「ふぁぁ」

寒さのせいだろうか、凝り固まった背筋を伸ばすと、自然と欠伸が漏れた。
自分たちの住まいである長屋は、まだ眠りに沈み込んでいて、衣ずれ一つ、囁き声一つしない。
今日は授業日ではないというのに、いつものように目が覚めてしまった自分を恨みつつ、縁側に腰掛け、地下足袋の金具を止める。
そのまま地面に降り立つと、すぐに足指の先から冷たさが浸されていくのが分かった。
よく見れば、塀の影の草や土に、びっしりと白い霜が降りている。

(昨晩は冷え込んだからなぁ)

朱鷺色をした美しい朝焼けを見上げ、軽く足首を回すと自主練習に使うコースに足を向けた。



ふ、と乾いた風に甘やかな薫りが混じった。
何の匂いだったろう、と思わず足を止め、記憶を浚う。
辺りを見回しても芳香の元となりそうな色はなく、ただただ、暗色に塗り込められた荒涼とした世界が広がっているだけだった。

いつもなら、それ以上追及せず、立ち去っていただろう。
もともと物事には執着しない性質(たち)だ。
けれど、今朝だけは、何故か違った。

その薫りに手繰り寄せられるように向かった先に、微動だにしない、一つの背中を見つけた。

「綾部? 何をしてるんだ?」

背後から話しかけると、柔らかそうな髪が波打った。
猫のような大きな瞳が真向けられ、私を穿つように視線が注がれる。
揺らめきの一つもない透いた光彩が何かを言いたげな気がして、じっと待った。
動きかけたように見えた唇は、けれど、空気を震わせることはなく、また背中を向けた。

(なんだ?)

「隣、いいか?」

彼が何も言わなかったのを了解と勝手に受取り、隣に座ろうとして、あぁ、と嘆息が漏れた。

「薔薇(そうび)、か」

痛々しいほどに、凛と咲き誇る小さな薔薇。
白い氷の針がびっしりと突き刺さった花弁は色褪せて。
けれど、枯れ草と霜の、寂れた色合いの中では、その赤が、やけに鮮やかに見える。

-----------------まるで、世界がその色しか知らないみたいに。

「…こんな時期に咲くこともあるのか?」
「冬薔薇、なんて言葉がありますからね」

独り言のつもりで呟いた言葉に返事が返ってきて、思わず彼の方を振り向く。
彼はそれを知ってか知らずか、「けれど、もう終わりですね」と続けた。
淡々としたその言葉は、たぶん、どうしようもない事実で。

せめて分厚く被さっている霜だけでも払ってやろうかと、薔薇に指を伸ばした。

「っ」

しくり、とした幽かな痛みに思わず声を漏らすと、「見せてください」と強引に手の自由を奪われた。
検分するような迷いのない彼の指先は、穴を掘るせいか土に汚れ、つぶれた豆が固まっていた。
けれど、その掌は温かく、心地よかった。

「…何故、そんなことしたんです?」
「え?」
「霜、払おうとしたんですよね?」
「あぁ」
「何故です? どうせ、もう、枯れるのに」

淡い墨色の虹彩が、息を止めたように、静かにまっすぐと俺を見つめていた。
“美しい”“可哀想”と、頭に浮かぶ言葉は、どれも陳腐で。
そして、どれも、違うような気がした。

(…何でだろうな)

「やっぱり、棘が刺さってましたね。あんまり深くはないですけど。……抜けましたよ」

ふ、と留められていた視線が外れ、私と彼との間で滞っていた空気が動き出す。
短い爪で摘まんだ棘を投げ捨てるのを見送り、満ちてきた太陽に霜が溶けだしているのに気づく。
まるで玻璃を砕いてまき散らしたように水滴がきらきらと光を跳ね返し、覆われていた霜の下から鮮やかな色が露わになっていく。

「ありがとな」
「あぁ、でも、血が出てますね」

ぽつりと浮かんだ血の球を認めていた時には、指先に温かさを感じていた。

「っ…な、何やって?」
「何って、舐めただけですよ? 消毒です」

(顔を上げた彼の髪から、冬薔薇と同じ甘やかな馨が零れた)




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