思う何一つ出てこない。じわじわと速く大きくなっていく拍動に、まるで耳の後ろに心臓があるみたいで。どんどん真っ白になっていく思考に、「うん」と相槌を打つのが精いっぱいだった。

「それ、やっぱりなしにしてくれないか」

虚を突かれた。上手に呑みこめなかった。ぽつん、と取り残された言葉だけが、頭の中を回ってる。ぐるぐるぐる。ぐるぐるぐる。彼が口にした音が意味とがようやく結びついて、俺はハチの方を振り返った。胸が張り裂けそうだ。

「……今、何て?」

喉がからからに乾いて、痛い。ようやく絞り出した声は、へしゃげて潰れていた。そんな俺に気付かずいつもと変わらないトーンで「だからさ-------」と話し出すハチは、本当にハチなんだろうか。俺に話しかけているハチの顔はぐにゃりと歪んでいて、声はスローモーションが掛かって濁って聞こえる。再び告げられたフレーズは耳から入って、そこで散逸していく。現実味のない痛みに押しつぶされて、うまく息ができない。

(馬鹿みたいだ。一人で浮かれて、あんな雑誌、買って)

どうしようもない疼きに、掌に爪を立てて誤魔化そうとするけど、無理で。ぐらり、と揺れた視界が滲んで瓦解していく。急激に冷えていく胸内とは逆に、熱が喉へとせり上がってくる。泣くな。俯いて、漏れそうになる嗚咽を堪えて、口の端を引き上げて、なんとか平然を装うとする。泣くな、泣くな。泣くな。呪文のように何度も何度も繰り返し心の中で唱える。けど、やっぱりハチの顔を見たら駄目だった。駄目、だった。

「え、兵助!?」

ハチに見られたくなくて、ハチを見たくなくてその場を逃げ出す。驚く声が耳を掠めた。キッチンから出る時に何かにつまづいたけど、気にかける余裕なんてなかった。瞼裏が熱い。つん、と海の匂いが胸に広がる。玄関まで逃兎のごとく飛んできたけど、急く気持ちに上手く靴が履けない。ごちゃごちゃとした紐が、引っ張ったり解こうとすればするほど、ますます絡まっていく。まるで今の俺の気持ちみたいだ。

「ちょ、待って、兵助」

後ろから切迫した声が追っかけてきた。ブーツに足を半分突っ込んだままで飛び出そうとした俺は寸での所でハチに捕まえられた。振りほどこうとしても、ぎゅ、っと握りしめられた手首は動かなくて。押さえつけるようなハチの指を力づくで引き剥がそうとした、その時、「これ」と差しだされたのは、俺が買った住宅情報誌。羞恥にこのまま消えてしまいたくなる。力の抜けた俺に掛かる握力が緩んだと思った瞬間、引っ張られて---------そのままハチの胸の中にいた。ぎゅ、っと抱きしめられていた。「ごめん、言葉足らずだったな」と耳元に囁き。

「同棲じゃなくてさ、ちゃんとすべきだな、って思って」
「……ちゃんと?」

思わぬ言葉に顔を上げると、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、ハチが俺に笑いかけていた。

「兵助、結婚しよう」





あさもひるもよるも

Happiness main top



***

素敵企画『「結婚しよう」と君が言ったから十月二日は結婚記念日』様に参加させてもらいました!
主催者様、本当に本当にありがとうございます!! 
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -