うぐしし/ノスタルジー、れべる1/不思議な話/上機嫌な獅子王さんと特別仕様の鶯丸さん


 人の気配がする、古い商店街。思考も視界も霞んでる。
 ふらふらと歩いて進む。古ぼけた鞠を売る店。ちょっと覗いた店内では鞠だけでなく香も売っているらしかった。けむたい匂いを身に纏って、振り返れば鞠屋の向かいには靴屋があった。草履ではない履物を売る店は少しだけ興味を引かれたけれど、今はいいやと歩くのを再開した。緋毛氈(ひもうせん)と赤い番傘で飾られた茶屋で勝手に茶を飲んだ。一応勝手に予想した代金を番台に置いて再び歩きはじめた。
 ふらふら、ふらふら。霞む世界はどうにも古びている。たくさんの人の気配がするが姿は見えない。どうやらまやかしにすらなれない人魂ばかりらしい。そんな事を考えていたら躓き(つまずき)そうになった。怒られたみたいだ。悪かった。

 殆どの建物が霞む視界の中で次にちゃんと見えたのは筆記具の店だった。万年筆というものを売っているらしいと商品の説明書きを見て知った。ふうんと手に取ったのは俺みたいな黒と金の万年筆。何故だか、あのひとに持ってほしいなと思った。ならば俺はあのひとみたいな筆記具をと探せば、すぐに穏やかな緑色をした万年筆を見つけた。手に取って購入しようとして、はたと気がつく。これはいくらするものなのだろう。
 相場が分からないと困れば、商品の説明書きにすらりと数字が浮かんだ。どうやらそれが値段らしい。手持ちで間に合う値段だったのでほっとしながら代金を店の奥にある番台に置いた。
 その時、おいと声が聞こえた。次に獅子王と俺の名を呼ぶ声もした。そろそろ戻る時間かと、いつの間にか愛着を持ち始めていたこのまぼろしの世界を名残惜しい気持ちで見つめた。霞む世界の中でわりとしっかりとしている番台は、きっと一番人がいた場所なのだろう。獅子王、はっきりとそう聞こえてぐらりと体が揺れた。ああ、もうさよならだ。
(そういや、茶、飲んじゃった。)
 まあいいや、俺もここと似たようなものだから。そんな風に不安をごまかして、俺は声に身を委ねた。

 呻く。体を揺さぶっていた手が止まった。目を開けば、少し焦った顔をした鶯丸がいた。微笑みを浮かべれば、彼は安心したような顔に変わった。
「人の世の夢に行っていたか。」
「ああ、きっと名もない誰かたちの記憶だ。」
「戻って来ないかと思った。」
「そんなわけないだろ。俺が鶯さんを置いてくなんてわけ無い。」
「そうだろうか。」
 鶯丸はそっと俺の右手を取って口付ける。そして何かに気がついたらしく、眉をひそめた。無言で咎めるような目を向けられて、俺はははと笑った。
「取り入れた、だろう。」
「茶を一杯な。」
「無茶をする。」
「忘れてたんだ。」
 飲まれてたんだと情けないなと笑えば、鶯丸は優しい顔に戻って、俺の手を置いて、俺の頭を持ち上げるようにして同時に身を屈めた。口付けを受け入れ、送られてきた彼の神気を飲み込んだ。口を離すとまぼろしの夢が口の端からとろとろと出ていった。濡れてもいないのに口元を拭って、それからへらりと笑ってみせた。
「ありがと、鶯さん。」
「これぐらいどうという事も無いさ。」
 それよりも、もう無茶はするなと。そう優しい声に心配を滲ませて言うものだから、俺は幸せな気持ちで約束を結んだ。

 ふと、自分の左手に何かがあることに気がつく。持ち上げればそれはあの黒と金の万年筆と落ち着いた緑色の万年筆だった。冥土の土産かななんてクスクス笑ってしまってから、困ったような顔をしていた鶯丸に黒と金の万年筆を差し出した。あげる、そう言えば彼は息をひとつ吐いてから、微笑みを浮かべて受け取ってくれたのだった。
「全く、今日は獅子王に振り回される。」
「普段自分が振り回していることに気がついてたんだな。」
「獅子王は俺のだからな、当たり前だ。」
「なんだそれ。」
 ははっと笑って、穏やかな気持ちで彼と彼の手の中にある黒と金を見た。俺の分身みたいな何かがそこに在る気がした。
「じゃあさ、今日は特別だな。」
 嬉しくって、喜ばしくて、俺はそのことを目一杯伝えた。そしたら鶯丸は少しだけ驚いたように目を見開いて、やっぱり微笑んでくれた。
「まあ、そういう日も良い。」
 目一杯、お前に振り回されよう。そんならしく無いことを言うから、俺は彼に抱きついてははと笑いながら、嬉しい気持ちが全て彼に伝わってほしいと願ったのだった。
 嗚呼、手の中のウグイス色が愛おしい。

- ナノ -