※一部、グロ表現に注意。滝は小平太の子どもとして生まれ変わってます。



ゆっくりと降りてきた夕闇に、平の声が無邪気に響いた。「早く、早く」と。ちょっと甲高いそれは、誰もいない路地裏にやけに大きく聞こえた。呼ばれてもゆっくりと歩く自分たちを見限ったのか、平はその小さな頬を膨らますと、パタパタと軽そうな靴音を立てて駆けだした。足音がする事など、当たり前のことなのだが。『忍びたるもの』と、一瞬だけ、思った自分の愚かさを心の中で嗤った。そんなことを気にかけているのは、当然、自分だけで、ちらりと隣にいる小平太を見やっても、いつもと変わらぬ口を大きく開けて豪快な笑みを平に向けていた。

(『あの頃』じゃないなど、分かり切っているはずなのに)

だが、ふ、としたはずみで思い出すのは、小平太や平と久しぶりに会って心が緩んでいるせいだろうか。普段なら陥ることのない感傷は、あっという間に自分を飲みこんでいく。黒々とした深淵の縁に。世界が夜に塗り込められていくように。

「そんな急がなくても公園も花火も逃げないぞ。タキ、走るとこける」
「こーけーまーせーんー」

子ども扱いされたのが嫌だったのか、ませたような意地の張ったような声が振り返った平から戻ってきた。そのまま、くるりと、踵を返して走り去る後ろ姿に、いいのか、と小平太に目で問いかけると「あー、たぶん、その次の角で待ってるだろうから」と、幾分、のんびりとした調子の返答がきた。まぁ、分かってるならいいだろう、と自分も急ぎかけた足裏を手前に下ろして、ゆっくりとした歩調に合わせる。ぴかり、と西の方で煌めいているのは金星だろうか。

(空は、何も変わらないのにな)

瞼裏に残された記憶はゆっくりと溶けて、目の前の現実と重なって。どっちがどっちのものか分からなくなる。それは景色だけじゃなくて、「随分、」と、思わず零れてしまった。聞き咎めた小平太が「え?」と揺れた目を、こちらに向けていた。誤魔化すには、あまりに今の自分は弱い。

「随分、大人しくなったなと思って」
「わたしが?」
「あぁ、前と比べて」
「そーか?」

小平太は理解してるのだろうか、『前』という言葉の意味に。他意を込めた、その言葉に。話題を逸らすためなのか、それとも何も気づかなかったのか、「ちょーじ」と明るく呼ぶ声に、判別はつかなかった。

「可愛いだろ、あいつ」
「あぁ。久しぶりに会ったから、一瞬、分からなかった」
「前、会ったのは…タキが生まれてしばらくしてから?」
「あぁ。それからすぐにお前が転勤してしまったからな」

勤め人であり家庭人である彼は、ここで『守りたいもの』を見つけたのだろう。獣のように尖っていた眼光の『あの頃』からは想像のつかない、口の中で溶けていく干菓子のような柔らかい眼差しを、少し先の角に向けていた。過去の記憶がないこと彼を、ほんの少しだけ妬む。出会ってからくり返しくり返し突きつけられた痛みを小平太が分かることはおそらく一生ないのだろう。

(記憶など、なければ、よかった)



***

「なぁ、長次」
「ん?」
「長次にとって『守りたいもの』ってあるか?」

草むらに足を踏みしめた途端、黒々としたものが、ぶわり、と舞い散った。地面にのめり込んでいた遺骸にたかって食事中の蛆蝿を邪魔してしまったようだ。抗議するといわんばかりに、こちらに群がってくるそいつらを、腕を振り回して追い払う。足で軽く転がすと、苦悶の表情を貼りつけた死に顔がこちらを向いた。探していた人物とは違う、と頭に叩き込んだ人相と比べ、冷えた心で判断する。

「わたしは、ちゃんと守りたい」

何が、とは言わなかった。だから、何を、とは問い返さなかった。けど、彼の言いたいことは十分に分かっていた。分かりすぎていた。遠方にある畦道に血飛沫のような赤が葬列をなしていた。曼珠沙華だろうか。禍々しいそれは、目に痛いほど鮮やかで、私は視線を空に逃がした。先も下も見えないなら、上を向くしかないだろう。黙ったままでいると小平太がまた呼んだ。まっすぐ、こっちを見つめて。「長次」と。

