竹久々(現代)


※シリアス

「ハチ」

手元だけが妙に深い照明に預けられているだけの薄暗い店で容貌ははっきりとしなかった。だが、一発でカウンターに座っているのが俺を呼び出した人物だと分かり、俺は背後から声を掛けた。振り向きざまに「悪かったな、急に」と笑いかけたハチの唇が、ふ、と途中で止まった。

「外、雨降ってるのか?」

きょとんと驚きの含んだ眼差しで問われたが、逆にそう聞かれた意味が俺も分からず「いや?」と語尾が上がる。来た道は冬独特の凍り付くような空と、蕩けるような黄色が成熟しきって琥珀のような月。雨が降りそうな気配は全くなかった。ハチも少なくともこの店に来る前は晴れた夜を体感しているはずなのに、と不思議に思い、どうして、と目配せすれば、ハチがほらと顎をしゃくった。

「髪、濡れてる」

こんな灯りの少ない中で気付くものなのだろうか、という驚きと、それから、焦って飛び出してきたのがばれたんじゃないかっていう気恥かしさと。あとは、些細なことを見出してくれたことへの歓びと。ありとあらゆる感情が入り混じって、ハチを直視できなかった。コートを脱ぎながら隣の椅子に掛け、答える。

「あー風呂、入った後だから」
「げ、なのに来てくれたのかよ」

まじ悪かったな、と平謝りする竹谷に「いや。別に、暇してたし」と事実を述べる。今日は珍しく定時に上がれた。だが、だからといって、特別することもなくて(先輩から飲みの誘いはあったが丁重にお断りさせてもらった)アパートに帰ってきて。そういえば、洗濯ものが溜まっていたから回すか、と思いついて。それなら、ついでにと今来ている服も洗ってしまおう、と珍しく先に風呂に入って。上がって髪をタオルで拭いているところで受けたのだ。ハチの電話を。

(……まぁ、飛んできた、だなんて言った所で、まぁ、鈍いこいつのことだから気付かないだろうけどな)

秘めて秘めて秘め続けてきた感情だ。ちょっとのことじゃばれないって自信もある。そはそれで、逆に哀しいけれど。椅子に着いてもなお「本当に悪かったな。つうか、風邪引かないか? 大丈夫か?」とひとりおろおろしているハチに「大丈夫だって」と笑けれど、ちょっとだけ泣きたくなる。------------ハチにとって、俺はあくまでも親友で、親友として心配してくれている、と痛いほど分かってるから。

「けどさ」
「あのなぁ、呼び出しといて帰れってのはないだろ」
「まぁ、そうだな」

ようやくハチが納得した頃、会話の切り目を察したかのようにバーテンダーが音もなく俺たちの間に入り込んできた。影にも似た黒服に「ジャックダニエル。ロックで」と告げると、ハチに目を遣る。ほぼ空になりかけていたグラスを「同じの」と彼はカウンターの奥に押し出した。密やかに一礼するバーテンから俺はハチに視線を向けた。

「ハチの方こそ忙しかったんじゃないのか?」
「は?」
「目、赤い。あんま寝てないんじゃないのか?」

薄暗いからはっきりとは分からないが、目尻から内側に向けて少し充血しているような気がして指摘すると、ハチは「あーちょっとバタバタしてたからな」と頭をかいた。それ以上口にしないハチに俺は話題を代えた。

「落ち着く店だな」

絞られたサクソフォンのメロディがゆったりと店の中を回遊している。店の中は俺たち以外にも数組の客がいたが、その声は音楽に潜み馴染んでいて聞こえない。幽かに揺れる空気に、あぁ、誰かが笑ったんだ、と気配が伝わる程度の店の雰囲気が心地よかった。

「お! 気に入った?」
「あぁ」
「よかった。兵助、好きそうだな、っと思ってここにしたんだよな」

何気ないハチの言葉が心臓に悪い。まだアルコールを含んでもないのに心が茹だって顔にまで熱が昇る。暗いから気づかれてないはずだ、と言い聞かせるけど、次にまともに目が合ったら終わりな気がして、俺は目を伏せた。爪を指に突き立て、カウンターの木目を数えながら、落ち着け、と深く息を吸い込む。と、ねっとりとした琥珀が俺の胸腔に帯びる。

「どうぞ」

元は白だったんだろうけれど、天井から照らされる光によって、まるで今夜の月みたいな糖蜜色に染まったシャツが、す、っと俺の方に伸びてきた。その袖よりも、ぐっと深い、懐古が差し出されたグラスに注がれている。どうも、と目礼だけを捧げ、俺はグラスに指を這わせた。触れた冷たさが心地よい。じわじわと解けていく熱に、少しだけ冷静さを取り戻した気がして、俺はハチを一瞥した。

