燭獅子/逃避行


 世間知らずでも逃避行したいの。
 獅子王くんは語る。じっちゃんに会うよりもっと前。自分はどこか天上世界のような場所に居たのだと。
「ずっとかみさまに近かった気がするんだ」
 そこにいた頃の自分は愛する者も無く、懐く相手も居らず、知識なんてひとつも無くて、喋ることも出来ずにただ居たのだと。
「じっちゃんに会って、全部変わったんだ」
 だからもしかしたらアレは人の胎内のような場所だったのかもしれないと、獅子王くんは笑っていた。

 そんな話を前に聞いたからだろうか、逃避行したいと言い出した獅子王くんに僕は神様の所に行くのかいと返した。驚いて目を見開く獅子王くんは、違うと頭を振ってから、からかっているのかと不思議そうにした。だから前に話していたことを伝えれば、ああと笑った。
「あそこにはきっともう行けねえよ」
 じゃあどこに行くんだいと聞けば、獅子王くんは僕の手を握って、一緒に居たいと言った。その手が震えていて、目があまりに真剣だったから、大切な言葉を言われたのだと僕は理解した。燭台切と一緒に居たいと繰り返す獅子王くんに、ならばと僕は彼の手を握り返した。
「僕の秘密の場所を教えてあげる」

 厨を歌仙くんに任せて、僕は獅子王くんを導いて歩き始めた。戸惑うように不安そうにする彼に、大丈夫だよと笑いかけて僕は歩き続けた。
 初夏の真昼間、草を踏んで進む。じわりと暑い日差しが肌を焼く。進むごとに木の葉が茂り、木漏れ日の中を歩くことになる。歩いて、歩いて、でもここは本丸の中。広い本丸の、一部。きっと僕だけしか知らない場所。ふっと開けた視界の先には小さな離れがあった。
 獅子王くんと一緒にその小さな家に向かう。そこは案外しっかりとした作りをした小屋で、しばらく一人暮らしすることすらも可能そうな場所だ。顕現したての頃に見つけてから、掃除などの手入れを続けていたそこを獅子王くんは瞬きしてから戸惑いがち見つめて、息を飲んで小屋へと入った。
「広いな」
 畳の上に座って、獅子王くんはそう言った。あっても六畳ぐらいだろうか。そんなに広くないのに獅子王くんはそう言った。でも、逃避行ならぴったりだろうと僕は言って彼の隣に座った。そこからは外が見える。茂る森を遠目に、近い位置には前に種を蒔いたスミレが花を咲かせていた。
「気に入ったかい」
 静かに問いかければ、獅子王くんは僕の手をぎゅっと握って、でも前を向いたまま頷いた。
「まるで光忠の心の中に入ったみたいだ」
 普段呼ばない呼び方で夢現のようなことを言うから、急に彼がそこにいるか不安になって、僕は彼の手を痛いぐらいに握り返した。案の定、獅子王くんは痛いと小さく呟いた。どうしたんだよと僕を見上げる獅子王くんの目が揺れていて、どうしてか、そうさせたことに心が弾んだ。
 ああ、僕は案外。
「燭台切……? 」
「光忠って呼んでくれないのかい」
 え、と戸惑う獅子王くんに、さっきは無意識だったのかと驚きながらも、僕は言うべきことを告げるために口を開いた。
「僕はきみのことが好きみたいだ」
 ねえ、獅子王くんはと問いかければ、彼は一気に顔を真っ赤にして、そんなのもう伝えたと俯いてしまった。だから、ちゃんと言葉してほしいと握った手を緩めて指を絡めれば彼は浅く頷いて顔を上げた。
「おれも、みつただのこと、すき」
 緊張からか、たどたどしい口調で愛を告げた口に、良い子だねとキスを落としたのだった。

 嗚呼きっと、ここは二人にとって胎内よりも優しい場所になるのだろう。

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