10


 涙をこぼす王女をクリストフは驚いて見つめた。
 分かっていた。知っていた。何を、どこまで、気づいていたのだろう。
 問おうとして、体に異変を感じた。胸からせり上がるものがある。口元を抑えて耐えるが、何かが指の間からこぼれる。赤い花びらに似た、何か。
 それを血だと認識する前に体が傾(かし)いだ。
 椅子から倒れ、床に落ちる。
 グラーヴィアがクリストフに駆け寄る。
「クリス!」
 ごめんなさい、と繰り返す声に、自分は毒を盛られたのだと気づく。
 彼女の涙がクリストフの頬に降りかかる。温い。
 体の外も内も熱いものがあるのに、何故かとても寒かった。こんな寒さは幼い頃に感じて以来だった。


 ――あの街は花で溢れていた。
 その花と同じ数だけ幸せがあると思ったのは五歳までで、それからは惨めな人生だった。
 生きるために盗みに入った屋敷が、不幸なことに人買いの住処で、人身売買にかけられた。買われた先が国の機関だったことはお笑い種だ。結局、汚い仕事をするのは、自分たちのような根無し草なのだ。
 間者になるよう教育され、仕組まれた社交界へと出席し、そして出会った。
 愛しい人、グラーヴィア。
 彼女の兄、ヨハン。
 この国の民。
 優しさにあふれた国。
 この国を救いたかった。
 過ちに泣いている王女を守りたかった。
 全てを告白して……許されたかった。
 涙が出た。
 滲む視界の隅で、グラーヴィアが何かを煽る。クリストフの側へと来ると寄り添うように体を横たえた。
 思うように動かない腕で彼女を抱き締める。どんな仕打ちを受けてもまだ彼女のことを――。
 喘鳴の中で言葉を発する。
「一緒に来てくれます、か」
 叶うことなら、グラーヴィアを連れて逃げ出したい。
 どこか、誰も二人を知らない場所で静かに時を重ねたい。
 優しさがあふれるように、花が咲き乱れる場所で、ずっと、二人……。
「私と、逃げてくれますか」
 胸郭が動く度、ヒュ、と空気の抜ける音がする。目を閉じると意識が沈んでいく。眠るように気持ちが良い。
 グラーヴィアは小さく言葉を返す。
「連れて行って、くれますか」

 ***

 やがて、王女も唇から赤い花びらを散らした。
 それは深緋(こきひ)色の花に似て、美しい。
 二人は、ゆっくりと眠りに落ちていった。寄り添って眠りにつき見る夢は、きっと幸せな夢に違いない。


花 了

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