膝→←獅子/逃避への不安と恍惚
タイトルは 識別 様からお借りしました



 逃避行をしようぜ。夢の中、そう言って手を伸ばしてきた獅子王のその手に手を伸ばした。その手を掴んで、俺はその青年を追い越して、船頭は任せろと船を漕いだのだった。

「おはよう」
「……兄者、早いな」
 珍しいねと兄者は笑った。瞬きをして目をこすって、俺は息を吐いた。ため息かいと兄者が言うが、答えるのは良くない気がして曖昧に濁しておいた。
「今日の朝ごはんはシャケだって」
「どうして知ってるんだ? 」
 ふふ、どうしてだろうね。そう笑った兄者に、厨当番をあまり茶化してやるなとため息を吐いた。
 寝間着から軽く着替えて井戸に向かう。砂利を下駄で踏みしめながら歩けば、井戸の周りに短刀達が集まって顔を洗っているのが見えた。あの井戸は満員だね、とすっかり内番着に着替えた兄者が声をかけてきた。向こうの井戸は空いてるよ、兄者は意味ありげに微笑んで食堂へ向かった。俺はその笑顔が引っかかったが、兄者が言うなら空いているのだろうとそちらの井戸へ向かった。

 裏庭のもう一つの井戸は少し遠い。物好きな奴が利用することが多いそこに、長い金色の髪を揺らして顔を洗う青年がいた。顔を上げ、手ぬぐいで拭うと水がまだ残る桶を見つめて、持ち上げた。そしてザパッと頭から被った。
「おい」
 ぶるりと体を揺らし、流石に寒いと呟いた青年に、また声をかけると彼は驚きながら振り返った。
「ひざまる?! 」
「そんなに驚くことか」
 いや別にと獅子王は目をそらした。俺はため息を吐いて近づき、手ぬぐいで青年の顔と頭を拭いた。ガシガシと拭くと痛いと文句を言う。しかし嫌ではなさそうなのでそのまま髪の毛の水分をしっかり拭い取った。
「それは寝間着か? 着替えて来い」
「いや、寝間着じゃないけど、濡れたし着替えてくる」
 ありがとうと獅子王はぎこちなく笑ってその場から立ち去った。その背中を見つめていると、ふと夢の中の獅子王を思い出した。あまり会話することのない俺に、夢ではなぜ逃避行など提案したのか。考えても仕方がないことなのですぐに思考を止めて、桶に水を汲んで顔を洗った。手ぬぐいはかの青年の為にしとしとと湿っていた。

 いいゆめでもみたのですか。今剣がひょいと質問してきた。場所は馬小屋、馬当番は俺と岩融。今剣は休暇のはずだ。
「別に良いものではなかったが」
「そうですか。それにしてはじょうきげんですね」
 そうだろうか、俺は首を傾げた。夢は見たが、特に良い夢ではなかっただろう。逃避行なんて夢物語を夢見るのは年若い子供たちぐらいなものだ。むしろ少し気恥ずかしい気持ちがした。
「てっきり、すいたひとにあえたのかとおもいました」
 思わず今剣を見ると、今剣はにこりと笑っていた。好いているなど、まさかそんなことはない。だって俺は獅子王のことをこれっぽっちも知らないのだから。
 そう、俺は獅子王のことを何も知らない。
 せいしゅんですね。今剣はそう言ってその場を去ってしまった。青春など、古い刀の俺には縁がない筈なのに。

 夕方、内番を終えて湯浴みをした。一度部屋に戻るかと歩いていると、ふと庭で獅子王が誰かと話しているのが分かった。その相手は厚藤四郎で、確か同じ場所に保管されている仲間だった筈だと記憶していた。片方は短刀にしては背丈のある少年。片方は太刀にしては細身で若い見た目をした青年。どうしてか、ざわりと心が揺れた。
 クスクス、獅子王は笑っている。厚も笑っていた。少年がぽんぽんと青年の肩を叩く。青年はその手を笑いながら受け入れていた。ざわり、ざわり、不快だった。
 じっと見つめていたからだろうか。獅子王がふっと振り返って目を見開いた。ひざまる。そんな風に口が動いた。不思議そうな厚が声をかけるが、獅子王はごめんと謝ってからその場を逃げ出した。俺は駆け出していた。

 走り、走り、彼を捕まえる。腕を掴み。ぐいと力を込めて引っ張った。均衡を崩し、彼は後方の俺へと倒れこんだ。抱きとめ、そのまま抱き締める。青年の体は熱かった。
「やだ、はなして、なに」
 声が震えていた。怯える獅子王を抱きしめたまま動かないでいると、彼はいくばか落ち着いたらしかった。
 何かあったの。そう問いかけられて、俺はそんなものと答えた。
「逃避行するんだろう」
 カッと青年の体が熱くなる。耳が真っ赤に染まっていた。
「あれは! 夢の中だから、本当にしたいわけじゃない! 」
 ていうか何で覚えてるんだよと俺の腕を掴んだ獅子王に、覚えていることだってあると強く抱きしめた。
「いたい」
「どこかに行きたいのか」
「そういうわけじゃないって」
「共にいたいのか」
 はくはくと獅子王が口を開閉している。そうだなと俺は彼から手を離し、向かい合って彼の頭を撫で、そのまま手を繋いだ。
「今度、共に出かけてみるか。美味い甘味屋を知っているんだ」
 そうして笑って見せれば獅子王は真っ赤な顔で頷いた。その愛らしさに、なるべく早く実行しようと決意したのだった。

 嗚呼、小さな逃避行が楽しみだ。

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