「わたしは間違っているのだろうか」

すん、と鼻をすすれば、微かにする火薬のにおい。人が死ぬにおい。小平太が希う答えを、渇望している言葉を、知っていた。私も言いたいと、願った。はず、だった。それを口にすることは、けれども、ついにできなかった。




***

「ほら、いた」

平には聞き取れないよう、耳元で囁かれた小平太の声は、面白がるようだった。その言葉に目を凝らすと、隠れきれていない、小さな靴がひょこりと電柱の陰から覗いているのが分かった。そわそわとしている様子から、こっそり驚かそうという心づもりなのだろう。極力、さっきと変わらないように歩き続け、その電信柱を通り過ぎて----------。

「わっ!」

腰の辺りに、どんっ、と軽い衝撃がぶつかった。てっきり、小平太の方を狙うとばかりに思い込んでいて、平の行動に正直に驚いてしまった。あんぐりと口を開けたままの自分に「ふふふ」と平が笑いかけてくる。あんまり子どもは得意じゃないんだが、と内心呟きながらも、とりあえず筋肉を総動員して口角を上へと動かしてみる。

「早く、花火、しましょうよ」

たどたどしくも敬語な平が、自分の方に手を伸ばした。傷も汚れも一つとしてない、その小さくて柔らかい掌。その稚い手に引かれ、目的地へと足を向けた。

(これが、小平太の『守りたいもの』か)



***

「ありがとな、花火」
「……何がいいか分からなかったものだから。もう秋なのに」
「いや、嬉しい。タキ、綺麗なものが好きだから」

少し離れた所で手持ちの花火を揺らしながら、きゃっきゃと声を上げてはしゃぐ平を、小平太は愛おしそうに見つめていた。その横顔は『あの頃』と変わらない。今なら言えるようような気がした。あの日、あの時、言えなかったことを。彼が望み、そして、私が言いたいと願った言葉を。

「なぁ、小平太」
「んー? 何だ、ちょーじ?」

間延びしたような返事にかぶせるように、何気なくその名を呼んだ。「平は」と。途端に「長次」と低い声が腹に響いた。

「今はタキだ」

その鋭さに、はっ、と息をのむ。それは小平太も同じだったようで、自分が発した言葉の強さが信じれないとでもいうように、目を大きく見開かせていた。それから、おどおどと視線を泳がし、しばらくの空隙の後、「ごめん」と小さく呟く。闇に翳っていた表情がさらに暗くなった。

「あぁ、すまない」
「長次が謝ることじゃないんだ……少しだけ、怖いんだ」

そっと忍ぶように顔を平の方に向けた小平太につられ、そちらを見遣る。平の手にある花火は鮮やかな赤色だった。曼珠沙華のような毒々しさのない、綺麗な光。『あの頃』は血の花を咲かす道具だった火薬は、今は、こんなにも美しい花を闇夜に描く。

「わたしは、ちゃんと守れるんだろうかって。…記憶なんて、何一つ残ってないのに、想像できるんだ」
「何を?」
「もうちょっと歳を重ねたタキの、泣いてる顔が。
 だから、きっと私は滝夜叉丸をたくさん泣かせたのだろう、って。いつかそれをタキは思い出すかもって」

混乱に充ちた瞳が俺に縋りついていたのが暗がりにもはっきりと分かった。あの日、あの時と変わらない。

「思い出さないかもしれない」
「そうだね。けど、」
「……思い出したとしても、辛い事ばかりではなかっただろう。
 お前は記憶がないから分からないかもしれないが、お前と平は確かに幸せだったんだ」
「…長次」
「お前は、間違ってない」

あの時、言えなかった言葉を口にしても、それでも、「けど」とまだ言い募ろうとする彼を「小平太」と遮る。ようやく私は理解した。記憶があるでもなく、記憶が共有できないからでもなく、小平太が苦しんでいる事を、彼の痛みを分かることができなかった事が、苦しかったのだと。それに気づかず、記憶のない小平太は幸せだ、と思い込んでいたのだ。

「だから、これからも幸せになるんだ」

遠くで平が喜ぶ声がする。「きれー」と。さぁさぁと優しい音を立てて、光の花びらが散っていく。それは、あの頃、自分たちが希っていた光景だった。



幸福は連鎖してゆく

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