髭獅子/唇だけが覚えている/昼から夜にかけて。夜毎にやってくる髭切さんと、それに初めて気がついた手遅れ獅子王さんの話。


 知ってること、覚えていること、本当のこと。
 俺にとって、髭切という刀は憧れとか羨望とか、そういう対象だった。何が理由だと言われれば、すべてを語る時間が無駄だと思った。じっちゃんのこと、一族のこと、全てを飲み込んで、ただ憧れなんだと笑って返した。
 だからと言って近寄り難いとは思わない。必要そうなら手を貸すし、呼ばれれば応える。でも、獅子王と俺の名前を呼ぶその声色が柔らかい時は少しだけ嬉しかった。優越感というものだよ、俺を見た燭台切がそんな事を言ったけれど、そうではないと感じた。否、優越感なんてものを抱いてはいけないのだ。だって髭切にとっての一番はかの一族なのだから、優越感なんてものは抱けない筈なのだ。そんな風に返事をすれば、燭台切の隣にいた大倶利伽羅に睨まれた。何か気に障ったのだろうか、分からなかった。
 そういえば、髭切はたまにふらふらと居なくなる。そうなると俺は膝丸と二振りで彼を探した。居そうな場所を二手に分かれて探して、見つけるのは大抵膝丸だった。流石だなと思いながらも、なぜか寂しくなる。絆が強いのは弟の方に決まってるのに、少しだけ心に穴ができたような気がした。

 今日も膝丸と髭切を探した。二日ぶりの捜索で髭切を見つけたのは、珍しいことに俺だった。安堵と歓喜がない交ぜになりながらも、なんとか何でもない言葉を吐き出して彼に手を伸ばす。髭切は微笑んで俺の手を掴んだ。立ち上がった髭切の、座っていたそこは離れの縁側だった。おやつの時間、暖かな日差しが心地よい場所だ。でもそろそろ初夏だから熱中症に気をつけてくれよって笑えば、そうだねと髭切は笑んだ。そうして、何かを続けて囁いた。
「え、なに? 」
「……ううん。ただ、もう少しかなって。」
 そりゃ、夏はもう少しだろう。でもどこか、それだけじゃないような気がした。

 おやつを食べて、軽く体を動かして、部屋にごろりと寝転がった。昼寝でもしようと思ったのだ。鵺はどこかに出かけているから、植物で編んだ枕に頭を乗せて目を閉じた。開けっ放しの出入り口からさらさらとした風が吹き抜ける。僅かな夏の匂いに、夏を想った。人の混む時、博物館の中。誰とも喋れなかったし、意識だって無かったけれど、それでも人と触れ合えたような錯覚は俺を歓喜に導く。
 ふと、頭を撫でられた。でも眠たくて、俺はただ、ごめんと呟いた。今は眠いと伝えれば、相手が微笑んだ気がした。
「前は野生の生き物みたいだったのにね。」
 そうして唇の端に触れた柔らかな感触に、俺はどこか安堵した。何故だろう、俺はこれを知っている。
「またね。」
 彼は去っていく。その気配が掴み辛くて、待ってくれと言って起きたいのにとても眠たかった。

 夜になった。就寝の準備を整えて、布団に寝転がる。目を閉じて考えるのは昼寝の時に来た誰かだ。彼は誰だったのだろうかと、ずっと引っかかっていた。
 考えても分からないので俺は照明を消した。スイッチ一つで操作して、布団に潜り込む。そろそろ夏用の布団を出してもいいかな、なんて考えながらうつらうつらとしていると、するりと戸が開く気配がした。驚いて目を開き、そのひとを確認してから何とか起き上がった。
「髭切さん……? 」
 夜にどうしたのかと問いかけたいのに、どうしてか喉の壁と壁が張り付いてしまったみたいで、名を呼ぶ以上の声が出せなかった。口をパクパクと動かして、俺は後退しようとした。
 髭切は夜を背負って、淡い月明かりに浮かんでいた。彼は寝間着に羽織を着て俺の部屋に侵入してくる。確かに、しっかりとした足取りで。
 足が震える。彼は優しい笑顔をしているのに、何でこんなにも恐ろしいのだろう。自分の事なのに全く分からなかった。
 憧れのひとの、その指先が俺の頬を撫でた。壁があるわけでもないのに動けなくなって、俺は唖然と彼を見つめた。怖いのに、目はそらせなかった。
「まだ、野生の勘が残ってるのかなあ。」
 そうして口付けられる。開いていた口に注ぎ込まれる神力に苦しくなる。体が震え、痙攣する。充分に練度が上がっている髭切の、強すぎる神力は俺を食い潰そうとでもするようだった。
 彼は口を離すと俺を抱き寄せて、背中を撫でた。何も考えられなくなりそうな頭の片隅の、冷静な部分でどうにかこの場を切り抜けなければと考えた。でも、そんなことは出来っこないのだとすぐに結論付けてしまった。だって震えは止まらないし、髭切は変わらずに神力を注ぎそ込もうとする。こんなの、抜け出すなんて無理だ。
 それでも、震える口で俺は問いかけた。
「な、んで……。」
 どうしたこんなことをと疑問を吐き出せば、彼はまるで日の下にでも居るかのような笑顔を見せた。
「欲しくなったからね。」
 だから受け止めてねと、彼はまた顔を近づけた。恐ろしいのに、それを止めることが出来なくて、せめてもと俺は目を閉じたのだった。


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