マツミナ/どうか、どうか優しい世界をわたくしに


 どうか、どうか優しい世界を僕にください。
 知ってしまった未来を嘆くこと。そんなことを僕は出来ない。それをするには知ってしまった未来が多すぎた。明日のこと。明後日のこと。明々後日のこと。それよりもっと先のこと。断片的ではあれど、それら多くのことを僕は知ってしまった。理不尽を嘆くには多すぎて、涙を流して悲しむには水が足りない。僕はただ、空っぽの人間になるしかなかった。それが僕にとっての最善策である、自己防衛だ。
 なぜ、僕だったのだろう。そう考えることもある。未来を知ったら空っぽになるしかないような凡人である僕が、なぜこんな能力を持ってしまったのだろう。もしこの能力が虹に選ばれたあの子にあったのなら、きっともっと世界は素晴らしいものへと変わっていっただろう。それが理想ではないのだろうか。
 虹を求めたのは周りにそう仕組まれたからで。年月を経るにつれて未来をより多く知って空っぽになっていった僕を、周りは真理に近付いたと言ってもてはやす。やはり僕こそが虹を降ろすに足る人物なのだと。そして当然、周りのそれは大きな勘違いだ。
 虹に選ばれたあの子を見た周りの人々は気がつかなかった。否、一部は気がついたのだ。僕よりずっと純粋で、空虚で、孤高で、ひとりぼっちの無色透明で、0のあの子。何をかけてもあの子は変わらず、何かを足せば柔軟に変わる。しかし、その0を人々は決してうやむやにしたりなかったことには出来ない。あの子は先天的絶対の神なのだ。あの子の前では虹すらも首を垂れる。そういうものなのだ。天より授かった天賦の才というものはああいうものを言うのだ。天才みたいに俗世的で人間じみた名称はどこか似合わない。あの子はまさに神様なのだ。
 だから僕は必要以上にあの子を妬まない。ただ、修行の日々が無駄になったことを悔しく思った。僕の方が頑張ったのにと。でもそれはお門違いだ。あの子は虹を望んでいたわけじゃないのだから、立つフィールドが全く違う。今思えば、悔しく思ったその時は空っぽの僕がいつよりも感情豊かだった時だろう。
 あれからしばらく経って。あの子はチャンピオンとなったという。やっぱりと思った。あの子は何に負けることもない。だから必然だったのだと。しかし、ある日道すがらで出会ったあの子は言ったのだ。
−「勝てないと思ったことなんてたくさんあります。」
−「マツバさんの努力やウツギ博士の優しい心。」
 そして。
−「ミナキさんの努力だってそうでした。」
 そこで僕は古い友人の名前が出たことに驚いた。同時に、かの北風を追っていた彼の末路を見てしまった。
 彼も、選ばれなかったのだ。

 それからどうやって連絡を取ったのか思い出せない。ただ、必死だった。同じような思いをしたのだろうとも思った。けれど、彼は僕よりずっと真剣に向き合っていたのだ。自ら興味を示し、自ら調査し、自ら追いかけ、何度だって北風を目撃している。そんな彼がこんな末路を受け入れられるとは思えなかった。
 やがて久しぶりに再会した彼に僕は大丈夫かと聞いた。彼は目を少し見開いて驚いてから、笑った。
「そりゃ、最初は悔しかった。妬ましかった、悲しかったさ。でもな、私はこれで良かったのだと思う。」
 彼は言う。
「私はスイクンがあの子を選んでゲットを望んでボールに収まった時、私はスイクンを捕まえてどうしたかったのか分からないと思ったんだ。だって、最初から考えていなかったんだぜ。ただ、スイクンを追いかけて、ゲットして。それから何がしたいんだ? 私はスイクンをコレクションするつもりはない。私はスイクンと共に過ごしたかっただけだ。それなら、それはゲットなんて経る必要はないし、スイクンが私を選ぶ必要もない。」
 彼はそこで一旦口を閉じて、また軽やかに話し出す。
「尤も、あの子はスイクンを望んじゃいなかった。でもゲットされることを選んだスイクンは望んでいたのだろう。あの子のポケモンとなり、あの子の役に立ちたかったのだろう。だったら、私がスイクンをゲットしたい気持ちとスイクンがあの子にゲットされたい気持ちと、あの子が何も望まなかった気持ちなら、優先されるべきはスイクンの気持ちだろう。だから、私はいいんだ。」
 そしてこれは自己犠牲ではないと。
「これは私のあるべき末路だったんだ。」
 そう言って笑った彼に、僕は頬を何かが伝ったのを感じた。
 僕はあまりに浅はかな考えをしていたのではないか。彼は確かに悲しんだ妬んだ。けれど、自分が納得する理由を見付け出した。僕よりずっとずっと錯乱しても仕方ないのに。そう、彼は強かったのだ。まさにあの子の言う通りに。
 僕の涙を見て、白いハンカチを差し出してくれた彼の、そのハンカチを手にとって僕は零す。
「きっと、ミナキ君の生きる世界は僕とは違うのだろうね。」
 何も含まず、ただ羨ましいと思った。彼は未来を知らない。未来をほんの少しも知らない人間の思考を僕は初めてこんなに近くで感じた。未来をちょっとも知らないからこそ、彼は充実しているように見えた。何も知らないからこそ大変だと思うし、僕のように空っぽになれないからこそ苦しみも多いだろう。でもそれ以上に、彼はスイクンと共に歩む未来を信じられたし、彼はスイクンがあの子の元で必ず活躍するのだと信じられた。きっと、後者は当たっているのだろう。でも僕は後者すら考えられない。考えるには様々な未来を知り過ぎていた。
 僕の言葉を聞いた彼は困った顔をした。
「そうかもしれないな。十人居れば十人とも違う世界に居るのかもしれない。でもそれは悲しいことでも、羨ましいことでもないぜ。だって私たちは自分だけの世界を持てているということじゃないか。それは何より幸せだろう。」
「そうかな。でも、僕はそんな世界がないように思える。そんな幸せな世界なんて。」
「きっと気がついていないだけだろう。ああ違うか、まだ成長していないんだ。」
「成長?」
 僕が聞き返せば、彼は微笑んで続けた。
「世界は変化していく。それは一つの成長で、きっと成熟した世界はその人にとって幸せなものだ。」
「つまり僕はまだ未熟だということかな?」
「気分を悪くしたらすまない。でも、そうだろうなと思うぜ。だからな、マツバの世界はこの先、必ず幸福なものになるさ。」
 その考えに、それは救済だと思った。彼は僕を救おうとしているのだと。そうして差し伸ばされた手を、僕は取るべきか迷う。本当にそうだろうかと、猜疑心が湧いた。あまりに多くの未来を知った。多くの人の、とてもじゃないが幸福には思えない未来を知っていた。
「きっとそれは夢物語だよ。」
「そうだろうか。でも、人生には波があるものだぜ。幸福な時も不幸な時もある。私が言いたいのは、不幸を感じない世界ではなく、幸せを肯定していられる世界を言いたいわけだが。どうだ?」
 そう言われて、すとんと納得した。彼は未来の不幸を否定しない。それならば、僕は彼の手を掴んでもいいと思える。
 だから、僕は言うのだ。
「僕を導いてくれないかな。」
 彼はもちろんだと笑う。でも私にできることは些細なことだけどなと。でも僕は食いつく。だけれどもと。
「優しい世界を僕に頂戴。」
 きみの世界で僕を導いて。

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