闇に惑えば


 闇を疾走する。鼓動だけがうるさく、流れ出る血液が肌を伝って熱い。
 前を行く背中が霞んで揺らいだ。重量感のある音を立てて躰が地面に倒れる。自分の躰なのに思うように動かせない。
 その音に気づいた背中が振り返って止まった。駆け寄る影。
「葵」
「行って!」
 影――暁が逡巡する気配がした。迷いを見せる相手に更に畳みかける。
「いいから、後で追いつくから……行って」
 葵は切れ切れの言葉を何とか絞り出す。このままでは二人共捕まってしまう。焦れば焦る程、躰は動かず立ち上がろうとすれば膝がわらう。一向に逃げる素振りを見せない暁にも苛立ちを感じた。
「逃げて」
「どこか隠れる場所を探そう」
「そんなことしてたら、捕まっちゃうよ」
「もう国境からは離れた筈だ」
 運が良かったな、と暁は笑った。


 半ば暁に抱えられて手近な廃屋に移動した。
 見捨てられた町は酷く心細かった。誰かが――おそらく小さな子供が――落とした人形や、置きっぱなしにされた車――もちろん廃車だ――が木枯らしに吹かれている。屋内に入ると食堂のテーブルに出されたままの食器が埃を被っていた。
 ライフラインは生きているらしく暁が蛇口をひねると錆び臭い水が出た。不衛生ではあったが、葵はその水で口を潤し、肌にこびりついた血液を濡らした布で拭き取った。傷口を洗い流すことは迷った末、やめた。
 暁は葵の両手の火傷を何とかしようとした。銃の弾詰まりが原因の火傷で、改めて見ると苦い思いが込み上げる。計画が狂ったのはこの傷を負ったせいだ。


 葵はピアニストだった。華やかな演奏会などで弾くのではなく、酒場の余興で弾くしがないピアニストだ。暁は葵のパートナーで、葵の奏でるピアノに乗せて歌をうたうのが常だった。
 時折、歌い手が女でないと嫌だと言う客がいた。葵は歌手としても生計を立てていけるが、暁以外の伴奏者とは歌う気はなく、暁は楽器を弾けない。客の要望に応えられなかったことを理由に二人は店を辞めさせられた。そんなことが何度も続き、転々と店を渡り歩いた。
 六度目の転職の時、葵が暗闇の中から誰かに撃たれた。幸い弾は葵の体をかすめただけだった。


 暁が何度目かの襲撃者を問い詰めて分かったのは、葵たちがいた最初の店の従業員が全て狙われているということだった。
 店の経営者だった男はすでに殺されていた。
 恐らく経営者は口封じの為に殺され、従業員もそのとばっちりを喰らったのだろうというのが暁と葵の見解だった。


 事態が大きくなってから、葵たちは亡命を考えた。なかなか仕留められない二人をとうとう国の機関が狙い始めたのだ。
 葵と暁の才能を買ってくれた客の一人が亡命の手伝いをしてくれた。国境警備の目をくらますことと、銃を渡してくれた。
 暁は武器の携帯を頑なに拒んだ。反対に葵は武器を持つことに積極的だった。葵が銃を持つことにさえ暁は嫌がったが、最後には暁の方が折れた。
 そして決行の夜に国家機関と国境警備隊、それに葵たちも含め、誰が敵か味方か分からぬ銃撃戦になったのだ。


 血を流し過ぎたせいか頭が朦朧とする。止血は十分ではなく、流れる赤い線が腕に緩やかなカーブを描いて暁の腕へと繋がる。
「ねぇ、この手、元に戻る?」
 葵は後ろから躰を支える暁にもたれかかって静かに目を閉じた。
「ピアノ、弾けるかな」
 現実味のない言葉が虚空に漂う。暁はそれを逃がさないように力強く頷く。
「ねぇ。私のことは置いて行ってね。何だかとても、眠たいの」
 わかった、と暁は答える。置いて行く、と素っ気ない。けれど、いつまでも抱きしめる腕の力を緩めようとはしなかった。


闇に惑えば 了

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