マツミナ/きらきらくるくるぱっ/現実感を失ったマツバさんの話


 歩くと近付くようで、その実、離れている。それこそが僕たちだったような、気もする。ような、と何だか全てが曖昧だ。
 過去のことがあまり思い出せない。それは普通のことであって、案外そうでもないことだ。僕は記憶力が良い方だと思っていた。けれど、最近はなぜか昔のことがあまり思い出せないでいる。思い出そうとすれば、その思い出がどんな器に入っていて、どんな味がしたかは分かる。けれど、それ以上が分からないのだ。細かなことが分からないといっしょくたにするのは何だか違って、細かいことは当然、有る程度までの大きいことだって思い出せないのだ。
 何故だろうかと思いながらも、ふわふわとした日常を繰り返す。そしてふとした瞬間に、今さっき自分は何がしたかったのかが思い出せなくなる。今のところ大した影響は出ていないけれど、このまま続くと問題なのかもしれない。そんな他人事みたいに考えては、はて何が問題だったかな、なんて。堂々巡りじみている。
 カラカラと僕の家の戸が開く音がした。誰だろうと玄関に向かう。板張りの廊下はひんやりとしていて、その冷感を素足の裏から感じた、ような。玄関が見える位置になれば、やあとミナキ君が笑っていた。
「久しぶりだな。」
 その目が瞬いて、僕もつられて瞬けばミナキ君がどんどんと明確になっていく気がした。どこかふわふわとした世界でミナキ君が明瞭な存在となっていく。現実の全てが集約されたかのような彼に、視界に、僕は唖然とするしかなかった。
「マツバは元気だったか?」
 私は健康そのものだぜと笑うミナキ君に、僕はどう返したのだろう。もう思い出せない。なのに、思い出せないというそれが初めて痛みを伴った。胸を押さえて呻けば、ミナキ君が驚いて駆け寄ってくれた。そしてそっと背中を撫でてくれるので、僕はぽろぽろと言葉をこぼす。
「いたい、こころが、いたい。」
 ミナキ君はただ無言で背中を撫でてくれ、僕はいたいとだけ繰り返す。
 それは心臓を締め付けるかのような痛みに対するものだったのに、いつの間にか此処に居たいの意味と混ざって行く。
(まぼろしみたいなせかいはもうたくさんなのだ。)
 ふわふわと現実味のない世界が僕の異常となっていく。現実で生きたいともがくように叫ぶ。いたい、僕はいたいのだ。
「なあ、マツバ。あの子にもう一度会ったか。」
 ミナキ君の言葉に、僕はすとんとわかったのだった。
(ホウオウはあの子を選んだ。)
 その瞬間から僕の記憶は曖昧になり、世界は輪郭を失った。嗚呼、単純なことだったのだ。
「今は眠るといいぜ、マツバ。」
 ありがとう、そう返したかったのに意識は急に落ちていった。

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