「というか、よくこんな店、知ってたな」

電話を受けた時に、彼の背後がずいぶんと静まり返っていて、思わず「まだ会社?」なんて聞いたら「いや、もう店に入っている」と言われて不思議だったのだが、この店であれば静かで当然だ。騒がしい酔っぱらいの声なんて入ってこないだろう。だが、ハチと飲みに行くことも多いが、大抵、安い居酒屋でビール飲んで唐揚げをかっ食らうのがパターンだっただけに、こんな洒落た店でハチと落ち合うなんて想像だにできなかった。だから半分、からかうつもりで口にしたのだが、

「あー、あいつにな、前に教えてもらったんだよ」

原酒と鬩ぎ合っている氷が、きしきしとグラスを震わせている。いや、グラスを掴んでいる俺の指が震えているんだろうか。それとも俺の心が軋みを立てて悲鳴を上げているのだろうか。それさえ、分からなかった。そのどれものような気もした。グラスを一度離し、確かめるように拳をきつくきつく握る。

(……何、同様しているのだろう。今更なのに)

ハチの言う『あいつ』とはハチの彼女だった。もう三年も付き合っている。ハチと遊んでいるときはたいてい彼女のことは話題に上ってくるのだから、ハチの口からその名前を聞くのだっていい加減慣れたはずだった。作り笑いしながらハチののろけに相槌を打つのだって、平気なはずだった。なのに、ふ、と彼の口を出て突いた言葉に、まだ飲んでもいないのに、視野がぐらりと歪み心臓が膚に押しつけられたみたいにすぐ傍で拍動を感じる。

(こんな場所だからかもしれないな)

いつもの馬鹿騒ぎするような飲み屋だったら「へぇ、そうだったのか」といつもと変わらずに相槌を打てたかもしれねぇ。けど、こんな店だからだろうか「あいつ、って彼女さん?」と俺の口から出た言葉は、ぎこちなく、そして酒焼けしたみたいに酷く掠れていた。あぁ、と頷いたハチは彼の新しいグラスにその手を伸ばした。ぐっと力を指先に込めているのか、元々ごつごつしている指の背がますます張り出てみえた。何の躊躇いもなくハチはそれを呷った。

(大丈夫だろうか?)

酒に弱いわけじゃないのは知っているが、かといって、ストレートのウィスキーをいきなり全て仰ぐようなやつじゃないこともまた知っている。だが、俺の心配を余所にハチはグラスを傾け続けていた。ぐ、っとせり上がった喉仏が、大きく揺れ動く。たん、とグラスをテーブルにたきつけるように置いたハチに、カウンターに添わせていた俺の肘が痺れた。

「俺、まだ兵助に言ってなかったよな」

どうしたんだよ急に、と喉の先まで出かかっていた言葉は蒸発してしまった。改まって真向けられたハチの目には冗談の入り込む隙間はなくて。結婚の報告でも受けるんだろうか、なんて暗憺としたものが俺を動けなくする。いつもの騒がしい居酒屋だったら煩くて聞こえないこともあるのにな、とグラスの中で未だ氷が軋んでいる幽かな響きでさえ聞こえるこのバーの穏やかな静けさを俺は恨んだ。きっと耳を塞いでも、きっとハチの声は届くだろう。決まらない覚悟に、俺はぎゅっと目を瞑った。

「あいつと別れたんだ」

からん。ぱ、っと明るくなった視界に、今夜の月を溶かしたような色合いのアルコールが息巻いているグラスが目に入ってきた。

「え?」
「別れたんだ、あいつと」

嬉しいのか哀しいのか、分からなかった。そりゃ、ハチがフリーになったことは喜ぶべきことなのかもしれない。けど、彼女と別れたからといって、その気持ちが俺に向く訳じゃないから。------それに、何より、ハチの目尻が赤いのはアルコールに染められたものだけじゃない、と知ったから。

「そっか」

ハチの痛みに気付きながら慰めの言葉一つ出てこない。グラスに溶け出した月を俺は飲み干すしかなかった。薄情なやつだ、とこのまま嫌われたら諦めがつくのだろうか。ぐらり、と歪み滲んだ。頭の中も視界も。熱い。気持ち悪い。

「おいおい、無理するなよ……って、何で、お前が泣いてんだよ」

お前が俺の前で泣かないから、その叫びは空になったグラスの中にある氷で弾け散った。






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