いちしし/選択/救われたいのに救われない。愛しているのに、愛されない。あなたはまぶたの裏にいる。
!擬似兄弟!
!記憶喪失!
なんでも食べれる方向けかもしれません。



 遠い過去の記憶があった。そこではあなたと私が恋仲で、好き合っていた。手を握ればほころぶような笑みを浮かべ、耳を触れば恥ずかしそうに頬を染めた。あなたがとても幸せそうにしてくれるから、私も幸せになれたのです。
 なのに、どうして。
「お、初めまして! お前がいち兄って刀か? 」
 どうして初対面だと言うのですか。

「記憶障害、なのかもしれないってさ」
 近侍の加州殿が難しい調査の果てに力尽きた主に代わって報告してくれた。
「一時期の記憶がない、っていうより一期に関する記憶の記録が見当たらないらしくて」
 がつんと殴られたような衝撃を感じた。困った顔をする加州殿に何かを言う余裕がなくて、黙り込む。あの場所にいた頃の記憶が無いといわれた方がずっとましだった。自分の記憶だけが抜け落ちているだなんて、そんな口に出すのも恐ろしいような事実が起きていることが、到底信じられなかったのだ。
 加州殿は主が何としているからと執務室に戻った。閉じた襖の奥から主を叩き起こす彼の声がした。私はそれを聞きながら呆然としていたが、やがてふらりと立ち上がってその場を後にした。
 自室で休もうと歩いているとふと前から軽装の刀が走ってきた。
「一期! かくまってくれよ! 」
「ししおう、どの? 」
 鶴丸と短刀と鬼ごっこしているんだと駆け寄ってくる獅子王殿に、私はぐっと詰めていた息を吐いて、部屋に来ますかと誘った。
 私の部屋は相部屋であり、同室なのは歌仙殿だった。彼は自分の給与で買い集めた小物の手入れをしていて、やあ珍しいねと獅子王殿を見て驚いた顔をしていた。獅子王殿はお前は歌仙兼定だろと言って、自分は獅子王だと改めて挨拶をした。そして小物を熱心に見つめ始める。その様子に歌仙殿は意外そうに、興味があるのかいと言った。
「こういうの、結構好きだぜ」
 よかったら手入れの仕方を教えてくれよと彼は笑い、歌仙殿は今度用意を整えてから教えようと上機嫌に答えた。
 私はそれを見て、思い出す。あの頃、同じ場所に集められた宝物を見て回ったあの頃を。今のように目を輝かせて、嬉しそうに付喪神と触れ合っていた様子を。その頃の記憶が、彼には無いということも。

 それから、獅子王殿は私によく話しかけてくれた。月日が経つと、弟たちに混じっていち兄いち兄と慕ってくれるようになった。弟が増えましたなと明石殿が笑っていたけれど、私はただ曖昧な顔をするしかなかった。平野や鶯丸殿、鶴丸殿はそっと見守っていてくれたが、それもどこか辛かった。彼はもうあの頃のように幸福そうには笑ってくれないのかと夜毎に考えた。

 そんなある日のことだった。いつもの内番後に部屋へと戻れば、歌仙殿は居らず、獅子王殿がちょこんと座っていた。私を見て、いち兄おかえりと明るく笑った。
「歌仙がもうすぐいち兄が帰ってくるから一緒に食堂に来ればいいって」
 時間までまだあるけどと笑った獅子王殿は風呂にでも行くかと話しかけてくれる。私が何も言えずにいると、獅子王殿は何か考え込むようにしてから、そうだと言った。
「少し休むか? 膝枕とかどう? 」
 乱が見てた雑誌にあったと言いながら正座し、膝を叩く。その行為に、どうにかして足がしびれてしまいますよと言えば、それなら縁側に行くかと彼は部屋の前の縁側に出た。足を投げ出すように座り、少しだけ振り返って私を呼ぶ。その声が少しだけ懐かしくて、ふらりと吸い寄せられるように頭を預けた。決して柔らかいわけでは無いのに、こんなことは昔にもなかったのに、どうしてか愛おしい気持ちで胸が埋め尽くされた。黙っていると、獅子王殿はさらりと私の髪を解くように撫でてくれた。
「いち兄はいつも頑張ってるから、今はおやすみ」
 柔らかな声に目を開くと、私は彼の顔に釘付けになる。だってそこには、幸福そうに笑う獅子王殿がいたのだ。あの頃とは違うけれど、本質は何も変わらない。幸せを表現した、柔らかな笑みは私の心を優しく食い破った。ぽろり、ぽろりと涙が溢れた。獅子王殿が驚いて慌てたが、止まらなかった。
 私と共にいない今だって、獅子王殿は変わらず幸せなのだと、私はようやく知ったのだ。


 それから、私は獅子王殿と一から関係を作ろうと努力した。恋仲にならなくてもいい。ただ、近い刀のいない彼にとって良い兄になれればいいと日々を過ごした。獅子王殿は態度が少し変わった私に最初こそ少し驚いていたが、すぐに慣れて変わらずに頼ってくれるようになった。
 そうして一年。彼の兄として私は最善を尽くした。もちろん、弟たちの兄としての務めもきちんと果たしたつもりだ。周りも獅子王殿がいち兄と呼ぶことを受け入れてくれた。何もかもが順風満帆だった。筈だった。

 ある日、主と加州殿が私を呼んだ。それは獅子王殿の記憶を取り戻すことができるかもしれないという報告だった。代償も後遺症もなく、取り戻すことができるとのことだった。
 だけれど、私は戸惑った。だってそれは今の関係を壊してしまうことに他ならないからだ。
 時間をもらい、自室に戻るまでの間に考える。兄としての自分を捨てて、彼と恋仲になるのか。あの頃の記憶が戻ったとして、獅子王殿は兄として慕っていた私と再び恋仲になろうとしてくれるだろうか。彼は、記憶を否定しないだろうか。
 ぐるぐると考えていると自室に着いていた。明かりの灯る部屋に、歌仙殿がいるのかと障子を開けば、きらりと金色の髪が揺れた。
「いち兄! 」
 獅子王殿がそこにいた。私は嬉しそうに笑っている彼にふらりと近寄って、抱きしめた。どうしたんだと彼は慌てている。そこに照れはない。恋情はない。弟として、兄を心配していた。
(ああ、くるしい)
 今の関係はとても心地が良い。不確定の未来を望むより、ずっと気が安らかだ。もし記憶を取り戻したら、こうして彼が心を許してくれることはなく、恋仲になれるかなどわからない。
 それでも、こころが痛かった。
「獅子王殿、獅子王殿」
「どうしたんだよ、いち兄」
 名を呼び、強く抱きしめる。今だけは、今だけは頼りない兄の姿を許してくださいと呟いた。獅子王殿は、笑った。
「いち兄は頑張りすぎだって。休んでいいぜ」
 抱き枕になろうかと笑うから、私は抱きしめたままのくせにちゃんと部屋で寝なさいと言った。
 彼がもちろんと笑う。私は声が震えてないかが不安だった。どうにか、彼にこの不安が伝わらなければいいと願った。
 夜の中、遠くで鵺の声がする。選択せよ、と彼は私に告げていた。

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