桜が舞う中できみは目を閉じていた。桜の根に覆われたきみは目を開くことはない。その頬に僕はそっと指を這わせた。何も飲み食いしていないのに、その肌はきめ細やかで水々しい。

僕は桜に囚われる前のきみを知らない。だから僕はきみの名前を知らない。否、知らなかった。昨日、荷物を出した時に見かけた古い新聞にきみのことが書いてあった。
山中にて行方不明。もう一週間になるから助かっているとは考え難いと。
名前はミナキ。年齢は23歳。まだ希望に満ちた年齢なのに、きみは桜に囚われた。この妖怪桜は年中満開で、その養分(妖分)を生き物から奪う。桜が人の血で染まるとは、なんと分かりやすい例えか。まあ、この桜は妖怪桜なのだけれど。
きみの頬から手を離して周りを見渡す。ころころと転がる幾つもの白骨が少しばかり眩しい。人骨が少なく動物の骨が多いのは、こんな山奥に人がやって来ることが少ないからだ。じゃあ僕は何でこんな山奥にいるのかと言われれば、まア、僕は人じゃないわけで。

僕は所謂化け狐の一種だ。長く生きた僕は人里の神社で暮らしている。お狐様やお稲荷様なんて呼ばれることもある、人からしてみれば神様のひとつらしい。
僕は大きくふさふさとした尻尾を揺らして桜に寄りかかる。僕はこの尻尾を隠したことがない。隠すことも出来るが、人に人と思われることは面倒だからだ。後で隠していたのかと罵られるなんてまっぴらだ。
さて、僕が何故ここにいるのかということ。ずばりただの花見だ。年中満開の美しい妖怪桜ほど気まぐれな花見に適した桜はないだろう。周りに転がる白骨なんぞは僕は気にならない。人は怯えるのだろうけれど、生憎様々僕は人じゃあない。

「きみは怖くなかったのかい?」

返事が来ないことを当然として僕は言った。ミナキというきみは人だろう。人は白骨に怯えて去ることが多いから人はあまり喰えないと妖怪桜がいつだったか嘆いていたことを思い出す。あれはいつのことだったか、数百年前だった筈だ、長く生きる僕はそんな些細なことをイマイチ覚えちゃあいない。そしてそれを嘆くやつもいない。

僕は持ってきた酒と稲荷を食べる。気まぐれに酒を少しと稲荷を二つ、きみの前に置いてみる。なかなか絵になるではないか。満開の桜と酒と稲荷と贄と。よいよいよいだ。漢字にするなら良い酔い宵だ。ああしまった今は宵ではないか。ならば最後のよいはも一度酔いだな。酒が美味い。ちなみにこの酒は捧げ物だ。確か近隣に住む老父からだった筈で、まだ六つだと思ったらもうアレも米寿になるとか。人の老いはなんと早いものか。アレが死んだら今度は誰が酒を捧げるのか、まア神主にねだれば何とかしてくれるだろう。今日酒が飲めたのだからそれで良いではないか。

くいっと酒を煽って、よっと立ち上がる。持ってきた酒と稲荷が無くなった。そろそろ帰り時だ。

「じゃあまたね、ミナキ君」

気まぐれにそう声をかけて、僕はその場を去るのだった。





狐の花見酒
(次来た時には、)
(白骨かも知れないけど)

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